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掌編小説 | 銀ノ月 |#君に届かない

 せっかくの月夜にあなたは来てしまった。女はそう思った。

 ひとり静かに湯に浸かり、ガラス窓越しに月を見ていた。それはそれは怪しい月だ。銀色の月。
 そこに男の気配がある。女に近づいている。
 バスルームのドアを開け、男が顔をのぞかせた。ついで男はゆっくりと歩き始める。すると女は僅かに落ち着きをなくした。しかし、実際はそれを少しも感じさせることなく、歩み寄る男を不敵な笑みで迎えたのだ。

「今夜、あなたに会えるなんて思わなかった」
 男は女からそう言われると、満足気に笑った。男の手には高級なシャンパンのボトルがあった。
「お前はサプライズが好きだろう、違うか?」
 男がにやついて、不潔に黄ばんだ歯茎を見せた。
「誰かと間違えているんじゃない? わたしは突然の訪問を喜ばない」
 女は突き放すようにそう言ったが、無色透明な湯の中から、こんもりとしたふたつの乳房を引き上げて、男を慰めるように揺らしてみせた。

「いいねえ」と男は言った。
「なにが?」
「お前だよ」
「わたしのなにが」
「お前のそれ・・だよ」
 そう言うと男はバスタブの縁に腰掛け、執拗に女の躰を眺めた。
「歳をとればこんなもの、なんの役にも立たないのよ」
 そう言った女が、その上向きの乳房と同じように、つんと顎を上げたのを見て、男は大声で笑った。

「まあ、飲めよ」
 男はシャンパンのボトルを女に渡そうとするが、女はそれを押し返した。
「私は飲まないの。というより飲みたくない」
 男はずっと機嫌良くいたが、途端に目を細めていぶかしげに女を見た。
「どうして。お前、心底酒が好きだったろう? それとも酒好きな女ってのはお前じゃなかったか」
 男はもう笑っていない。
「私だったと思うわ。それは確かに、昔の私だった」
 はあ、とわざとらしくため息をついて、男は瓶の口を咥えると、豪快にシャンパンを飲んだ。そして残りをバスタブの中に流し込む。
「やめてよ、酒臭い。匂いを嗅ぐのも嫌なのに」
 女は苛立ちを顕にして男を睨んだ。
「知ってるかお前。女は毛穴からアルコールを摂取できるんだ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないさ。毛穴からアルコールを摂取した女は、どんどん魅力を増すって話だよ」
 男は女の怒った顔が好きだ。突き刺すような視線を向けてくる女から目を離さずに、なおも少しずつシャンパンを流す。
 すると、次第に女の容姿に変化が現れ始めた。男を睨む、つり上がった目尻が徐々に下がり、穏やかな目元になった。アルコールが回ってきたな、と男はひとりほくそ笑む。
 次に、女の肌の色が微妙に変化していった。均一だった白肌に、影のような斑点がつき始めた。おやおや、と男はさらに興味深く女を見つめた。
「なにを見てるの」女の声はしゃがれている。
 男は女の言葉を無視して、またシャンパンを注いだ。
「まったく、あんた。勝手なことばかりして!」
 女は突如大きな声を出すと男に掴みかかった。男は後ずさるとバランスを崩し、バスタブの淵から転げ落ちた。湯の中で立ち上がった女はそんな男を見下ろしている。
 男は床に尻もちをつき、全裸で立つ女を見上げた。見上げた先に、さっきまで丸くつやつやと在った女の乳房が見当たらない。
「どうしたお前。その、なが餅のようなそれは」
 男は不思議そうに、女の胸の当たりに垂れ下がる、白い餅のようなものを見つめた。
「ばかな人だね、あんたって。五人の子供を母乳で育てた。その勲章だよ」

 ぽかんとした表情の男を見て、女は笑った。
「命日でもないのに勝手に出てきて、一体、何年前の私を見ているんだよ」
その言葉にはっとして、男は改めて目の前の女を見た。

 貧相な体に、なが餅のような乳房をぶら下げた老婆がいる。穏やかな顔をして、さも可笑しいといったふうに笑っている。
 こいつの笑った顔も好きだったな、と男は思い出していた。

 そうか、俺は死んだんだ。

「なあ、俺はいつ死んだ?」
「さあね、もう随分昔で覚えていないよ」
「嘘をつけ。あんなに愛し合った亭主を、お前のような出来た女房が忘れるわけがない」
 女は微笑み、男に手を伸ばした。
「忘れたんじゃなくて、忘れたいんだよ。あんたがいつまでも、私の心の中に居座るからさ」
 男は、胸の奥に痛みを感じた。
 伸ばされた女の手を掴もうと、男も手を伸ばした。しかしそこに女の実体がないのか、はたまた自分自身が存在しないのか、どうしてもその手に触れることが出来ない。

「もう、お酒はやめたら?あんたが死んでから、私は一滴も飲んでいないよ。まさか、同じ死に方をするわけにいかないだろう?」
 老婆は悲しげにそう言うと、足元に視線を落とした。
「ほら、水中の月」
 男はよろけながら立ち上がり、湯船の中を覗き込んだ。
「銀色の月だ」
 それはそれは怪しい、銀ノ月。

「もう帰りな。また来てもいいけど、どうか月夜には来ないで」
 男は顔を上げた。声を出さずに、どうして、と訊く。
「湯船に浮かぶ水中の月。どうしてか、月夜の晩は、あんたに触れることが叶わないからだよ」

 男は静かに姿を消した。飲みかけのシャンパンの香りだけ、ほのかに残っている。






[完]



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