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なるべくコントロールしない /ファシリテーション一日一話

ある場の進行を終えて、帰路につく。その車内にて、参加者から「青木さんのファシリテーションは好きです。コントロールしようとしないから」というお言葉を頂いた。実のところ、ちょっと嬉しかった。僕がこの言葉を嬉しいと感じるのは、自分がそういうファシリテーターでありたいと願っているからだ。

逆に、また別の場で「マーキーは、ふだんはおちゃらけているのに<ここは大事>という場面では声色を変えている。洗脳的な声の出し方をするんだと思った」と言われた。これはちょっとショック。言われて腹が立つ気持ちや、言い訳したい感じも湧いてくるが、ひと呼吸おいて、ふりかえり、それが事実だなとわかると「あぁ、自分が至らなかったとすれば、その点だ」と反省する。そう、ファシリテーターは「コントロール」に敏感なのだ。

他者を思いのままに

コントロールとは、他者をこちらの思いのままに動かそうとする行為のこと。

場づくりをする人の個性や味わいは、そのコントロールの度合いで決まる部分がある。

例えば「今日の会議は前向きにやりましょう。さぁ皆さん、ネガティブな言葉づかいや愚痴はやめて、ポジティブな言葉を使って話しますよ」と進行されると、「あぁ、このファシリテーターはコントロールが強いなぁ」と感じ、僕がならちょっとついていけなくなる。

参加者が口々に意見を言うとき、ある意見には「うん、そうだね!」と満面の笑顔でこたえ、別の意見には「ふーん、そうかな」とそっけなく受け取るのも、コントロールの表れだ。参加者は「あ、このファシリテーターはこっち側の発言を喜ぶんだな」と察知して、その後の流れが変わってきたりもする。

コントロールを依頼される時

タチが悪いのは「クライアントからのコントロール依頼」を引きうけてしまうこと。例えば、国家プロジェクトに関するファシリテーションをお引き受けしたとする。国としては、ここに大きな橋を架けたいが、住民から色々な意見が出ていて、まとまらない。なんとか橋を架けられるような方向で、話し合いをまとめてほしい、みたいな依頼のことである。僕の理解では、ファシリテーターというのは、参加者を誘導してある結論まで導いて行く存在ではない。なので、こういう依頼は引きうけない。あるいはお引き受けするときに「僕が進行したら、国の意向にかかわらず、住民たちの本当の声が出てきますよ」と念押ししてから場に入る。

では、僕が全くコントロールをしないかというと、そうでもない。時計を見て、残り時間が限られているなと思えば、そのことを参加者全員に伝えて、時間内にある程度のところまで到達できるようハッパをかけることもある。一部の人ばかりが長く話し、発言のかたよりが明らかになった時は、発言できてなさそうなサイドが意見を言いやすくなるきっかけをつくったりもする。どうやったら、この議題を皆が話しやすくできるかな、という工夫をコントロールというのであれば、それらは積極的に行っているのだ。ただ、結論をこっちにもって行きたいとか、内容に関するコントロールはなるべく、するまい、と思っているだけのこと。

タクシーの運転手さんが車を運転するような感じで、アクセルも、ハンドルも、ブレーキも僕は操作をしている。ただ、行き先は乗客が決めるもの。「どちらに行きたいですか?」ときいて、そちらに向かうお手伝いはしたいと思っている。

まぁ、人は誰も、誰かにコントロールされたいなんて思わない。だから、なるべく自然に、なるべく敬意を払って、なるべくコントロールしない感じで関わりたい。


旅先でレンタカーを借りて運転するのは好き。あっちこっち気ままに旅したい派

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