文化資本の欠如
昔から同年代の人間とは話が合わなかった。
「こいつ、俺より頭悪いのかな」なんて考えてたことも正直ある。
このモヤモヤをうまく言語化してくれる言葉がずっと欲しかった。
小学生男子は口を開けば、下ネタばかり。
英語の”6”も発音できない猿ばかりだった。
行動原理も理解できないものが多い。
そういえば、水道で手洗いうがいをしたり、歯磨きをしているときにちょっかいをかけてくる女の子がいた。
シンプルにウザかったのだが、後日呼び出されて告白されたときは面食らった。
完全に当時の自分の理解を超えた生物がそのとき目の前にいた。
高校の思い出は実はあまりない。
地域の寄せ集めであった小中学校は言うなれば動物園のような有様であったが、入試というフィルターを通して高校で初めて話の合う同級生に巡り会うことができた。
しかし、自称進学校だったこともあり、受験勉強が3年間の生活の中心にあり、過去の先輩のやらかしで修学旅行もない学校だったので、学生らしい思い出はカラオケボックスで(自主規制)
当時はこれが普通だと信じて疑わなかったが、小中学校時代の同級生のその後を見る限りにおいて、随分と特殊であったことを後から知る。
大学生になれば、どこに就職するのかという話題に花を咲かす。
大学に入ると、多くの人は勉強に対する熱意を失ってしまうらしい。
学問への興味が薄れたのか、内容についていけずドロップアウトしたのか、はたまた両方か。
この時期に仲良くなったのは、学校よりもバイト先の方が多いくらいだ。
バイト先ではバックグラウンドが多種多様な人に恵まれ、とても楽しく過ごすことができた。
でも正直に言えば、ずっと物足りなさもあった。
この本が面白いとか、あの映画が面白いとか、◯◯の新曲がいいとか、そういう話がもっとしたかった。
馬鹿騒ぎするのもそれなりに楽しいけど、一人になったときにどっと疲れるので、中身のない会話は結構しんどいものがある。
「文化資本の欠如」とは、すなわち興味の対象の振れ幅が狭いということである。
興味を持てる領域が小さいということは、共通の話題を持てるポテンシャルが低いということに他ならない。
つまり、幼少期に感じていた孤独感は文化資本の差異により生じたものなのかもしれない。
図書室で本ばかり読んでいた小学生時代の僕に伝えるとするならば、本の中身にワクワクするだけでなく、隣で本を読んでる女の子にもっとドキドキしておくんだぞという余計なお世話くらいだろうか。
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