見出し画像

僕には「いつき」と呼ぶことしかできない。

今回もそんな気はしていた。


***


年に3回はあった。


空の錠剤シートが増え、いつも以上に部屋を散らかしものをなくし、些細なことでイライラするようになっていた。

夜中、タイピング音ではなくうめき声が増えた。

下書きに赤ペンで修正を入れたりメモを書き込んで、それを見ながら何かに追われるかのようにキーボードを叩いていた。

時々耐えきれなくなったのか、紙をキッチンにバラ撒き散らした。

翌朝、起きると赤ペンだらけの何百枚ものコピー用紙の上で疲れ果てた彼女が横たわっていた。歯軋りをして、何かから身を守るように硬く、うずくまっていた。


そんな日が何度もあった。


感情の振れ幅が、悪い意味で大きくなっていた。


焦るように本を読み、泣きながら文字を打っていた。


両手から単語が溢れているように見えた。


何も絞り出せないというより何も掬えていないように見えた。掬おうにもその手は空を切り、彼女の手元には1文字も残らなかった。3日間、1行も書けていない時もあった。しかし、僕は一切触れなかった。


いつも通り過ごした。


これは彼女の問題であるし、彼女との約束に抵触する。彼女は僕の名前を呼んだ時のみ、干渉を許す。今回の「これ」は一見仕事のことであるから約束とは関係ない。

しかし、錠剤のゴミが増えたことから明らかに影響が出ている。今ここで僕からアクションを起こすのは一時的な救済(になるかもわからない)にすぎず、一歩間違えれば取り返しのつかないことになりかねない。



だから、何もしなかった。


ただひたすら、待った。
僕の名前を呼ぶまで、ひたすら待った。
それしか許されていないから。

本当は約束を破り捨てたかった。

今すぐにでも声をかけたい、背中をさすりたい。

でもだめだった。やっちゃいけない気がした。


1ヶ月かかった。


彼女は「あおい」と震える声で僕の布団に潜り込んできた。

僕が薬を出そうとすると「飲んだから大丈夫」と言った。「そう」と僕が言うと「手」と短く言って、握った。体の割に大きな手。元から細い指が、さらにか弱く、少し力を加えたら折れてしまいそうだった。僕はそっと握ると「もっと」と力を入れてきた。

しばらくすると呼吸が落ち着いてきたので、ほっとした。

彼女が眠るまで僕は天井をながめる。

そろそろ寝たかな、と彼女の顔を覗くとまだ、静かに泣いていた。しばらくの沈黙の後彼女は「書けなくなっちゃった」と震えて言った。まるで自分の身体の一部を失ったかのような怯え声で。そう言った後、僕の胸元を濡らした。

「書けない」
「うん」
「何も出てこない」
「うん」
「拾えない」
「うん」
「文字が逃げる」
「うん」
「怖い」
「うん」

多分書けなくて困っているのは仕事だからじゃない。

僕は彼女と過ごす時間が長くなるほど、彼女はほとんど何も持っていないことに気がついた。「売れっ子小説家」で「成功者」で「天才」で何もかも手にしたように見えた彼女はあまりにも多くの欠陥(というと失礼だけど)があって、それは例えば、協調性であったり、きちんと部屋を片付けられることであったり、他にも、多くの「普通」ができなかった。そして、もっともっと、”根深い”ものもあった。でもその「欠陥」が霞むほどに彼女は小説が書けた。書けてしまった。

僕は彼女と暮らすうちに「天才」と呼ばれる人たちの多くはこうなんじゃないか、と思うようになった。

僕は彼女に何度も「いいな」「才能あって」と言っていた。しかしそれはものすごく、彼女を傷つけていたのかもしれない。彼女からしたら僕らこそ羨む対象だったのかもしれない。



「いつき」


と僕は彼女の名前を呼んだ。

「…なに」と胸元で鼻をすすった。

「いつき」とまた彼女の名前を呼んだ。彼女の小さな頭をそっと撫でる。

「うん」と彼女は言った。

それから何度も僕は「いつき」と彼女の名前を呼んで頭をそっと撫で、彼女は「あおい」と僕のスウェットを濡らした。


「いつき」


「あおい」


「いつき」


「あおい」


「いつき」


「あおい」

「いつき」


僕は彼女の名前を呼ぶことしかできない。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

生活費になります。食費。育ち盛りゆえ。。