見出し画像

伝説の「犯罪展」ステートメント(没)

本展示のテーマは「犯罪」です。

前提として宣言しておきます。この展示では「犯罪」を軽薄に茶化したり、一方的に糾弾したり、または美化・称賛したりすることはしません。
ニュースを通じて大きな衝撃を受けたこれらの出来事は、確かに私たちの人生に影響を与え、自己形成に接してきました。
そうした出来事は、マスメディアやSNSを通じて広く共有され、結果的に社会の構造を浮き彫りにするような面があります。

人はなぜ犯罪をしてしまうのか。それは「運」要素が大きいのではないか、と私は考えます。
犯罪はほんの少しのかけちがいで起こり得ます。被害者だけでなく、加害者にもなり得ます。それは明日かもしれないし1時間後かもしれない。いつでもその可能性は潜んでいるのです。
生育歴、現在の環境、または法が変われば、現在日常的に行っていることも犯罪になり得ます。
それなのに「犯罪者はみんな排除せよ、私は犯罪なんて絶対にしない」と言える人がいるのはなぜなのでしょうか。
そのようなことが言えるのは、たまたま運が良かったからに過ぎません。非常に視野が狭く、想像力のかけらもないとすら思えます。

「犯罪のない社会」は不可能です。
例えば「善良な人だけの世界」があったとしても、そこから相対的に誰かが「悪人」に繰り下がるだけでしょう。
集団全体の学力によって偏差値は上下するように、善良な人しかいない社会では法の基準も上がります。
何も解決しないのです。
もしかしたら、今いる私たちの世界も「元の悪い世界」から「善良な人だけで集めた世界」なのかもしれません。

だからこそ、犯罪者をカウンセリングして更正させ、職を与え社会復帰させることが、被害者・遺族のケアと同じぐらい重要になります。
犯罪者にも色々な選択肢を広げさせるべきなのは
「誰にも幸せになる権利がある」という簡単な話ではなく、そのほうが合理的だからです。
犯罪者は排斥せよと言うならば、その矛先が次は障害者にくるはずです。そしてその次はLGBTや女性でしょう。
法を犯してしまった人たちへいたずらにスティグマの烙印を押す行為は、ナチズムと変わりません。
そもそも犯罪者と私たちの間にはそこまでの差があるのでしょうか。
タイミングや何かが少しでもかけ違えれば、誰にも犯罪者になる可能性はあるのに……。

ただし、私は犯罪者を全面的に擁護するつもりもありません。
例えば、私は植松聖が嫌いです。私には重度障害者の兄がいたからです。
兄は一昨年、35歳の「寿命」で亡くなりました。
コロナ禍で「東京からの病院の立ち入りはご遠慮ください」と死に目に会えなかったのがくやしいです。
しかし驚くことに、植松の差別思想には多くの賛同者がいました。
つまり障害者差別感情は多くの人間にあり、植松との差は「やったかやらないか」のごく僅かしかないのです。
それがとても恐ろしい。
もちろん、これを書く私にも何らかの差別感情は存在するし、自身の加害性を自覚しています。
あらゆる差別は感情なので全く持たない人間はいないし、「私は全然ないよ!」と主張する人は欺瞞しかありません。

では、我々と植松の差は何なのでしょうか?
私は犯罪の擁護ではなく、「犯罪者とそうでない者の違いは何か」を問いたいのです。
犯罪者も何か少しでも違えば社会から零れ落ちることのない未来があったのでは……。

犯罪という概念に目を背け続けるのは果たして本当に倫理的な態度なのでしょうか。
前述したように、犯罪はなくなりません。だからこそ、再発防止に努めるべきです。
そして、その防止策は犯罪者を差別したり重罰を与えたりすることではありません。社会に適応できる形で更生させることです。
しかし現状は専門家ばかりがその任を負い、多くの人々は無関心です。
それでよいのでしょうか。
一人ひとりが罪を犯さないようにしたり、被害に遭わないよう、意識を変えていくべきではないかと思うのです。

もちろん、加害者と被害者では悪いのは明らかに加害側です。
似たような生育歴や環境でも、罪を犯す人と犯さない人とがいるのは事実です。
被害者に一切の責任はありません。
だからこそ、誰もがさらに被害に遭わないための再発防止なのです。
真の再発防止は加害者の厳罰化ではありません。更生です。それが、ゆくゆくは被害者のためにもなることだと思います。

「罪を憎んで人を憎まず」は無理かもしれませんが、犯罪とは根深い社会構造の問題です。
もし、その犯罪者が生まれていなかったら……そういう問題では根本的にないと思います。

また、規範から逸脱した者を落伍者として排斥しようとする運動は紀元前から存在するもので、人類のDNAに刻まれた生理的なものかもしれません。
だから今こそ理性的になるべきなのではないでしょうか。

私もテロリストだったかもしれないと思うときがあります。それを明るみにしたのは、安倍晋三を討った山上徹也でした。
山上は統一教会2世で、カルト宗教や自民党に恨みがあり、それが原因でテロリズムを起こしました。同じ統一教会2世である私もひょっとしたら山上と同じことしでかしてしまったのではと思う瞬間が多々あります。
しかし、あり得たその未来を防ぎ、私を救ったのは、アートです。
アートがあったから、私はテロを起こしませんでした。

作家人選も世間一般からすると、犯罪者スレスレのような危うい雰囲気を持っているかもしれません。
それでもなお、美術家としていられるのは。
罪を犯さずワイドショーを賑わさないでいられるのは。
それは、アートがあったからではないかと私は思っています。
あるいは。法的には裁かれなかっただけで、あれは犯罪だったのでは……。あれは一歩間違えば犯罪になり得たのではないか。そんな経験が鑑賞者のみなさんにもあるはずです。
犯罪者とはなんなのだろうか。
自分はもう、犯罪者なのではないか?

犯罪というセンシティブなテーマに反感を覚える方もいるでしょう。
しかしそれこそが、作家や作品と、鑑賞者の間に、濃密なコミュニケーションが生まれる瞬間なのではないでしょうか。

コミュニケーションはポジティブなものばかりではありません。例えば、山上徹也が安倍晋三を殺害して、警察か警備員に取り押さえられた瞬間は、濃密なコミュニケーションであったのではないでしょうか?

単に物議を醸したいだけ、世間を騒がせたいだけならば、アートなんて細かいことをせずに人を刺したり物を盗んだりしたほうがが手っ取り早いです。
本人がいくらアートだと思っていても、その過剰な欲望から法を犯す行為が犯罪だと見做されることも少なくないでしょう。

一見汚いものや醜いものをテーマに突き詰めると、逆説的に美しいものや純粋なものを生み出せる影響力がある。
そこに、アートとしてわざわざ昇華する意義があるのです。

善悪で言うと悪かもしれないが、美ではある。そんな犯罪もあります。

アートと犯罪の共通点として「逸脱に価値を見出す」が挙げられます。
アートは既存のルールを破壊して新しい価値基準を生み出すもの。
犯罪は法という規範を破壊して社会から脱落するもの。
また、何が犯罪やアートを定義するのか。
それは、前者は司法、後者はアートワールドであり、どちらも制度上の問題と言えます。
欲望に裏打ちされた犯罪も、表現手段の一つであるという点においてアートに近いものがあります。

数年前に「死刑囚の絵画展」という展示を見ました。
そこには確かに「今、ここに生きている」死刑囚たちがいました。
彼らは落伍者として死が決定してもなお、依然として人間であり続けていて、それを絵画を通して世に訴えているのです。

私たちは犯罪当事者ではなく、ただのアーティストです。
犯罪を俯瞰してはじめて見えてくる表現もあるのではないか。
犯罪という、ネガティブなテーマを掘り下げることで本当にピュアなものに行き着くのではないか。
本当に美しいアートとは、犯罪のようなセンシティブなテーマにも挑むことではじめて生まれるのではないか。
現代アート的なアプローチで作品に昇華すること。それが我々の使命なのかもしれません。
いつまでも臭い物に蓋をする世間へ、この展示を通して一石を投じたい。

この展示に参加する作家は十一人います。
統一教会二世で、皮肉さと純粋美術を両立しようとするあおいうに。
死体や身障者などを独自の解釈で描く笹山直規。
ホラー映画というフォーマットで、人間と非人間の境界線を暴き出す司馬宙。
コミカルな画風ながらも諧謔に富んだ作風の中尾変。
個人の経験からシュルレアリスム的な表現に挑むなかがわ寛奈。
不安やネガティブな感情を色鮮やかに描くニロタカユキ。
圧倒的画力とレトロ色彩センスでキッチュなテーマを描く濱口健。
ポップさと暗鬱さが同居する少女の内面世界を紡ぐハムスターの息子に産まれて良かった。
リビドーに焦点を当てて表現を展開する牧田恵実。
美少女キャラクターをエロティック&グロテスクに描くMIRAI。
長年死刑囚をテーマに数多くのペインティングを制作している吉岡雅哉。
このように、様々な作風やバックグラウンドの作家が集まり、犯罪についてアプローチしています。

ご来場の皆様にも考えていただきたいです。
犯罪者とは誰か。犯罪とは何か。どうして起こるのか。
私たちのアンサーがこの展示作品です。

※作家全員がこのステートメントに賛同して制作を行っているわけではありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?