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「嘘つきたちの幸福」第2幕

第1幕はこちら↓
「嘘つきたちの幸福」第1幕|青野晶 (note.com)

■第2幕 第1場
平たい屋根付きのランドー馬車を、二頭の馬が引いていた。大きな四つの車輪に乗った底の丸い車体は木製で、屋根には火の鳥と燃え盛る炎の意匠が黄金で施されている。高い御者台には従者が一人。馬車の窓には赤いベロアのカーテンが揺れていた。カルロ王子がシャワル城に到着したのは、高い陽の煌めく夏日だった。
「腰が、腰が痛い」
「カルロ王子! わざわざこのようなところに……恐れ多きことでございます」
 出迎えたシャワル城の主は恐縮した。まさか王族を城に迎える日が来ようとは思っていなかったのである。
ここ数ヶ月、アビー王子に見慣れていた城主はしげしげとカルロ王子を眺めた。本当に似ている。日に焼けた肌、まっすぐに通った鼻筋、大きなヘーゼルの瞳、漆黒の髪。ほとんどアビー王子と話している気になって、城主は少し混乱してきた。
「俺にそっくりだというバースの王子を一目見たいと思ってな。好奇心で来てしまった」
「アビー王子でしたらすでに応接間でお待ちです」
「そうか。ではさっそく、この俺そっくりの美しい顔を拝ませてもらおうじゃないか」
 旅に疲れた腰をさすりながら、カルロ王子はシャワル城の応接間へと歩きだした。

■第2幕 第2場
 カルロ王子がシャワル城に到着する少し前のこと。アビー王子とイーシャは、シャワル城の主に応接間へ案内された。城主の後ろに続き、アビー王子とイーシャは最上階を目指す。
竜の骨のようにうねる階段の手すりは、光沢が出るまでよく磨かれていた。アビー王子とイーシャは感心した様子で上の階に続く階段を見上げる。その先に、カルロ王子と面会するための応接間がある。二人は息を飲んで応接間のドアを引いた。
 応接間の空間を作るすべてのラインは曲線だった。天井も壁も窓も。天井は巨大な白い巻貝のように渦巻き、その渦の先端に水晶のシャンデリアが下がっていた。壁は天井の渦に巻き込まれているかのように湾曲している。縦長に風景を切り取る長方形の窓は緩やかな流線形を描いていた。面も内側外側にうねっている。ガラスの水面のようだ。
 応接間の中央には重工な木製の円卓があった。円卓の中央には銅製の馬の置物が飾られ、それを囲むように色とりどりの料理が並べられていく。カルロ王子がもうすぐ到着するらしい。アビー王子とイーシャは次々に運ばれてくる異国の料理にいちいち感嘆していたが、円卓に皿が載っていくほど緊張してきた。まもなく午後二時である。
アビー王子は落ち着かない様子で椅子にかけた。イーシャは「アビー王子、しっかりなさってください」と繰り返し耳打ちするが、アビー王子の隣にいられることは嬉しかった。
「僕はカルロ王子とちゃんと話せるだろうか? 変だと思われるようなことは言わないだろうか?」
「安心なさってください」
「イーシャ、僕が何かカルロ王子に変なことを申していたら」
「大丈夫ですから!」
 その時、扉がノックされた。
 両開きの扉が従者たちによって開け放たれる。廊下から応接間へと一歩を踏み出したのはカルロ王子だった。赤いジャケットの袖は長く、黄金の刺繍が施され、レースまで縫い付けられている。ジャケットの前合わせにはカーネーションの花を象る刺繍が大胆に施され、ビーズ型に加工された宝石がふんだんに縫い付けられていた。
 カルロ王子は円卓の向かい側にいるアビー王子にすぐに気付き、驚いた。アビー王子がベリア趣味の服を着ていたからというのもあるだろう。まるで二人の間に透明の鏡が置かれているような錯覚を覚えた。しばらく、二人の王子は互いを見つめ合って固まった。「カルロ王子」と城主に小声で呼ばれ、ようやくカルロ王子はアビー王子の向かいの席に腰をおろした。
やあ、そっくりではないか! と、カルロ王子がまさに言いかけたその時、カルロ王子はアビー王子の隣に従者が控えていることに気付いた。イーシャだ。カルロ王子はアビー王子を見、イーシャを見、視線をせわしなく行ったり来たりさせたあと、イーシャに目線を定めた。イーシャは怪訝な顔つきでカルロ王子を見返す。
 カルロ王子は大げさに両目を見開くと左胸をおさえて椅子から転げ落ちた。向かいに座っていたアビー王子は驚いて立ち上がったけれど、その隣でイーシャは半分呆れた顔をしていた。
おちゃめな王子のヴァリアシオン。イーシャに一目惚れしたカルロ王子の軽やかでコミカル、でも必死な求愛の舞が始まる。イーシャにはまったく相手にされず、カルロ王子は床に倒れる。
助け起こそうとしたアビー王子をカルロ王子は制止した。
「大丈夫だ。心配にはおよばない」
カルロ王子は弾みをつけて両脚でしっかり立ち上がると、イーシャに視線を送り前髪をかきあげた。イーシャは黙ったまま目を細める。
「ほ、本当に大丈夫ですか」
 アビー王子は本気で心配した様子でカルロ王子を気遣う。しかしカルロ王子に具合の悪そうな様子はない。しいて言えば、頬や耳が上気している程度のことだ。
 イーシャは咳払いすると隣に座っているアビー王子を横目で見た。
「ああ、そうだ、ええと」
 何から話そう、とアビー王子は大きな瞳でイーシャに助けを求める。その間もカルロ王子はイーシャから目を背けず、喉が乾くのかローズティーを落ち着かない様子で飲み続けた。イーシャは諦めたように吐息した後、明るい表情を作って言った。
「噂にお聞きしました通り、アビー王子とカルロ王子はそっくりですわ」
 ああ、そうだ、それを言えばいいのだった、とアビー王子は思って、こくこくと首肯する。
「ああ、本当に。僕たちはそっくりです。まるで鏡の中で、違う自分を見ているような気分ですよ」
 アビー王子はそう言って「今の表現は変じゃなかったかな?」とイーシャに耳打ちした。イーシャは小さく口を開いたが言うのはやめた。カルロ王子はまるで上の空で「ああ……そうだな……」とつぶやいている。どうやら聞いていないらしい。カルロ王子の瞳にはイーシャが映っていた。
アビー王子に見向きもしないカルロ王子に、イーシャはだんだん腹が立ってきた。
「僕たちは遠い兄弟だそうですね?」
 アビー王子はカルロ王子にそう言って、また隣のイーシャを見た。
カルロ王子の様子が変だけど、これで大丈夫? 変なこと言ってない?
 アビー王子はイーシャに念を送る。
イーシャは顎先で小さく何度かうなずいてみせた。
カルロ王子は相変わらずイーシャを見つめるのに忙しく、アビー王子の話は片耳でしか聞いていない。
「え、ん? 兄弟? まあ、そんなことは今どうでも……」
「カルロ王子」
 イーシャは大きな瞳に気をみなぎらせてカルロ王子を見た。カルロ王子は左胸をおさえて勢いよく立ち上がった。
「な、なんでしょうかっ?」
「ああ、ええと、カルロ王子……?」
 アビー王子はカルロ王子と会話が成立しないことに困惑し始め、せわしなくカルロ王子とイーシャを交互に見た。
 イーシャだけが冷静に背筋を伸ばしたまま淡々と言葉を続ける。
「カルロ王子、単刀直入に申しますが、バースの王権を復興したく思います」
 イーシャの踏み込んだ一言に、アビー王子は頬を引き締めた。そうだ。それを言うために、この機会を設けたのだ。もちろん、この本題はアビー王子が切り出すつもりだった。しかしアビー王子がもたついている間に、イーシャがこの任務を果たした。まったくイーシャには助けてもらってばかりだと、アビー王子は少し情けなくなってくる。
「どうか、ベリア王国の軍をお貸しください。バース王国の首都スファンを奪還し、王権を復古するために」
 イーシャの言葉に、カルロ王子は急に表情を引き締めた。しかし右手は薄パンをつかんでいる。このシャワル城において昼食に手をつけようとしないのはアビー王子とイーシャだけだった。
「まあ、そのような話になるだろうなと思っていた」
 カルロ王子は「食べないのか?」とイーシャにトマト・キュウリ・オリーブオイルをまぜて作ったスープを勧めようとしたが、城主に言われたことを思い出し、自分の手元に引き寄せた。
バース人は夕飯しか食べないと聞いたが、本当だったのか。
カルロ王子はそう思って目を丸くする。
 イーシャは背筋を伸ばしたまま、食事には手をつけずカルロ王子をまっすぐに見て言った。
「バースとベリアはもともと同じ国でございます。両国が不可侵で平和が保たれてきたのは、王家が兄弟であるからです。しかし革命家ムアにバースをのっとられた今、ベリアの平和も長く続くとは限りません」
 イーシャは正直、食事中に話すような内容ではないと思っている。しかしどうやらベリアでは、起きている時間は軽食をつまんでいるのが普通であるらしいので仕方がない。「軽食」とは聞いていたが、カルロ王子は薄パンやスープにとどまらず、魚介類と豚肉の炊き込みご飯やスティックドーナッツにまで次々と手を伸ばすので、イーシャは(軽食……?)と柳眉をひそめた。
「うむ。それは俺も父上も心配していたところだ」
 喉に詰まらせたごちそうを白ワインで流し込むと、カルロ王子はようやくイーシャに答えた。
「バース王家がムアに倒されたとなると、ムアが組織した軍が我が国まで攻めてくる可能性がある。ベリア王家はバース王家と平和条約を締結したのであって、ムアと交わしたわけじゃないからな」
「私どもとしても、バースのベリア侵攻は避けたいと考えています」
 イーシャは潤む瞳を輝かせてカルロ王子を見ていた。
 どうかお願いします、とアビー王子もイーシャの隣で頭を下げた。
 カルロ王子はアビー王子の方は見ず、指についたスティックドーナッツの砂糖を舐めている。
「安心するといい。俺も父上も同じ考えだ。すぐに軍を組織させよう」
「本当ですか!」
 突然顔を上げて立ち上がったアビー王子に、カルロ王子は文字通り飛びあがった。
「ななななんだ、びっくりした」
 まるで今アビー王子の存在に気付いたかのような顔をする。カルロ王子はイーシャに目を奪われていただけで、イーシャの隣にはずっとアビー王子がいたのだが。
ようやく緊張が解けたらしいアビー王子は、両手をカルロ王子へと差し伸べた。アビー王子はしっかりと両手でカルロ王子の手をとって誓う。
「僕はきっとバースの王権を取り戻します。かの革命家ムアからスファン王宮を取り戻し、バース・ベリア両国の平和を永遠のものにしましょう」
カルロ王子は肩をすくめて苦笑いした。アビー王子の言動は大仰だが、きっと自分がアビー王子の立場であったとしても、こうしたのだろう。カルロ王子はアビー王子と交わした約束を実現するために、ベリア王国の首都コルーへ使いを走らせた。

■第2幕 第3場
 カルロ王子がアビー王子をタスチェ(夕飯の前のつまみ)に招いたのは、そのわずか二時間後だった。
アビー王子とイーシャはアビー王子の部屋のバルコニーにいた。日の暮れる砂漠の向こうにはバース王国がある。たとえここからは何も見えなくても。砂の海の向こうには二人の祖国があるはずだ。
西の地平線に輝く夕日は赤金の宝玉のようだった。空は宇宙を透かし始めている。風が作る砂の畝には影が落ちて、刻々とその色を深めていった。
「カルロ王子が、イーシャもぜひタスチェに来てほしいとのことだけど」
アビー王子はイーシャの横顔を窺う。
イーシャは砂漠の陽に目を煌かせ、唇をまっすぐに結んでいた。
「私はアビー王子の従者の身。そのような場所には……」
「しかし先ほどは昼食の席に」
「あれは、カルロ王子へのご挨拶でしたので」
「いや、でも、どうしてもイーシャを誘ってほしいとカルロ王子が」
「アビー王子」
イーシャは声をとがらせた。
イーシャは王宮で様々な男性からこういう目を向けられてきた。だからカルロ王子の心もなんとなくわかる。カルロ王子の目当てはイーシャだ。しかしイーシャが思いを寄せるのはアビー王子だけである。十四歳で王宮に仕えてこの五年、その気持ちに変わりはない。
身分違いの恋だってことはわかっているわ。打ち明けるつもりなんかない。なかった。でも……。
今、アビー王子は国を失った王族だ。アビー王子は今、イーシャに一番近いところにいる。不謹慎であることはわかっている。けれど今なら、国を失って「王子」の地位が有名無実化した今なら、イーシャはアビー王子とつり合えるかもしれない。と、思う。
ところがこのアビー王子、この通りあまりにも察しが悪いのだった。
「とにかく、私は行きません」
「そうか……」
 アビー王子はカルロ王子のがっかりする顔を思い浮かべ、弱ったように頭を掻いた。
「少しだけでもだめかな?」
「行きません!」
 イーシャは腕を組んでアビー王子に背を向けた。
 まったくどうしてアビー王子は……。
 イーシャはそう思いながら、アビー王子のお見合いの日のことを思い出していた。
「結婚相手を選ぶため」と国王が他国から美姫を招待して舞踏会を開いても、主役であるアビー王子はなぜかいまひとつパーティーの趣旨を飲みこんでおらず、会場をうろひょろしていた。アビー王子はダンスに誘われるのを待つ姫たちのことも、話しかけてくる姫たちのこともかわし続けた。パーティーが終わった後、アビー王子は慣れない夜会服を脱いでイーシャに渡した。
「どうもこういう舞踏会は僕には不向きなんだ……」
 寂しそうに微笑むアビー王子に、イーシャは言った。
「どうして姫様たちと踊らないのですか? ダンスが嫌いなのですか?」
「まさか」
 そう言うなり、アビー王子はイーシャの手を取り、流れるようなステップを踏んで左腕を高く上げ、イーシャの腰に触れるとその細い体をくるっと一回転させた。イーシャの手をとったままひざまずき、笑顔を見せる。イーシャは驚きアビー王子を見つめた。
「大好きだよ」
 「ダンスが」、にかかる言葉であるとわかっていても、イーシャの動悸と頬の上気はしばらくおさまらなかった。
……あれから革命が起きて、アビー王子をシャワル城まで護衛して今日に至る。
イーシャはもうほとんど信じていた。アビー王子の心にも、イーシャと同じ想いが芽生え始めているのではないか、と。
それがこの有様である。アビー王子はカルロ王子とのタスチェに、なんとかイーシャを同席させようとするのだった。できるものなら詰め寄りたい、とイーシャは思う。
「アビー王子。カルロ王子はおそらく私に一目惚れをなさっています。茶会に私を呼べというのはそのためです。アビー王子は、アビー王子はそれでいいのですか? カルロ王子に私をとられてもいいとお思いなのですか!?」
 ……などとは、まさか言えるはずもない。カルロ王子がイーシャに一目惚れしたということも、アビー王子がイーシャに恋心を寄せ始めているということも、イーシャの仮説にすぎなかった。いくら十四歳から宮仕えしている才女といっても、イーシャは人の心まで読む術は持たない。
「とにかく、私は行きませんので!」
 イーシャは真っ赤な頬を膨らませるとアビー王子の部屋を出ていった。
アビー王子はイーシャを怒らせたと思い、おおいにうろたえた。イーシャはいつも優しく、親身になってアビー王子を支えてくれる。スファン王宮にいた時期も、亡命の旅路でも、シャワル城での生活が始まってからも。それなのにどうしたことだろう。耳まで真っ赤になるほど怒っているイーシャを見たのは初めてだ。アビー王子には当然、イーシャの怒る理由がまったくわからなかった。

■第2幕 第4場
「それで兄弟、君ひとりで来たってわけか……」
 アビー王子の訪問にカルロ王子はあからさまにがっかりしたが、アビー王子はなぜカルロ王子ががっかりしているのかわからなかった。まったく、自分のまわりには何を考えているのかわからない者ばかりである。
 カルロ王子は仕方なくアビー王子だけを部屋に招き入れた。
「イーシャは今何をしている?」
 カルロ王子ははずみをつけて柔らかなソファに身を沈めた。
「イーシャですか。仕事だと思います」
 アビー王子はおずおずとテーブルを挟んで向かいにあるソファに腰かけた。
テーブルには深い翠のテーブルクロスがかかっていた。クロスの縁にだけ金色の帯が縫われたシンプルなデザインになっている。卓上には素焼きの陶器製食器が並べられていた。そのすべてが花を模した食器で、黄、赤、青と、眩しいほどに彩色されていた。テーブルの隅から隅まで広げられた皿にはそれぞれ種類の違う料理が盛り付けられている。たとえば牛胃袋とひよこ豆の煮込み、ジャガイモとたまごのトルティージャ、バルサミコ酢のかかった茄子のフリット、黒貝の酒蒸し……。
カルロ王子は赤い花の描かれたオリーブ皿を手元に寄せると蓋を取ってオリーブを一粒口に放り込んだ。
「いやあ、もっと気楽にいこう。アビー。俺たちは兄弟じゃないか。なあ?」
「はあ……」
「仕事って、イーシャはどんな仕事をしているんだ?」
「難しいことだと思います。あ、いや、難しい……難しい何か」
 はあ、とカルロ王子は両手で額を支えてうつむいた。なぜこんなに要領の得ない答えが返ってくるのだろう。
見た目はそっくりだというのに、性格は俺と正反対だ。
そう思ったらなんだかおかしくて、カルロ王子はアビー王子に微笑みかけた。
「アビー。俺たちはよく似ているようだが全然違う。全然違うようだが、よく似ている」
 二人は鏡合わせのようにそっくりの顔を向かい合わせた。カルロ王子が笑っていたから、アビー王子も笑った。二人は髪や肌の色の濃さや明度が少し違うだけで、本当にそっくりだった。
「本物の兄弟と同じだ。仲良くしてくれ」
 カルロ王子は手を差し伸べる。カルロ王子はその手を握り、二人はかたく握手をかわした。
 それにしても……。
 アビー王子はテーブルに視線を落とす。深い翠のテーブルクロスには豪華に彩色された陶磁製の食器が所狭しと並べられ、色鮮やかな料理が盛り付けられている。カルロ王子にすすめられてアビー王子も小皿料理に手を伸ばした。オリーブオイルとバルサミコ酢をかけた生トマトを香ばしく焼いたパンに乗せたもの。ジャガイモとタコをガーリックで味付けしてパセリを散らしたもの。アボカドとクリームチーズをスモークサーモンで巻いたもの。牡蠣の油煮を口に運ぶとガーリックの香りが鼻に抜け、唐辛子にぴりっと舌先を刺された。どれもおいしい。
 さして感動した様子もなく慣れた手つきで料理を頬張るカルロ王子を、アビー王子はじっと見ていた。この国の人間は食べてばかりだ。朝昼食べず、食事は夕食の一度のみと決まっているバース王国の風習とはえらい違いである。豊かな国だな、とアビー王子はにわかにカルロ王子のことを羨ましく思った。かつては一つの国を治める同じ王族であったはずなのに、今アビー王子は自分の国を失い、一方カルロ王子はこのように豊かな国を統べていた。
「ところでその、アビー? 君はイーシャとどういう関係なのかな?」
 カルロ王子は薄パンにたまごのペーストを塗って口に運び、グラスで白ワインをあおって言う。
「どういう関係、というと……?」
「だから、つまり、アビーは革命のあった日、スファン王宮からイーシャと共に亡命したのだろう?」
アビー王子は無言でうなずいた。亡命当日から砂漠越えまでの記憶が、革命家への憎しみが、胸の奥で疼く。ファイザもあの日スファン王宮にいたに違いなかった。革命軍がスファン王宮に火を放ち、アビー王子を除く王族を皆殺しにしたあの日。許せるはずのない過去が、アビー王子の胸に復讐の炎を灯した。
「どうしても」
 アビー王子の瞳に、黒い炎が渦巻く。そのただならぬ気迫にカルロ王子は思わず息を飲んだ。穏やかに見えるアビー王子もこんな目をすることがあるのか、と、カルロ王子は革命の恐ろしさの一端に触れた気がした。
「どうしても、スファンを奪還したい」
「もちろん協力する」
 カルロ王子は立ち上がるとアビー王子の隣に座り、肩を抱いた。指先についたパンの粉を膝で払う。赤い細密画のカーペットに乾いた白いパンくずが散っていった。
「すぐにコルーから軍隊が来るはずだ。共に戦い、スファン王宮にのさばる革命家たちを皆殺しにしてやろうじゃないか。そうする権利が、アビー、お前にはある。兄弟として最大限の協力をしよう」
「ありがとう」
 アビー王子は神に祈るように指を組んだ。
 カルロ王子は満足気にうなずく。
「まあ、それで、ええと、結局イーシャはアビーにとってただの従者なのだな?」
 カルロ王子はそうと決めつけて、上機嫌に鼻歌を歌いながら次のタスチェに手を伸ばす。
「ただのというか……大事な従者だよ。たった一人の、僕の味方だから」
 亡命できたのはイーシャのおかげだ。アビー王子とイーシャとでは身分は違う。しかし今、アビー王子は国を奪われた身である。命だけでも助かったのはイーシャのおかげだ。だからもしも、もしもイーシャに気持ちがあるのだとしたら、それを受け入れることが、アビー王子にとっては自然なことのようにも感じられた。
「大事な、というのは? どういう意味で?」
 隣のカルロ王子が急に鼻歌をやめて問う。声は少し低くなっていた。
「国をとりかえせばアビー、お前は再び王座につく。そう望んでいるのはお前自身だろう?」
 国を追われた王子のままでいれば、アビー王子とイーシャは釣り合えるかもしれない。しかしアビー王子がスファンを奪還し王政を復古すれば、イーシャは王家に仕える身分に戻る。二人が釣り合うためにはアビー王子が亡命の王子としてベリアに残り続けるしかない。しかしアビー王子にその意思はないだろう。カルロ王子はそう踏んでいた。
「僕は……」
「安心するがいい。協力するよ。必ず俺たちの手でスファン王宮を奪還しようじゃないか」
 カルロ王子は鼻歌を再開すると、スティックドーナッツをひとつ、アビー王子の開きかけた口に押し込んだ。

■第2幕 第5場
 よく磨かれた寄木細工の床をイーシャは歩いていた。この廊下はアビー王子の部屋へと続く。見上げれば、ブドウのモチーフが彫刻された奥行きのある格子天井が黄金に輝いていた。窓のステンドグラスは夜に紛れて色調をトーンダウンさせている。鳥がピアノの鍵盤を叩く絵や、蛾がギターの弦にとまっている絵が、黄色・オレンジ・翠・紫のグラスで表現されていた。見事な技術だ。
 部屋でひとりの夕食を済ませると、イーシャはアビー王子の部屋へと向かっていた。
カルロ王子さえ来なければ、アビー王子と二人で食事を楽しめたのに……。
イーシャは少々すねている。カルロ王子がシャワル城に来て以来、アビー王子はカルロ王子にとられてしまった。アビー王子のそばにいたいと望めば、その近くには必ずカルロ王子がいる。それこそイーシャに近付きたいカルロ王子の策略なのだが。
 ふん、とイーシャは鼻を鳴らしてアビー王子の部屋のドアを叩く。今であれば。カルロ王子がタスチェの席からアビー王子を解放した今であれば、二人きりになることもできるだろう。
ところが何度ノックしてもアビー王子は出てこなかった。
「アビー王子?」
 イーシャはドア越しに呼びかける。おそるおそるドアノブを握ると、鍵はかかっていなかった。
 部屋の吊天井には、様々な種の野菜の装飾が彫りこまれていた。イーシャはカルロ王子と対面した時の遅い昼食の風景を思い出す。あの食卓の豊かさがそのまま吊天井に写し取られているみたいだった。落ち着いた色調の木の壁にも野菜や花の装飾が凝らされている。スファン王宮風の青いタイルが貼られた暖炉の近くには、蔓植物と脚の長い水鳥が大きくドローイングされていた。棚には銀の燭台と彩色された陶磁の皿、巨大な額縁におさめられた油絵が飾られている。オアシスの絵画だった。透き通る青翠の湖面は砂漠に降り注ぐ鋭い陽光に煌めいている。湖のほとりにはナツメヤシの葉が影を落としていた。イーシャは部屋全体を見渡す。
 ベッドには誰もいない。アビー王子はまだカルロ王子の部屋から帰ってきていないのだろうか? イーシャは部屋に忍び込んだことが急にうしろめたくなった。アビー王子が不在なら戻った方がいいかもしれない。引き返そうと踵を返した時、イーシャは視界の端で白い紗のカーテンが揺れるのを見た。どうやらバルコニーの窓が開いているらしい。
 アビー王子はバルコニーに出て夜空を見上げていた。砂漠の上空に架る青白い月はもう少しで満ちそうに見える。あの月が丸い姿をくっきりと空に浮かび上がらせる、その夜。アビー王子はファイザと再会するだろう。
 しかし、本当にファイザは来るだろうか。本当にもう一度チャンスはあるのだろうか。アビー王子はその日が近付くほどに不安になった。もう二度とファイザには会えないかもしれない、と。
「アビー王子?」
 突然背後からそう呼びかけられて、アビー王子は驚き振り返った。
「イ、   イーシャ」
「申し訳ございません! ノックをしても出ていらっしゃらなかったので、お体の具合でも悪いのかと……。鍵がかかっていませんでしたので、勝手にお邪魔してしまいました。お姿が見えなかったので戻ろうと思ったのですが、バルコニーに、おひとりでいるのが見えて」
 イーシャは慌てて言葉を紡ぐ。アビー王子も同じくらい慌てていた。
「いや、いや、」
 アビー王子はただそう繰り返すだけで、今、イーシャになんと声をかければいいのかわからなかった。何か話題を、と考えたが、アビー王子が話し出すよりも早くイーシャが口を開いた。
「綺麗な月でございますね」
 イーシャがバルコニーに歩み出て、アビー王子の隣に立つ。アビー王子は「うん」とうなずき、再び砂漠の月を見上げた。
「次の満月まで、あと何日かな」
「満月?」
 アビー王子の呟きを聞いて、イーシャは指折り数えた。
「五日後ですが……それがどうかされたのですか?」
「えっ? ああ、いや」
 アビー王子は目線を月からイーシャに移す。
 イーシャは柔らかな前髪を夜風に流していた。太陽のもとで金色がかった茶に輝く髪色は今、夜にしっとりと黒く染められている。バラ色の血色の透ける白い肌は月光に映えていた。
スファン王宮で暮らしていた時と何ひとつかわらない、とアビー王子は思った。アビー王子がスファン王宮から唯一持ち出せたもの。それはイーシャだった。
ああ、そうだ。
アビー王子の瞳には再び復讐心が閃く。
ファイザ。アビー王子からイーシャ以外のすべてを奪いとった女。そのファイザとの再会の日が、五日後に迫っている。
 イーシャに訝るような視線を向けられているような気がして、アビー王子はとっさに言い訳をした。
「カルロに聞かれたんだ。次の満月は何日後かな? って。イーシャならわかるかもしれないから、聞いてみるって言ったんだ」
 我ながら上手い嘘ではないか、とアビー王子はほっとして口角を上げる。
「まあ、そうでしたの。最近よくカルロ王子とタスチェを召し上がっていますね」
「イーシャを連れてきてほしいと言われるが……」
「私は行きません」
「と、私が怒られてしまうから……と断っているよ」
「お、怒ってなど……」
 イーシャは形の良い眉をひそめる。イーシャは話をそらすことにした。
「しかしカルロ王子は満月のことなどどうして気にされているのでしょう。月の形の移り変わりを気にするほど、風流な方とは思えませんわ」
「う、うん……どうしてだろう? 僕もわからない」
 才女の鋭い質問に、アビー王子は冷や汗をかきながら答えた。
深まる夜は、紗のような月光を銀砂に注ぎ続けている。

■第2幕 第6場
 スファン王宮に戻ったファイザは、「アビー王子は見つからなかった」とムアに報告した。ファイザがシャワル城まで足を延ばして会えたのは城壁で足を滑らせていた間抜けな泥棒ひとりである。「カルロ」と名乗ったその男の正体こそアビー王子であろうとは、まさかファイザに気付けるわけもなかった。
「バース王国を出てベリア王国の方へずっと歩いたわ。国境の砂漠を歩いていくと、半月型の湖のある大きなオアシスを見つけたのよ。その近くにお城があった。ベリア王国の、確かシャワル城だったかな。城壁はレンガで出来ていた。黄土色や赤色のレンガを積み上げて作る壁。その壁に、何重にもリボンを巻くように緑のタイルが嵌め込まれていたのよ。だからちょっとのぼりにくかったわね。光沢のあるタイルにはヒマワリをモチーフにしたレリーフ模様が彫られていた。その突起や窪みを足場にして、なんとか登ったわ。見晴台は四本の太い支柱で形成された望楼から立ち上がってる。やっぱり全面つるつるしたタイル張りだった」
「侵入したのか?」
「ええ。でも、短い間だけ」
 ファイザは侵入してすぐシャワル城の兵に見つかり、捕らえられたことを思い出した。「あたしはムアの女だよ!」と叫び、兵が驚いて手を緩めた隙に逃げたのだった。そしてあの男に出会った。タイルの床で足を滑らせ、助けを求めていたあのみじめな泥棒の……。
 カルロ。
 ファイザはとっさにつかんだ男の手の硬さを今でも覚えている。
いいえ、全部を報告する必要はないわ。
ファイザはそう思って、口をつぐんだ。ファイザがシャワル城で一時的にでも敵兵にとらえられたなどと知られたら、ムアは今後、ファイザを快く送り出してはくれないだろう。そんなことになったら……。
 次の満月の夜にあのオアシスに行けなくなってしまう。
 違う、そうじゃなくて、とファイザは頭を軽く振った。アビー王子を見つけ出さなければ。アビー王子をこの手で殺さなければ完全な幸福は来ない。
「アビー王子が砂漠を越えて逃げ込むとしたら、あのオアシスやシャワル城だと思うわ。でもオアシスにもいなかったし、シャワル城に侵入しても見つけ出すことはできなかった」
 ムアは玉座に深く腰掛けて顎を撫でた。
「しかしまだそう遠くへはいけまい」
「私もそう思う。引き続き、オアシスとシャワル城周辺を探すわ」
アビー王子はまだシャワル城までたどり着いていなかったのかもしれない。ファイザはそう思って、バース王国に至る帰路で砂漠に点在する小さなオアシスを渡り歩いた。ところがすれ違ったのは絹を背に乗せて歩くラクダとその飼い主たちの商隊だけで、アビー王子らしき人物に出会うことはなかった。
 ファイザは一呼吸置くと部屋を見渡した。
「ところでスファン王宮の修繕が進んでいるみたいね」
「ああ。やはりここは住み心地がいい。私たちの新しい家にぴったりだ。ファイザ、結婚はいつにしようか」
「そんな、まだよ!」
 間髪いれずに答えてしまったことに、ファイザはばつの悪そうな顔をする。
「私、今はまだ幸せになるのが怖いの」
「それはまた変わったことを申すものだな」
「だって、アビー王子が私たちを殺しにくるかもしれない。私の幸せを壊しに来るかもしれない。そう考えると怖いの。だから一刻も早く探し出すわ。アビー王子さえ殺せば、そうすれば安心して私はあなたのものになれる」
 ファイザはムアの頬に軽くキスする。ムアはファイザの腰を引き寄せようとしたが、ファイザは身を翻してムアから離れた。
「諦めずにもう一度探しに行ってくるわ。アビー王子は必ず、私がこの手で殺さなくちゃ安心できないの」
 そう言うと、ファイザは微笑んで、早足に王の間を出ていった。
ファイザは日に日に満ちていく月のことを思う。あの月の光が丸く満ちる夜、再びあの泥棒に、カルロに会うのだ。再会を約束した日から、ファイザは昼も月のことを考えている。そしてどうしようもなく不安になるのだった。もう二度とカルロには会えないのではないか、と。
いけない、いけない。私はムアの婚約者なのだから。自由民になるためにはムアを結婚しなくちゃいけない。私は私の自由を、幸福をつかまなくちゃ。
 それを阻止するのがアビー王子なのだ。アビー王子はきっとスファン王宮を取り戻しに来る。兵を率いてスファン王宮を襲いに来るに違いない。殺される前に殺さなくては。ファイザは廊下で立ち止まり、腰帯から短剣を抜くと、刃を陽の光に翳した。鋼は鋭く白銀に輝く。刻一刻と満月の夜は近付いていた。

■第2幕 第7場
 ついに巡った満月の夜。砂漠の地下迷宮を抜けた瞬間、アビー王子は痛いほどに鼓動が速まるのを感じた。いた。ファイザがいたのだ。砂に埋もれたパルミル王宮のバルコニー。そこはオアシスの一角なのだった。アビー王子の足元では草が萌えている。その地続きにアビーローズは群生していた。茂みに寄り添うように座り込んだファイザは満月の光を浴びながら満開のアビーローズを見つめている。ファイザの繊細な指先が花弁に触れる。アビー王子はたまらなくなって叫んだ。
「ファイザ!」
 足は思わず前に進む。進む。駆ける。アビー王子の息は弾んでいた。
オアシスのパ・ド・ドゥ。再会したアビー王子とファイザは手を取り合い、高ぶる感情のままに踊り始める。オーケストラはショパンの「幻想即興曲」的に二人を禁断の世界に引き込んでいく。ファイザの表情はバラのようにほころんだ。自分も同じ表情をしていることが、アビー王子にはわかった。
「カルロ、本当に来てくれたの」
「君こそ」
「私、もう会えないんじゃないかって、ずっと」
「僕もだ」
 二人は夢を見るように踊り続ける。アビー王子の耳の奥にはいつかスファン王宮で聴いた音楽がよみがえっていた。歌うように演奏される器楽の数々。強くリズミカルな撥さばきのウードに、ノンリードの葦笛。ジョーザ(胡弓)、レク(タンバリンのようなシンバル付きの枠太鼓)、トンバク(小太鼓)。鼓に張られるのは獣の皮ではなく、エイのような鱗のない魚の薄い皮だ。繊細な音が響く。舞踏会の開かれたあの日、アビー王子は緊張のあまり姫たちを避けて過ごしたのだった。
もう何もない、とアビー王子は思う。豪奢な衣装はぼろぼろになり、豊かな料理もスファン王宮の大広間も……。しかし、アビー王子の心はあの舞踏会の日よりもずっと弾んでいた。
アビー王子の踏むステップにファイザは完璧に息を合わせる。アビー王子が左手を高く挙げればその意図を察したようにファイザはつま先立ちでくるくる回った。まるでアビー王子と同じ音楽を聴いているかのように。
 ああ、なんて楽しいのだろう! こんなに踊りの上手な人がいるなんて!
 二人は同時に同じことを思った。アビー王子がファイザの細い腰を両手で支える。ファイザはアビー王子と向かい合わせになり、アビー王子の胸に、頬に指先を触れた。
 次の瞬間、二人は弾かれたようにお互いから身を引き離した。背を向け合い、足を進めて距離を取る。アビー王子は激しく首を横に振った。
違う。こんなことのために今日を迎えたんじゃない。
アビー王子はマントの下に隠し持っていた短剣を密かに抜いて月光に晒した。
そうだ。ファイザを殺すために、わざわざ満月の夜を待ったのではないか。思い出せ。革命家たちに何をされたか!
アビー王子は革命家たちにとらえられた家族や親族の悲鳴をまだ覚えている。
あの凄惨な悲劇の主導者がムアだ。そのムアの婚約者が今、僕の背後にいる
アビー王子は奥歯を強く噛みしめて震える切っ先を睨んだ。
 一方、ファイザは高鳴っておさまらない鼓動を押さえつけようと必死だった。深呼吸を繰り返す。
だめ。これ以上この人と踊りたいと望んではだめ。ああでも、なんて素敵な一瞬だっただろう! あの人の踏むステップから、滑らかに動く指先から、瞳のまたたきから、まるで音楽が聴こえてくるようだった……。
ファイザは振り返る。アビー王子はまだ背を向けたままだった。
「ねえ、カルロ。一緒にオアシスを散歩しない?」
 ファイザはアビー王子に呼びかける。
アビー王子は短剣を鞘に納めて振り返った。
 カルロ。その名を口にするたびに、ファイザは取り返しのつかない場所へと引きずり込まれていくような気がした。もっとこの人を知りたい。そして同じくらい、私のことを知ってほしい。そう思ってしまうことを止められない。
ファイザはアビー王子に駆け寄った。やがて二人は歩き出す。
「カルロ、私の過去の話を聞いてくれる?」
「夜が明けるまで」
「ありがとう」
 朝なんか来なければいいのに、とファイザは願った。しかし口には出さない。こんなことは心で思うことさえ罪なのだと、ファイザはわかっているつもりだ。
 私にはムアという婚約者があるのだから……。
 それでもファイザは、一ヶ月ぶりに会うこのみすぼらしい泥棒の隣を歩ける今がひどく幸福なのだった。
 ファイザの顔に深い影が落ちる。前をまっすぐに見つめたまま、ファイザは語り始めた。
「私の故郷はムアと同じ、リア王国なのよ。わかるかしら。バース王国に侵攻されて滅んだ小さな国よ。軍人に捕まった私はバース領内に連れてこられた。奴隷として。戦争の混乱で家族とは離ればなれ。全部バース王国が攻めてきたせいよ。そのために私、幸福を失ったの。だから私はバース王家を絶対に許さない。皆殺しにしてやるの。革命の夜に王族はほとんど殺してやったわ。でも、一人だけ逃してしまった。アビー王子。あとはアビー王子だけなのよ」
リア王国の名を聞いて、アビー王子は背骨に鋭い冷気を感じた。リア王国は国土こそバース王国の十分の一に満たないが、水の豊かな国だった。アビー王子の教育を担当していた軍師が教えてくれたのだ。「リアを落とせば、我が国も水に困らない国になるでしょう」。アビー王子はそれに悪意なく答えた。「では先生。リアに兵を送り、攻め落とせばいいのですね!」。
 ……その通りになった。リアに生まれ、リアで自由民として生きていたファイザは、戦乱に巻き込まれ捕虜となった。
アビー王子は息を飲んだ。
知らなかった。奴隷は多いほど、国は豊かになると父上も軍師も言っていたのに……。
文書に資源として記されていた「奴隷」が「人間」であったことを、この時初めてアビー王子は知った。
オアシスの湖の波の音が聞こえる。ナツメヤシの葉のざわめきは星の下で湧き立つ。アビー王子とファイザは湖に近付かないように注意しながら豊かな緑地を歩き始めた。満月は白銀の太陽のように地上をまばゆく照らしていた。オアシスの湖のほとりには井戸が見えた。湖を囲む植物はほとんどナツメヤシだった。しかし歩みを進めればスモモやブドウの木々も青黒く夜気にざわめいていた。アビー王子はちょうど昨夜、カルロ王子と囲んだタスチェでスモモを食べたことを思い出した。カルロ王子が好んで飲んでいるワインの原材料もブドウである。このオアシスのスモモやブドウはシャワル城の人たちが植えて育てているのかもしれない。
「私が完全な幸福を手に入れるために、アビー王子を一刻も早く殺さなくちゃならないのよ」
ファイザはアビー王子の隣を歩きながら爪を噛む。
「アビー王子を殺せば、本当にファイザは幸福になれる?」
 アビー王子は声が震えないように注意して、できるだけ胸を落ち着けて聞いた。それでもファイザに何か怪しいと勘繰られて正体を知られてしまうのではないかと恐ろしくなる。
その時は……。
アビー王子は穴だらけのマントの下に左手を滑らせ、短剣の柄を握る。
しかし、この短剣で。これで本当に、ファイザの肉を切り裂き、心臓を貫くことができるだろうか。僕にそんなことができるだろうか。
急に額に冷や汗が滲んできて、アビー王子は震える左手を握り直した。
「もちろんよ。私はアビー王子を必ず殺すわ。そうしなくちゃ、私は幸福になれない」
 ファイザは迷いない眼光をアビー王子に注ぎ、深くうなずく。ファイザは再び過去へと意識を沈潜させる。
「捕虜になってバースに連れてこられたあと、踊りが得意な私はバースの奴隷市場でムアに買われたわ」
ムアもまたリア王国の出身だったが、もともと位の高い貴族だったために、リアのバース併合後も自由民として生活していたのだった。
「確かに、ファイザの踊りは素敵だ」
「カルロもなかなか上手よ」
 ファイザははにかむ。しかしその表情はすぐに陰った。
「でもムアは自由民の身分に大人しくおさまるような男じゃなかった」
「だからスファン王宮を襲ったのか?」
「そう。ムアは自分が上に立たなくちゃ気が済まない。自分がバースの王様に成り代わりたかったのよ」
 ムアに味方した自由民や奴隷たちはムアを信じていた。共に戦い、バース王家を皆殺しにした暁には、すべての国民を自由民にしてくれる、と。ところがムアは新しい独裁者になっただけだ。
「奴隷階級を抜け出すには自由民と結婚するしかないのよ。今も。だから私は、ムアと結婚を」
「愛していないのに?」
「完全に愛していない、というのは、きっと違うわ。たとえ奴隷とその主人という関係であったとしても、一部では私、本気でムアを愛しているのよ。……いや、本当にそうかしら? と思うこともあるわ。もちろん。けれど愛ってそういうものでしょ? 誰かを常に百パーセント好きでいるなんて、できるはずないじゃない。ムアは私を買ってくれた。婚約もして、自由民にしてくれるって……。いい人よ」
 そこまで話して、ファイザは深くため息をついた。
「ただ、アビー王子が私の幸福を奪いにくるんじゃないかって、そのことがとても怖いのよ。私の故郷を、リア王国を滅ぼされた時のように、もう一度私の日常を暴力的に奪いに来るんじゃないかって、そんなことが。ベリアに逃げ込まれたら、ベリアの王族に『軍隊を貸してくれ』って交渉するでしょう。きっと。スファン王宮を強引に奪い返して私を殺すかもしれない」
「……」
二律背反の第一ヴァリアシオン。相反する二つの感情を同時に抱えるアビー王子による踊り。複雑な感情を言葉なしに爆発させる表情と技術がみどころ。嘘をついても隠し切れないバース王家の気品が色濃く漂う舞。オーケストラはサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」的な、光と影の間をさまようような悩ましい演奏を始める。照明はアビー王子とファイザだけに。舞台は暗転していく。痛切に踊るアビー王子の隣でファイザは語り続ける。
「だから私は、アビー王子を探し出して殺さなくちゃならないんだ。殺される前に」
 アビー王子の耳に入るファイザの言葉は、鋭利な氷塊となってアビー王子の胸を刺す。こんなにも痛く苦しいのに、いや、だからこそ、アビー王子は腰帯の短剣を抜くことができなかった。
殺さなければ。ファイザはまだ僕がアビー王子であることを知らない。僕が先に殺せる。ここで殺すんだ。殺される前に。……いいや無理だ! どうして!
「ねえ」
 ファイザは真剣な瞳でアビー王子を射抜いた。
「カルロも協力してくれない?」
「え?」
 夜風がアビー王子を吹き抜けていった。星の冷気をまとったオアシスの風はファイザの瞳を神秘的に磨き上げる。
「アビー王子を探し出して殺すの。まだそう遠くへは行っていないはずよ。私と一緒に探して。私、どうしても自由民になりたいのよ。幸福になりたいの」
アビー王子はヴァリアシオンの続きを踊り始める。
僕だけが、僕だけが、こんなにもファイザが愛しい! 殺したい。殺してやる! ずっとそう思ってきた。今だってそうだ。殺したい! ファイザを殺したい! そう思うのに。ああ、それなのにどうして!
「カルロ」
 ファイザは信じるようなまなざしでアビー王子の偽名を口にする。
「アビー王子を一緒に探してほしいの。私のために。次の満月の日に、答えを聞いていいかしら?」
 アビー王子は鼻から深く息を吸い、一度うつむいてから、ほほえんでファイザに視線を返した。
「……もちろんだよ」

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「嘘つきたちの幸福」第3幕(前編)|青野晶 (note.com)

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