飛騨神岡の武士「江馬氏」 史実に残る姿をまとめてみた(メモ)② 戦国時代

江馬時経の時代

三木氏代替わり直後の戦い(1516)

1516年(永正十三年)、三木氏の当主だった重頼が死去し、直頼が後を継いだ。このとき、三木直頼は弱冠十九歳だった。

三木氏代替わりのタイミングで、飛騨では戦乱が起こった。
例によって戦いの詳細は不明だが、三木氏の隙をつき、江馬氏が勢力拡大を図って戦いを仕掛けたものと考えられている。

戦いは翌1517年まで続き、最終的には江馬氏が敗退した。

この時の江馬氏当主が誰なのかは不明。
14世紀末、相国寺に仏事銭を納めてからは二十五年が経っている。
その頃とは別人が当主だったと考えるのが自然だろうか。

江馬時経、水無神社へ寄付(1521)

江馬氏が三木に敗れてから4年後、江馬時経の名が記録に現れる。
敗戦直後と言って良い時期である。

飛騨一宮水無神社の修復工事があり、江馬左馬介時経も銭二十貫文を寄付した。
二十貫文は二千疋なので、相国寺に納入した仏事銭より額が大きい。

江馬時経は、本名(俗名)ははっきりと残る二人目の江馬氏である。
元経と「経」の字が共通する点が注目される。
ただし、時経は伊勢氏から養子に来たか、あるいは伊勢氏と江馬氏女性の間に出来た子だったらしい。

江馬氏が三木氏に敗れた直後でもあり、前後の事情についてはいろいろと想像が膨らむ。が、いずれにしても想像の域を出ないので、これ以上考えるのは控えておく。

江馬時経は、時によって左馬介だったり左馬助だったりする。当時は、漢字にさほどこだわらなかったらしい。
ここでは一応左馬介としておく。

江馬氏と三木氏の婚姻(1539以前)

天文七年頃のことか、江馬時経の娘と三木直頼の息子・良頼の間で婚約が結ばれた。

結婚前に時経の娘は体調を崩し、三木直頼が見舞いに来た。
直頼は「娘御はきっと回復するだろう」という手紙を関係者に送ったが、1540年(天文九年)正月、娘は体調が回復せず死去してしまった。

その年、三木氏の城下を能衆が訪れた。
三木氏としては能を興行させたかったが、ちょうど百日法要の日に当たっていたので、江馬氏に気を使って取りやめた。
色々と興行させる方法も模索したが「やっぱり江馬氏に悪い」ということで諦めている。

谷口研語氏は「直頼の江馬氏に対する気の使いようは尋常ではなく、三木氏になんらかの過失があったものだろう」と述べ、娘の体調が万全でないのに三木氏が婚礼を強行した可能性を指摘している。

谷口氏の整理によるとこの前後に事情はこうなる。
天文九年正月、三木良頼の妻・または婚約者(江馬時経の娘)が亡くなる。
その後、良頼は向家から後妻を迎えた。
そして天文九年のうちに嫡男の自綱が生まれた。

この事情が正しいとすると、良頼が後妻を迎えたのは、時経の娘が亡くなる前、または亡くなった直後(二カ月以内)だ。
良頼再婚のタイミングは、普通に考えたら江馬氏を激怒させそうな案件ではあるが、どうか。

東濃出兵(1540)

1540年(天文九年)八月、三木氏は東濃へ出兵した。
ここまで三木氏の動きは省略していたが、三木直頼は積極的に軍事行動を行って高山盆地はすっかり掌握していたし、周辺諸国にもしばしば出兵していた。

この時は大規模な遠征となり、姉小路三家、広瀬氏、そして江馬氏が援軍を出した。援軍の数は、それぞれ百、二百人。
飛騨北部の地勢を考えれば、かなり大規模な援軍だったと思われる。

江馬氏の援軍を含む遠征軍は、三か所の城を攻略して武名を上げた。

十月、三木直頼はお礼のために広瀬・古川・高原郷に赴いた。
直頼はお礼の品として酒を用意し、それぞれ酒樽50ずつを持参して回った。

江馬左馬介の本願寺訪問(1542)

1542年(天文十一年)、江馬左馬介が大坂本願寺を訪問した。

この時の左馬介は江馬時経だろうと見られている。水無神社に寄付してから21年後のことだ。

本願寺証如の日記にこのときの記録があり、証如は「(左馬介は)伊勢守の庶子とのことだ」と書き記している。

伊勢守は、室町幕府の政所執事・伊勢氏のことと見られている。伊勢氏は代々伊勢守で、伊勢伊勢守だったわけである。
この時は伊勢貞孝(1483-1535)が伊勢氏当主であり伊勢守だった。

年齢的には、江馬時経が伊勢貞孝の子だった可能性は十分ある。
貞孝二十歳頃の子であれば、水無神社に寄付したときは十代後半。三木直頼の例を見れば、当主になってもおかしくはない。

江馬氏と伊勢氏は、1381年に一緒に幕府の遵行命令を受けた縁がある。
この頃から見れば半世紀以上前のことなので、縁というには関係が薄いが、数少ない史料の中で二度も名前が出てくることは、それなりに注目されるだろう。

安国寺の兵乱(1544)

1544年(天文十三年)、荒木郷の安国寺が兵乱に巻き込まれて燃えた。

例のごとく、この戦いも詳細は不明である。

三木氏側の史料では、三月に「三木直頼自身が出陣しようとしたが、八賀衆の意見でとりやめた。まずは三木新九郎、四郎次郎の二名を派遣し、三仏寺に駐屯させた。越中衆が出陣してくるとの噂がある」とある。

五月に入って、三木直頼が書いた書状がある。
「国内がおさまる見通しは立った。しかし高山では米が輸入できず困っている。そのため、信州木曽から取り寄せる手配をした」との内容で、越中からの交通が途絶えた様子が伺える。

戦に絡んでいるのが安国寺と越中衆、そして高山と越中の間の地域なので、江馬氏が関わっているのは間違いない。
また越中衆は、戦争にあとから加わる(という噂があった)ので、最初から当事者だったわけではない。

江馬氏と姉小路氏の戦いと見るのが妥当だろうか。

江馬時盛の時代

三木氏との関係

江馬時盛の頃になると、三木氏の当主は直頼から良頼に代わっていた。
良頼は、息子の自綱に姉小路氏のうち古川家を継がせて、いわば古川家を乗っ取った。以後、自綱は姉小路氏を名乗るようになる。
そういうことがあったので、良頼も姉小路良頼になったのかもしれないが、ややこしいので引き続き三木良頼とする。

三木氏は姉小路氏の権威も利用して飛騨全域に影響力を及ぼし、江馬氏や広瀬氏とは同盟関係を結んで、影響下に置いていたものと見られている。
江馬氏や広瀬氏は三木良頼を盟主として傘下に加わったものの、三木の領国と言えるほど家臣化はしていない。基本的には独自の動きをとっていたようだ。

上杉との関係

三木氏は早い段階から上杉氏と連絡を取り合っていた。
飛騨と上杉氏の関係が始まった時期は不詳だが、永禄年間には三木氏・江馬氏とも、上杉の影響を受けていたと考えられている。

上杉氏側では、村上国清が飛騨の取次を担当した。
江馬氏側では河上式部少輔が窓口となり、書状のやりとりをしている。

武田氏からの調略(1559)

1559年(永禄二年)、武田信玄から麻生野右衛門大夫への書状が残っている。
麻生野右衛門大夫は、麻生野直盛のことだろうと見られている。

内容は、
「○木口、百貫之所を麻生野に与える、忠節に励めばさらに与える」というもので、「○木口」は荒木口ではないかとされる。

この時点で武田軍の侵攻があったとも、調略のみが行われたとも言われ、実態はよく分からない。

軍記物では、このとき武田軍の大規模な侵攻があったとする。
『高原郷土史』によれば、飯富昌景を主将とする武田軍が飛騨に侵攻し、江馬軍は国境で交戦したが、防ぎきれず降伏した。江馬輝盛と麻生野慶盛が松本まで出向いてお礼を述べ、武田氏に人質を出した。
とある。

史料上に残るのは上述の書状のみである。
あるいは、その書状が軍記物の記述を裏付けていると見なすことも出来るのだろうか。

侵攻があった場合、武田軍を引き入れたのは江馬時盛と見られる。

江馬輝盛、住吉神社へ寄進(1560)

1560年(永禄二年)、江馬常陸介輝盛が活動していた記録がある。
荒木郷上流、折敷地の住吉神社に鰐口を寄進した。
(鰐口については、ググるのが早い)

記録としてはただそれだけなのだが、荒木郷が江馬氏の活動範囲だったことを示す史料として注目される。
また、近隣の千光寺には三木氏が寄進をしている。
住吉神社と千光寺は水系が異なるので、この辺りで江馬氏と三木氏の境界線があったのだろうと言われる。

ただし、それなら「1521年に江馬時経が水無神社へ寄付していたから、宮村のあたりは江馬氏の勢力圏だった」という説も成り立つのか?
といえば、それは確実にない。
その辺りの線引きは難しい。

武田軍の飛騨侵攻(1564)

1564年(永禄七年)六月頃か、飯富昌景率いる武田軍が飛騨に侵攻した。
武田軍は安房峠を越えて吉城郡に入ってきた。
江馬時盛が武田軍にくみした。

上杉側では「江馬時盛が再び反乱を起こした」と表現したので、時盛が武田と結んで軍事行動を起こしたのはこれが二度目だったのかもしれない。
となれば、やはり永禄二年にも武田軍は侵攻してきていたことになる。

江馬輝盛は高原を脱出して越中との境まで後退した。
越中との境となれば猪谷あたりが最初に思い浮かぶが、有峰を越えて中地山城を拠点にした可能性もある。

飯富昌景が神岡に城を築いたとされるのはこの時のことである。
現在は、その跡地には神岡城が築かれている。
江馬時盛が武田方についたので、飯富昌景は神岡まで難なく進み、駐屯地としたのだろう。

その後、武田軍は丹生川へ進み千光寺を攻め落としたとされる。
この件については一次史料が残らない。

江馬輝盛は高原郷を脱出し、越中境で態勢を立て直した。
上杉氏に事態を通報したのち、三木良頼とともに高原を攻撃している。
江馬輝盛と江馬時盛が合戦に及んだのは、このときのことである。

上杉謙信は越中諸将に輝盛を助けるように指示したのち、自らは川中島の戦いを起こして側面から支援しようとした。
武田側は謙信への対応に追われることになった。

結局、武田軍は川中島の戦いのために飛騨からは撤兵した。
残された江馬時盛は上杉方に降伏した。

時盛は上杉氏に血判誓紙を提出し、人質を差し出した。
以後、時盛は史料に現れない。
この時に輝盛に家督を譲ったものと思われる。

江馬氏下館の廃絶

16世紀の半ば、江馬氏は下館を放棄する。
この16世紀半ばというのは、長めにとって1530~1570年あたりのことだと思われる。

江馬氏下館が廃絶したきっかけになりそうな、この時期の大きな出来事は三つある。
一つは、江馬時経から江馬時盛への代替わり。

二つめと三つ目めはほぼ同時期。
武田軍が高原郷に侵入して神岡城(東町城)を築いた時と、江馬時盛から江馬輝盛に代替わりした時である。

館を放棄した以上は、当然次の拠点が必要になるわけで、神岡城(東町城)を新設して引っ越したと見るのは自然ではある。

江馬輝盛の時代

武田から具足を受け取る(1565)

江馬輝盛は、江馬時盛から家督を受け継いだ。
時盛が武田方だったのに対して、輝盛は基本的には上杉方だったと見られている。

しかし輝盛は家督を継いだ直後と見られる頃に、武田信玄から具足を受け取っている。
1565年(永禄八年)、武田信玄は部下を遣わして、江馬輝盛が所望した具足を届けた。

武田軍が飛騨から撤兵し、江馬時盛が上杉氏に降伏した翌年の出来事である。
輝盛はこの後も上杉方として活動しており、このタイミングで武田と結ぶ動きを見せた理由は不明である。

芦峅寺村に制札を出す(1569)

1569年(永禄十二年)9月、江馬輝盛は芦峅寺村に制札を出した。
この年は上杉謙信による越中侵攻があったので、その絡みで江馬輝盛も軍勢を動かしたのかもしれない。

上杉軍の越中侵攻に加わる(1572)

輝盛が先ほどの制札を出した年以来、上杉謙信は越中制圧の戦いを本格化させた。
上杉軍の越中侵攻は必ずしも順調ではなく、飛騨勢も援軍としてしばしば越中に呼ばれるようになった。

戦いが続く中、1572年(元亀三年)には江馬輝盛も越中に参陣した。

8月、三木良頼から上杉方への書状には
「加賀勢が出陣してきたと聞いた。本来なら私自身が出陣するべきだが、病が重い。江馬輝盛が出馬することになったからなんとかなると思う」
とある。

翌月になって、江馬輝盛とその配下の和仁備中守が上杉軍の陣に到着した。
江馬方から太刀が贈られ、謙信は和仁備中守に謝意を伝えている。

ところが、10月になって、江馬の軍勢は無断で帰国してしまった。

謙信は江馬輝盛の配下・河上定次に書状を送った。
「江馬輝盛が無断で帰国から諸将が悪しざまにいっているが笑止である。江馬方にも事情があったと思うし心配している。今後も引き続き付き合いたい」とずいぶん気を使った内容である。

飛騨では三木良頼が病に臥せっており、この翌月に亡くなってしまう。
良頼の病状が悪化し、飛騨の情勢が不安定になったことが江馬氏帰国の原因と推測されている。

ちょうど同じタイミングで武田信玄が西上の軍を起こしており、その関係も考えられるかもしれない。
武田信玄は飛騨にも積極的に調略をしかけており、その成果に自信を見せていた。具体的にどのような調略だったかは不明だが、江馬氏にも関係があったかもしれない。

江馬輝盛から上杉氏への情報提供(1573,1575)

三木良頼が死去すると、その跡は自綱がついだ。自綱は姉小路の古川家を継いでおり、姉小路自綱と名乗った。姉小路自綱は、だんだんと織田信長に接近していく。

1573年(元亀四年)、上洛を目指して西進していた武田信玄が陣中で死去し、武田軍は撤退を始めた。
江馬輝盛配下の河上中務丞は、上杉方に書状を送って武田軍撤退を通報するとともに、武田信玄死去の可能性を伝えた。

信玄が死去したのは4月12日だが、河上富信の書状は4月25日付である。
その死は秘匿されたとされるが、江馬氏はかなり早い段階で情報を得ていたようだ。

その二年後、1575年(天正三年)に長篠合戦が起こると、この戦いの様子も江馬氏から上杉氏に伝えられている。

上杉から織田へ(1576)

1577年(天正五年)、上杉謙信が越中へ再び進軍した。
江馬輝盛は越中に来た謙信と連絡を取り合っている。
上杉軍は、飛騨口に砦を二カ所作って、飛騨勢への備えとした。織田方に接近した姉小路(三木)に対するものと見られている。

この年、上杉謙信と織田信長が武力衝突を起こした。
これまでは武田信玄という共通の敵に対処するため、上杉と織田は同盟関係にあった。
二年前に信玄が死去した上に、拡大を続けてきた両勢力は加賀で国境を接してしまった。
手取川の戦いを機に、上杉と織田は長い戦争に突入する。

この戦争は飛騨の諸勢力にとっては非常に都合の悪いことで、もっとも避けたかった事態と言っても良い。
飛騨の南・美濃を領有する織田と、北・越中を領有する上杉のどちらにつくかを選ばないといけない事態となった。

姉小路(三木)は早い段階で織田との結びつきを強化していたが、江馬氏は上杉と隣接していることもあり、この後もしばらく上杉方だったようだ。

高原での合戦

1576年(天正六年)3月、上杉謙信が死去した。

謙信の死去を受けて、織田軍は飛騨路から越中への侵入を図った。
姉小路自綱も、信長の命を受けて越中攻めに加わった。

その途上のことか、高原で合戦が起きた。
この年の6月に高原で起きた戦いで、自綱が部下に感状を出している。

上杉方についた江馬氏と戦ったものだろうか。
この戦いも詳細は分からない。

織田氏への帰順(1582)

高原で合戦が起きた6年後、1582年(天正十年)には、江馬氏は織田氏に従うこととなった。

1582年二月、織田信長は武田征伐の軍を起こした。

この戦い中に、江馬輝盛から織田方に手紙が送られている。
「人質のことについて飛脚で申し入れたが、無用とのことだったのでそちらにお任せする。信州出陣のことは承った。ついては、信州で織田信長にお目通りしてお礼を述べたい」との内容だった。

江馬輝盛はついに上杉方から織田方への鞍替えを決意し、武田征伐の軍に加わったようだ。

高原での合戦後、織田軍は飛騨を頻繁に通過していたので、その間もずっと上杉方だったとは考えにくいが、詳しいことは分からない。

八日町の戦い(1582)

武田征伐の同年・1582年(天正十年)六月、本能寺の変が起きて織田信長が命を落とした。
その関係で飛騨の情勢も不安定になり、姉小路(三木)氏と江馬氏が争うようになった。

10月、江馬輝盛は挙兵して、小島城を襲撃した。
しかし取り合い(和睦)があって、江馬勢は荒木郷の梨打城に後退した。

翌日になって、姉小路自綱と小島時光らの軍勢は、江馬軍を追って荒木郷に進んだ。
迎撃に出た江馬軍と姉小路軍は、国府の八日町で合戦に及んだ。
この戦いで江馬輝盛は戦死し、江馬氏の重臣も多数命を落とした。

小島時光が姉小路勢の先鋒として高原郷に攻め入り、江馬家の本拠地であった高原諏訪城を攻め落とした。

このとき、小島時光は『大般若経』を戦利品として持ち帰った。
その経緯が『大般若経』の裏書として記されており、八日町の戦いに関する唯一の史料となっている。

江馬時政の時代

姉小路軍の攻撃で江馬輝盛が戦死、高原諏訪城が陥落したが、江馬氏はただちに滅亡したわけではないらしい。
輝盛の後に江馬時政という人物がいて、江馬の旧領を引き続き統治したようだ。

佐々成政の高原侵攻

時期は不詳だが、佐々成政の軍勢が高原郷に攻め込んできたことがあった。
江馬氏は佐々軍に抗しきれず、高原の城を放棄して岩屋堂に後退した。
天正十二~十三年のことと想定されているので、江馬輝盛の死後も高原郷は江馬氏が治めていたことが分かる。

金森長近の禁制(1585)

1585年(天正十三年)、金森長近が飛騨に侵攻してくると、高原郷に禁制を出した。
江馬知行分の地での乱暴狼藉・放火を禁ずるという内容で、この時期まで江馬氏の知行していた土地があったことを示すものとされている。

まとめ、感想

江馬氏に関する直接的な史料は少ない。

江馬氏の歴史には空白の部分が多いので、そこは伝承や軍記物で補強していく必要がある。

ただ、その前に明らかに史実な部分とそうでない部分をしっかり分けて理解できた方がより良いと思うので、史実部分を切り抜けたのは良かった。

ただ、別にこんなメモを作らなくても、最初から大下永氏の「文献資料に見る江馬氏の歴史」を読んでいればそれで済んだな…と思うなどした。
(半分くらい書くまで、『天地を翔ける』のことを失念していた)

今回は史実における江馬氏の姿を見たが、地域おこしには軍記物や伝承に見える江馬氏の姿を活用するのが良いと思う。


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