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本物の愛はどこか?+18章(第一稿)

922文字・30min+18章


今日は書いていて、カラマーゾフの兄弟のアリョーシャの悲痛な叫びのようなセリフが湧き出した。書いていて真面目なセリフがどんどんとコメディチックになっていくのが、なんだかドストエフスキー作品に通じるような気がして、書いていて笑った。よくもまあ自分を自虐で笑えるものだ。と最近は自分を感心する。

田中未知子は架空の人物だ。

田中未知子のモデルは実在する。筆者にとって生涯に渡って大切な(存在になるかもしれない、非常に不確かな関係の)女性だ。だが、田中未知子のモデルは「筆者」を苦しめている自覚はない。少なくとも筆者にはそう感じる。パラドクシカルな構造だが、彼女が一読者となってこの小説を読んでみると「男」は「田中未知子」にひどく痛めつけられていることが判明する。

村上龍は最近の小説でおなじことを語っていた。

最初に出会った女性のために小説を書きつづけている。が彼女とは結ばれることはない。彼女との喪失を埋めるために私は小説を書いている。彼女と結ばれていたら私は小説を書いていただろうか? 何かに満たされて私は小説など書かなかったかもしれない。

村上春樹さんも最新刊で(メタファーという形で)おなじようなことを書いている。村上春樹の小説で失踪する女性はほとんど一見、なんの問題もなく見える「妻」だ。
「あなたは結局、私に何も与えてはくれなかった」
と、一枚のメモを残して失踪する。

「街と、その不確かな壁」「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」「街とその不確かな壁」の壁三部作では、壁の街は、まるで永久機関のような完璧に自立した街を描いている。それは文学では(つまり文字でこそ)描けるが、現実の世界ではそんな理想の街などは存在しない。という暗喩であり、示唆だ。

その壁に囲まれた街のなかの「彼女」はまさしく「ぼく」の理想の「きみ」である。

村上春樹の長編小説のなかの「現実」の女性「妻」は、「ぼく」から逃げだす。

本物の愛はどこか?

「ぼく」はいったい、「どこ」で「だれ」と結び付かなければいけないのか?

そう考えると、村上春樹は「源氏物語」をデコンストラクション(換骨奪胎、本歌取り)していることがわかる。「海辺のカフカ」の田村カフカも、「騎士団長殺し」の私(私の過去の妻)も「1Q84(この作品は色々な人が色々なところで)」みな幽体離脱をして、時間と距離を超越して愛する相手と交わる。

村上龍も、村上春樹も、まったく別ジャンルのことを書いているようで、じつは二人は失った女性(失った過去)に愛を伝えるために小説を書き続けている。




■ 一七章 居酒屋のんちゃんにて

◉居酒屋「のんちゃん」

「それってもしかして虐待じゃない? 」

 ミチは言った。

「え? 」

 男は答える。ミチは両手を薬指と小指を男の片方の手のひらにさしこんだ。男の手のひらをひらかせて、指のはらで、ここは感情線でここは生命線ねと言って、触った。まるで手相を占う易者かのように。二人のあいだに時間がゆっくりと流れた。

 「これ、最近見たショート動画なんだけど」

 ミチは机に置いたケータイをフリックしてショート動画を開いた。それを男に見せた。

 海外のショート動画だった。ショッピングモールであるく女はすれちがいに少女にバッグをはたき落とされる。少女は父らしき男に手を引かれ去ろうとする。文句をいいに詰め寄ろうとする女は少女が後ろ手で親指をかくすようにして四本指で手のひらをグーパーグーパーさせる。その少女の後ろ姿を目撃すると女はすかさずに少女の腕を引いて父らしき男に警告を発する。十五秒程度のみじかい動画だった。

「このグーパーグーパーで『助けて』って合図って世界共通なのかしら」

「これはやらせ動画だよ。だって撮影者がいるじゃないか」

「何が言いたいの? 」

「グーパーが虐待のSOSのシグナルだと世界に認知されることは重要なのはわかる。けど」

「けど、なに?」

「けど、これじゃあ、そこいらの地上波やメディアとおなじで再生数を稼ぐだけの都合のいいデマに近い気がする」

「デマってどういうこと? 」

「物語を都合のいいようにでっち上げているってことだよ。この動画には加害者にバレないように被害者を助けだす物事の本質はなにひとつ描かれていない。だってこれとおなじことやっても、もし男が少女の父であれば警察に連行されて、結局また少女は家にもどるだけだ。誘拐であれば別だけど。誘拐ではこういう状況は生みだされないよね。どのみち解決策のないフィクションだとおもう」と言って男は黙った。

「それでも、SOSのシグナルが世界に認知されるって点においては重要なことなんじゃないかな。私はそう思うけどな」

 ミチもそう言って黙った。男は数時間前に保育園で出会ったほほの赤い少女の顔を思いだした。

「娘がリストカットをしたの、私はそれが心配なのよ」

 田中未知子は男に言った。

 男は返答に窮した。間を置いて優しさをこめてほほ笑み返した。

 じつは男は心でこう思っていた。目にみえる傷よりもむしろ目に見えぬ傷のほうが辛いのではないか? 男は大学時代にリストカットを常習する女と付き合ったことがある。その女は都内の国立大学に落ちて男とおなじ私大に通う苦学生だった。真面目で内向的な責任感のある女だった。男が女に向けて書いた愛の詩を、目を見開いた顔で、文字のつらなりをじっと見つめ、素敵だねと。やさしく微笑む女だった。女はどこの奨学金も得られずに、なぜか苦手な客商売のバイトをやった。給料がいいというそれだけの理由だった。その女はバイトで次第に同僚からイジメを受けるポジションになった。女は仕事が苦痛になった。学校の単位を落とすようになった。最近どうしたの? と男が訊くと、「バイト先のイジメに抵抗するのも他者としゃべるのも、あなたと向き合うのさえすべてに疲れ果てたの」と女はいった。深夜バイトから家に帰って風呂場の湯に浸かってカッターで自分の手首を切る。女はそれを繰りかえした。手首から流れでる自分の鮮血を見てそれで「私の手首から真っ赤な血。やっぱり私は生きているんだ」と安心すると女は言った。リストカットは命を危険に晒す行為にちがいはないが自分を苦しめる行為から解放させる。

 田中未知子は笑って別の話を継いだ。


■ 一八章 串カツ田中にて(男の過去の話)


「酔いませんね」

 男はいう。ミチは顔色ひとつ変えていなかった。ビールと酎ハイを合わせて八本は開けていたが。

 それからミチは自分の息子のことを語った(執筆中)。


「聞きづらいんだけど、ずばり聞いちゃうね」

 ミチはそう言って男にいきなり訊(たず)ねた。

「なんで奥さんと別れたの? 直接的な原因はあるの? 」

 男は下唇をかむ。前歯に下唇が裂けそうなほど力を入れた。

「南京にいたときに、一歳になる娘の前で僕が妻に手を挙げてしまったんです。そのとき、娘は韓国語で妻に、『お父さんがママを殺した』と泣いてさけんだそうです」

 男はうつむいた。

 しばらく沈黙が横たわった。その沈黙は密度が濃い重く冷たい。男だけの沈黙だった。

 男は、夢の話を語り始めた。

 場所はどこでもないどこかなんだ。夢だからね。ぼくは自分でどこにいるかわからない。あ、いましゃべっていて思いだしてきたよ。そうだ。そこはファミレスの窓際のボックス席のような所だった。窓はくもりガラスで外は見えない。けど外ではなにが走っている。なにかの影は時折、通過するんだ。けどそれが車なのか自転車なのか人影なのか光の影なのかはわからない。でもぼくと老婆は向かい合わせに座って見つめ合っている。ぼくと老婆はとても親密になって愛しあっているっていう夢の設定なんだよ。とにかくぼくは夢のなかで老婆とファミレスにいる。そこでふたりでずっと朝まで語りあう。ミチ、きみのことについてなんだぜ。ぼくは老婆にあることないことミチのケチをつける。まくし立てる。「ああたしかにぼくは最低の人間さね。だが田中未知子は全人類の女のなかでもっとも卑怯で冷酷なヘビ女なんだ! 」とか。でも老婆は黙って笑ってぼくの言うことを聞いている。ただ黙ってだよ。老婆はぼくの卑屈なところとか素直じゃない性根がねじれているところとかをぜんぶを黙って受け入れるんだ。ねえミチ、聞いている? 」

 男は真横に座るミチに言う。ミチはほとんど飲み干したピンク色のガリ割のジョッキを肘で前に推(お)して机に突っ伏したまま、モゴモゴと喋っている。「眠いの? 」と男は聞くと、いいからちゃんと聞いているから、つづけて。とミチは言った。

「ミチのおどろくことを言おうか。夢のぼくはいまの歳なんだ。四十六歳。その老婆はね。ミチのお母さんって設定なんだ。でもぼくはミチのお母さんは実際にはまだ見たことはない。ミチからの紹介はまだだろう。だけど九十くらいっていう設定だ。頭がい骨に皮だけっていうような中世の魔女のような絵に描いた老婆だ。あそうだ、思いだした。たしか魔女の帽子をかぶっていた。とにかく夢のなかでぼくと老婆のミチのお母さんが向かいあう。それは決定事項になっている。それでこの夢のいちばん不思議なところは、ぼくと老婆は愛し合っていて、ぼくは老婆であるミチのお母さんになぜかいまのミチとどう付き合うべきかを相談をしているんだよ」と男はいった。

「めちゃくちゃで、まったくわからない。でもそれって夢なんでしょ。夢ならなんでもありえるんじゃない。お話、つづけてよ」

「でぼくはゆめの中ではすごく正直なんだ。まだ罪を知らない少年のように。夢のなかでぼくはなんでもミチのお母さんに語ってしまうんだよ。お母さん聞いてくださいよ、ぼくは今日ね、狂いそうになって、家からとび出したんですよ。なぜぼくが狂いそうになったかって? 田中未知子って女はずるい女だからですよ。女狐みたいに狡猾で卑怯な女なんです。ぼくを平気な顔で欺くんです。ラインで『出られなくてごめんね。今日は当直で仮眠していましたー』って平気で嘘をつくようになったんです。それがなぜ嘘だと分かったかって? だって付き合いはじめたころは昼間でも深夜でも、お互いに時間を作って、ふたりで話したもんですよ。ぼくなんか真夜中、軽トラに乗って、ライトに羽虫がぶつかってくる田んぼの真ん中に出てまでしてミチと愛をたがいの愛の形なんかを語ったもんですよ。だけどミチはね次第に恋愛に面倒になってくるんです。ねえ、お母さんぼくの心の訴えを聞いていますか? ミチはね夜に電話をかければショウちゃんに気づかれちゃうからとか、昼に電話をするといまは娘の冴子がきているから、理由を聞けば正義感をもって自衛官をやっていたはずなのにいつの間にかパワハラに揉まれ、にリストカットしちゃったの。だからいまは相談にのっているんだからって、ぼくがミチにかける電話をなんだか避けるようになっていくんですよっ、もうっ、歯がゆいやらくやしいったらでありゃしないんだ! 」

 リストカットと聞いてミチは、折った腕に埋めた頭をピクリと反応させた。

「あれ、リストカットって、さっきミチから聞いた話だったっけ? 」

 ミチのジョッキに手を伸ばして男はぐいと飲んだ。それはガリ割だった。男は頭がくらくらしてきた。

「アキちゃん、お酒。飲めないんじゃなかったの」

 ミチは顔をあげた。男は顔が真っ赤になった。頭がぼうっとなったまま男は話をついだ。

「たしかにリストカットは可哀想だと思いますよ。でもぼくはそれについては異論がありますよ。ここでは言いませんけどね! 」

 男はミチにむかって『お母さん』と呼びはじめた。男はミチの肩をつかんで話をついだ。

「お母さん、そんなことより聞いてくださいよ。ぼくは家をとびだして牛舎の裏にある川べりをあるいて散歩をしたんです。あるいて散歩。って、言ったのはですね、ロードバイクを跨(また)いで散歩に出かけなかったってことなんです。ロードバイクで出かけて散歩をするって表現もおかしいですけどね! 話はもどりますけど、川べりをあるいて散歩していると、キャンキャンとうるさい四匹の小さな犬に引っ張られてあるく老人と、黄色いキャップと水色のシャツとナイキのウォークングシューズがおそろいの老夫婦と、もうひとりはなぜかサンダルでアスファルトをパタパタとランニングしていましたけどね、その老人たちと、あいさつを交わしたんです。ただのあいさつですよ! そのただのあいさつがですね、ぼくはすごく感動したんです。感動っていうか、感激したんですよ。感激してその場でぼくは道端に倒れこんでしまったんです。それはなにか霊感にちかい魂のふるえだったんです。ぼくはその場で両膝をついて泣き崩れてしまいました。涙腺から涙があふれでて止まらなかったんです。ぼくの心は感激したあまりになんでこんなにふるえてしまったのだろう。ラインでミチに『いま仕事が終わりましたー』って報告されるよりも十倍も二十倍も百倍も感激したんです。そこには憑依というか全能感さえ宿りました。ただの見知らぬ人とのあいさつなのに… 真心同士が通じ合ってしまった奇跡みたいに… ぼくはアスファルトに膝をつき、両手を組んだまま涙があふれでて止まりませんでした。あの散歩でぼくの心はなぜあれほどまでに感激してしまったのか、いまでもぼくにはよくわからないんですが」

 男はミチの目の前にあるジョッキを飲み干した。

「すみません。このピンク色のお酒、おかわりください」

 男はカウンターに立って串を焼くスタッフに言った。

「ガリ割りっすね。まいどー」スタッフは答えた。

 ミチは顔をあげた。

「チンチロリンじゃない? 」

 カウンターのスタッフは笑った。

「マキティ。お客さんにチンチロリンやってもらってー」

 奥から女性スタッフの「りょうかいでーす。まいどー」の声が聞こえた。

「お母さん、ぼくはミチになにがいいたいか、分かっているのに言えないんですよ。ミチへはきだすぼく自身の言葉がゆがんでいる。それが自分でわかるんです。それが切ないんです。泣きたいほど自分が憎くなるんです。やり場のない怒りに全身がうちふるえるんです。それでもぼくはお母さんに伝えつづけますよ。お母さんだけにぼくの真心を伝えますよ! ぼくはミチとの愛の鮮度を保とうと必死なんです。ぼくは彼女のスルーにいくら打ちひしがれても、やはりまたこちらからラインメッセージをするんです。でも彼女はまたぼくをスルーするんです。たぶんね。ミチのやっこさんの腹の中はこうだと思いますよ。つまり既読をつけたらすぐに返信しないと既読無視になってしまうわけだ。かといって放っておけば大抵は面倒になってしまう。でも開くのは厄介だ。その後もぐだぐだと無視をしつづける。んだけども結局は限界点に達してしまう。すると一気にまとめて既読をつけちゃう。それってのはママ友のライングルチャの軋轢のなかで編みだした必殺殺法だ。その殺人殺法を恋人のぼくにやっちまえって魂胆なんですよ! お母さん! ミチは恋人のぼくがうざいと思っているんですかね? 深夜、軽トラにのって田んぼのど真ん中でぼくとあれだけ愛を語り合った田中未知子はどこにいってしまったるですかね! もうこの世にいなくなってしまったんですか! 」

 天井にさけんだっきり男はだまった。

 女性スタッフが、茶碗にサイコロ二つを入れてやってきた。

「チンチロリンのイベントになりまーす。イベントはご存知ですか? 」

 ミチはむくりと起きあがった。

「はい、よくご存知です。楽しみにきましたー」ミチは言った。

「チンチロリン? イベント? 」男は首をかしげた。

 女性スタッフはジョッキを置いた。

「茶碗にサイコロをふたつ振っていただきます。二個のサイコロの出目が偶数がでれば、通常一杯が半額。奇数は通常一杯が倍額倍量。ゾロ目は通常一杯が無料となりまーす。一月からは一のゾロ目はメガジョッキ一杯が無料になりました―」

「わーい」

 とミチははしゃいだ。他のテーブルの客もミチを見ている。

 なんと、ミチが振った二個のサイコロは一のゾロ目がそろった。場内で拍手や鐘がなりひびいた。

 ガリ割のメガジョッキがやってきた。男はひと口飲んだ。

「でも、うざいって態度って自分の価値観の押しつけじゃないですか? 自分が正しいと固めた価値観を他者に押しつける。そのやり口ってミチが前夫にやられた暴力ですよ。お母さんなら知っていますよね。ぼくがお母さんに言いたいのはミチが別れた夫にふるわれた暴力を、まんまいまの恋人であるぼくにふるっているってことなんだ! 彼女のやっていることはまったくの自家撞着ですよ。そもそも愛っていうのは、伝えなきゃ伝わらないんです。じっと待っていただけじゃなにも伝わらないんです。待つだけそれは片思いです。ただの祈りですよ。それに、報告すれば愛や思いが相手にそのまま伝わるってものじゃないし、報告っていうのは情報の移動です。データの横流しです」

 机に突っ伏したミチの肩をつかんで男は「お母さん」と言って揺さぶって起こす。

「四日も連絡がなかったと思ったら『私は今週、身体の調子が悪い。寝不足だとおもう。ずっと頭が痛くてめまいがする。ロキソニンをのみすぎて胃が痛い。吐き気がする。今日はオンコール。明日も仕事。なので早く寝ます。また』ってそれでまた三日のあいだ音信不通ですよ。その情報の報告って、ミチがぼくに語った前夫にやられた愚痴そのまんまなんだから! 」

 男はまたミチの肩を大きく揺すった。ミチは死体のように反応はない。

「それともうひとつ重大なことをミチは知らないんですよ。ぼくがいま本当に心底つまり心の底(男は自分の胸をばんばんとたたいて)、ここから必要としているモノはですよ、ミチの次月のスケジュール表だってことなんですよ! これって、お母さんには分かりますよね。これ、お母さんならどういうことか分かりますよね! ぼくが安心するのはミチの確定したスケジュールを把握したいとかじゃないんです。ぼくへのささやかな気遣い、心遣い。心配。それらの小さな欠片のひとつでも! それをぼくに伝えてほしいってことなんですよ! ミチがぼくにやっているのは釣った魚には餌はやらない。ですよ! ミチはぼくと付き合うとすぐに恋愛麻痺が始まったんだ! 彼女の恋愛麻痺疾患はもう末期症状ですよ! いまのミチは恋愛麻痺重篤患者ですよ! ステージ5です! ミチはそれにまったく気づいていないんだ! 」

 男はミチの肩をさらに大きく揺さぶった。

「小学校のとき、となりの席の仲の良かった女の子が急に登校拒否になった。お母さん、その理由がなにかわかりますか? 女性担任がつけてくるある種のキツい香水がその子には生理的に受けつけなかった。それだけだった。その子は別にいじめに遭ったわけでは無いんです。それって洞察力ですよ。感能力です。電車でミチが座る優先席に、お母さんみたいな老婆が足をふらつかせて近づいてきたら、ミチはやはり席は譲らないんですかね! それじゃあ今日東武伊勢崎線で見たあの薄汚いブタみたいな女と一緒ですよ! 」

 男はミチの肩を揺さぶった。

「お母さん。ぼくはまだ若いままですよ。ぼくの心は十四歳ときといまの四十六の心とどこのなにがちがうんですか? それでいて体は醜く太りました。けれど総合的に見たら十四歳のぼくなんかよりも四十六のぼくのほうが痛い目に色々あったしやる気はあるんだ! 」

 男は、まるで降霊儀式を終えた、魂が抜けた預言者のようになって肩を落とした。ボソボソと語り始めた。

「それからぼくはミチのお母さんとラインを交換して世界で一番の仲良しになるんだ。とても親密になるんだ。老婆はぼくにこんなことを言うんだ。『あなたのその怒りのぜんぶは、決してあなた自身にむけてはいけない。愛するミチにも向けてはいけない。ミチの母のであるこの老婆へ向けなさい。老婆はいくらでもあなたの言葉を憎悪を怒りを受け入れます。あなたが望むなら、あなたの思う女の体にだってなります』って。ぼくは老婆の胸に泣き崩れるんだ。九十の老婆の、垂れて萎(しぼ)んだ胸のはざまに不純で穢(けが)れた涙をとめどなく流すんだ。号泣するんだ。人生で流したことのないほどの量の涙を、永遠と老婆の胸に流すんだ。やがてぼくと老婆はどこかの駅の密かに会うようになって、ある日の夜、深く交わってしまうんだ。それは愛するミチをさしおいた背徳姦通だよ! 老婆はぼくと交わるときに、十四の処女になるんだ… 」


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