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今日のクラブサイエンス「共感覚」の感想

こんばんは。山口葵です。

今日はクラブサイエンスで共感覚についてのお話でした。私も共感覚を持っているので、その話を序盤に少しだけしました。緊張した~

今まで「共感覚」という名前を知らずに幼少期から、それが当たり前の感覚だと思って生きてきて、最近になってその言葉を聞くようになり「これなのか」とわかった次第でありました。

共感覚と一言で言っても、人によって本当にさまざまで、同じ感覚を持っていたとしてもそれもそれ、感じているものが完全に一致している人というものはなかなか存在しないようでした(近い物はあるようですが)。

個性と言ってしまったり、「変わっている」や「特別な物」ともてはやされていることもある共感覚ですが、不思議ちゃんと片づけられたり気持ち悪がられることもあり、いいことばかりではありません。

その感覚自体も私はうざったく感じることが多く、生きづらいなあと思うことのほうが多かったのです。

溢れる色彩、甘美な模様や歌の流れ...常々ロマンティックに空想される共感覚だが、現実は決して陽気なカーニバルではない。往々にして、刺激の過剰負荷、頭部と身体に及ぶ偏頭痛、感覚のひどい二日酔いとなる。

https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/fashion-ja/synaesthesia

このブログのこの文章がまさに、という感じで、「感覚の二日酔い」を起こすことがたびたびとある。共感覚としてよく言われている「数字が人に見える」感覚が記憶するかぎり3歳くらいからあり、0から9までの数字すべてに性別や色、感情がついているため、数字の羅列を見るのはまるで人込みを見ているようになり、とても疲れてしまいます。

なので、なるべく数字の羅列を見ないように、避けるように生きてきました。また、これは別のブログにも書いていますが文章を読んでいるとたくさんのビジュアライゼーションが起こり、色だけでなくいろいろなものが見えてしまうため、事実だけを淡々と述べている学術的な文章などは問題なく見えても感情が高ぶる、センセーショナルな文章や小説を読むことが一切できません。

これに関しては何度かトライしようと試みてはダメで、もったいないなあと感じてしまいます。

この世は物語であふれ、たくさんの文章や表現があるのに、それを読めないのはとても自分の感性を縮めてしまっているのではないのだろうか‥。

情報量が日々多く、脳みそが疲れてしまったな、と感じることがあり寝込んでしまうことも日常的です。視覚だけで良い場面をいちいち聴覚や嗅覚などが必要以上に反応してしまうという自覚があります。

ただ生活している中のすべてがそれになるため、脳みそのキャパシティが早いうちにいっぱいになっちゃう。

だけど今日の話を聞いて、環境を整えたり、共感覚を活かす場面を見つけたり、また、ひとつの感覚だけに集中するといいかもと教えていただきとても有益でした。

たまに意識して嗅覚を感じないようにさせたりとかをしていたので、なんかできるかも、って気がしてきました。本を読むときに視覚だけに集中する。できるかな、わからないけど、やってみる価値はめちゃくちゃありますね。

新しい土地に行くことも、新しい物語を見ることも、感覚の横殴りにつかれて最近はなかなか取り入れることができなくなっていました。

感じることを恐れず、また時にはコントロールをうまくすることで、自分のこの感覚と向き合いながら、知らない世界をたくさん知りたいと思いました。

他の共感覚の人の話も、とても面白く新鮮でした。色々な色、音、そして音色に味を感じる。私にはない、知らない感覚でその話を聞いているだけでもとてもわくわくして、いろいろな景色が浮かんできました。

好きな人を見ると、きらきらと光のつぶがまざった赤いうすけむり色が見えてくる。私のこの世界は、私にしか見えなくて、だけどそれが悪いことでも、自分を苦しめることでもない。

何か活かすことができるでしょうか。考えながら、感じながら、自分らしさを表現することに共感覚をうまく使えたらいいなぁ。


それでは。

山口葵



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