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ベスハチとの出会い以前③ アラセブ元パンクス母によるサブリミナル的音楽生活

【前回記事↓】ベスハチとの出会い以前② TVっ子の音楽生活


Elizabeth.eight(エリザベス・エイト)こと 
ベスハチ と出会うまでの音楽体験を語る このシリーズ、
前回は TV番組からもたらされた、
わたしの音楽ルーツについて書いた。


今回は、オタクでTVっ子だったわたしの家庭環境から、無意識に影響を受けていた音楽について書いていく。
ただ、音楽についてというより、ほとんど母の話になる。
2023年11月時点、アラセブである。
わたしの人生における あらゆるものにおいて、母から多大な影響を受けているため、どうしても書かねばならなかった。

如何にしてベスハチの音楽にたどり着いたか。
わたしの通ってきた道と少しでも道が重なるのであれば、
これからこれを読むあなたには、
ベスハチを好きになる素質や素養がある。
そう思う。






▼ 幼少時の視点で見る母


幼少の頃から、我が家には とにかくサブカルチャー寄りのエンタメ物に溢れていた。

これまでのシリーズでも書いてきたように、
手塚治虫アニメのVHSを始めとする手塚治虫の漫画が一通りに、
映画 バック・トゥー・ザ・フューチャー シリーズのVHS、
ディズニー実写映画 メリー・ポピンズのVHSや、
くまのプーさんのアニメVHS、
それらの原作絵本や、その中に出てくる料理のレシピ本の数々に、
ピーター・ラビットの絵本、
その他の大量のアート関連の本、
自ら手に取ることはなかったが大量の洋楽CD等、
室内で楽しめるものには事欠かなかった。

参考用に、バック・トゥー・ザ・フューチャー ↓

このシリーズは特に、母の大好きなSFの世界観と好きな音楽が反映されており、頻繁に観ていた。

当時はそれらを大いに享受していたが、
幼心にもなんとなく、
ほとんど母の趣味で揃えたものなんだろうな
という意識はあった。
(母の実家住まいだった為、母の幼少時代に読んでいた絵本等がそのまま家に混在していた)

ただ、わたしの幼少時はまだ母も教育熱心でもあったので、自分の趣味のものを与える事で、暴れまわる幼い子ども達(わたし・妹・弟)を御しつつ、色々と試行錯誤していたようであった。
(中々言うこと聞かなくてゴメンね!)


漫画に映画に音楽にアート関連、あらゆるジャンルの本の存在から、多趣味な母であることは感じていたが、
時折、母親である以上に多趣味な一人の人間である、という事を強く意識させる事があった。

当時 母に連れられて通っていた、隣町の美容室
母の友人男性M氏が夫婦で営む店で、
トチギの田舎にしては、スタイリッシュでディティールの凝った外観や内装の建物。
店内では ひたすら洋楽ロック的な音楽が流れ、
そこらじゅうにアンディーウォーホルや横尾忠則などのポップアート系のポスターや絵画等が飾られていた。

また、この店の看板には謎にレゲエっぽいイメージのイラストが描かれていたが、
実はそれを母が描いたのだという話を、この美容室へ行く道中でよく聞かされた。

学生時代の母によるイラスト。
この絵が好きで、わたしが個人的に保管していたもの。
当時は漫画家かイラストレーター志望だったようで、
雑誌の挿し絵等の仕事もいくつかもらっていた模様。

この店には母とわたしと妹と弟の4人で行き、毎回まとめてヘアカットしてもらっていた。
それぞれのカットの長い待ち時間中、
我々 子どもたちはM氏の奥さんお手製コーヒーゼリーを食べたり、
店内を探検したりしつつ、
母はM氏とCDや本の貸し借りや、
音楽やアート等の話で盛り上がっていた。

その様子は 母親ではなく、
完全に趣味友達の家に遊びに来ている若者
だったように思う。


当のM氏本人は大変気さくな人で、おもしろくて変わったおじさん(やたらと良い声の)的な位置付けだったので、
同性の奥さんよりもM氏にカットしてもらう方が楽しかった。

しかし肝心なカットが下手で(美容室のオーナーも奥さんの方だった)、
それなりに身なりに気を遣う年齢になる頃には通わなくなっていた。


後から聞いた話だが、
この美容室の店名の由来は
某ミュージシャンや大物バンドがレコーディングしたスタジオの名前から取ったものだったそう。

その名をつけたM氏にしろ、
この由来を知る母にしろ、
こんな田舎では数少ない相当なマニアック同士であり、
子育て中の母にとって、
定期的にこの美容室通う事が ちょうど良いガス抜きとなっていたのだな、
と妙に納得したのであった。



▼ 元パンクス 田舎に潜む


多趣味で少々変わった母ではあったが、
子の母親として人前に立つ際は、無難にきちんとした母親らしい服装をしていたように思う。

が、
母親の顔をする必要の無い場においての格好は、
当時の周りの友人の どの母親とも違っていた。

端的に言えば、
ロック風 か パンク風 のテイストが入ったファッションである。

トチギの田舎に生息する子持ちの人間にしては、中々に浮く格好であった。

当時はそのファッションが、
母のアイデンティティそのものを体現したものであったという事は知る由もなく、
自分がそれなりの歳になっても、
ただただ、年齢にしては尖ったファッションをする変わり者の母、くらいの感覚でいた。


そんな母は、元パンクスであった。

パンクスというと、反体制主義を掲げたパンク・ロックバンドを指すのが基本で、
現代日本で言うパンク・ロックは本来のものとは音楽的にもかなり異なって来てはいる。
(音楽史の認識が曖昧な部分もあるため間違っていたらすみません)

↓母の聞いていた70年代パンク参考

わたしの母の場合、
60年代70年代からイギリスのカルチャーにどっぷり浸かっていた事もあり、
イギリスのデザイナーであるヴィヴィアン・ウエストウッドが70年代に持った店
『セディショナリーズ』の服であったり、
その店の常連客から生まれたバンドでもあった
セックス・ピストルズなど、
ファッションと音楽が双方に与える影響によって生まれた、ニューウェイブ・パンクを中心としたイギリス・ロンドンカルチャー寄りのスタイルに傾倒していたのだ。

家の中に やたらとイギリス関連の本やCDがあったのも、そのためである。
(メリー・ポピンズとくまのプーさんのVHSは実に巧妙に母の趣味と子守り用品とを両立していた)

音楽好きなため、CDの枚数も異常な程あったし、
本棚をよく見れば、rockin´ on や Roling Stone 等の音楽雑誌が所狭しと納められていた。
【※11月4日 追記】
ミュージック・マガジン とか レコード・コレクターズ も読んでたよ!
表紙にストーンズが載ってれば全部買ってたよ!」との事(母談)


母は都内に住んでいた学生当時はグラム・ロックが好きで、
Tレックスデヴィッド・ボウイ等を聴いており、
ファッションもグラムテイストの服や小物を身に着けている事が多かった。

そのうち、当時よく通っていた原宿のブティック赤富士で売られていたセディショナリーズの服や、
同じく店に置かれていたニューヨーク・パンク
それに影響を受けたロンドン・ニューウェイブ・パンクの音楽を聴くようになった事で、
一気にパンクに染まっていったという。

当時の母によるイラスト。
ザ・パンクな女の子。
この頃の母の趣味趣向がかなり反映されている感。

当時からアパレル関係の友人が多かった中で、
原宿のSMASHという、セディショナリーズのコピーファッション等を販売するパンク・ショップを紹介された母。

常連客がロック好きばかりだった事もあり、そこに通い詰めてはロック談義に花を咲かせていたそうだが、
そのうちにオーナーからの
「バイトしちゃえば?」
という言葉に乗せられてバイトをするようになり、
好きになったばかりのパンクスファッションに身を包みながら、シルクスクリーンによるプリントTシャツを作らされたりしていたという。

SMASH 主催のパンク・ニューウェイブのライヴイベントでは、
当時一番イケてるといわれていたバンド 8 1/2ハッカニブンノイチ)や ボルシー平沢進 のバンドである ヒカシュー P-MODEL 等が出演し、
当時 中学生だった俳優の 髙嶋政宏 が先輩のバンド(ボルシー)を観に来ていたところを、父親である 高島忠夫 が慌てて探しに来たのを母が対応したというエピソードや、
原宿駅前でそのイベントのビラ配りを嫌々させられた、
という話をよく聞かされた。

↓ P-MODEL(平沢進)の個人的代表曲。
母は平沢進はそこまで聴いていなかったようだが、サウンド的には母も当時から聴いていたようなニューウェイブ・パンク系。

2023年現在では、そのパンク・ショップ自体が
某有名服飾学校の教科書にも掲載されるような
伝説のショップとして祭り上げられていたり、
母が当時 散々作らされたシルクスクリーン・プリントのTシャツに中々の高値がついたりしており、
それを知った母は爆笑していた。
(教科書の件はごく最近、偶々立ち寄った原宿のアパレル店の子が教えてくれたらしい。コミュ力お化けか?)


一応 母も子持ちとなった事で、
ギリギリ一般社会に馴染む程度のロック・パンクテイストのファッションをしていたが、
やはりどうしても田舎では浮く。

数少ないママ友は妹と弟の同級生の母親で、
偶然にも母がM氏の美容室の看板イラストを手掛けた際、
当時の施工を担当したデザイン事務所にいたという女性、くらいのものであった。
(この女性も相当な変わり者だったし、その子どもたちもまた変わり者であった)

ここまでに父の描写がない事に疑問を抱いた方も多いかもしれないが、
父は完全に日本の歌謡曲に生きてきた人間であった事と、
わたしが父から音楽的に影響を受けた部分が1ミリも無いので、書ける事がない。

せいぜい、
音楽好きな母がとんでもなく音痴なのに対し、
逆に音楽オンチな父が異様に歌うまであるとか、
そのくらいである。


▼ 人生における初ライヴ


母は現在では最も好きなバンドとして
The Rolling Stones を挙げている。

ストーンズの有名な舌のロゴマークのアパレル品を見ると、公式・非公式問わずとりあえず買う、という人である。

余談だが、
ついでにニューウェイブ系という事で母も大好きなDEVOの、
上記↑ のストーンズ『Satisfaction』のカバー曲も聴き比べて欲しい。
原型を留めてなさ加減がトンチキすぎて愛しい。
↓ DEVO 版『Satisfaction』

90年代には『学校へ行こう!』という日本のバラエティー番組のオープニングテーマ曲として、謎にDEVOが器用されていたりもした。


母の遠い親戚に、ザ・ドリフターズを見出だしてデビューさせたというプロデューサーが おり、
過去に その人を頼ってストーンズ来日公演のチケットを取ってもらった事があったそう。

それ以降にも再び頼ろうとしたところ、
さすがに当時から人気すぎたのか
「ストーンズはもう勘弁してくれ」と、
代わりに元ビートルズのヴォーカル、
ポール・マッカートニー来日公演のチケットを取ってもらう事となった。

元はといえば、今の母のロック好きは、
小学生当時に観ていた海外のTVドラマや映画に使用されていたロック音楽と、
ビートルズに熱狂していた事に始まる。
母も ポール ならば!!と手を打った。

1989年当時にリリースされたポールのソロ・アルバム『Flowers In The Dirt』の収録曲↓

但し、ポールのチケットを取ってもらった当時、
母は既に我々の子育て真っ最中で、弟も産まれて間もない頃。
すると選択肢は限られる。

結果的に、
幼い弟は祖母に預けられた一方で、
わたしと妹は母に連れられ、

ポール・マッカートニー来日公演@東京ドームへ。

1990年3月の事である。
上記の曲が収録されたアルバム『Flowers In The Dirt』のリリースに伴うツアーの一環で、ソロとしては初の来日公演。

これが、
わたしの人生で初めてのライヴ参戦となった。

幼い頃の事なので全く覚えがないのだが、
母の話によれば、
当時のわたしはライヴで興奮しすぎて
逆立ちしながらライヴを楽しんでいたらしい。
中々激しめの幼児だったようだ。


▼ CDコンポがやって来た ヤァ!ヤァ!ヤァ!


我が家にCDは大量にあったが、
当時の母にとって、音楽を聴ける環境に乏しかった。

そのうち、新しくCDコンポを買う機会が訪れる。
が、
どうも設置にふさわしい場所が無く、どういう訳かそれは、
わたしの部屋に置かれた

当時小学生のわたしはというと、
せっかく自分の部屋にCDコンポが置かれたのだからと、
当時 買い集めたアニソンやJ-POPのCDを聴きたかったのだが、
母が頻繁にわたしの部屋に来ては、私物のCDを聴いていく。

そこで聞かされた音楽たちは、わたしの知るどの音楽とも異なり、
それまで聴いていたアニソンやJ-POPとは全くの別次元のものであった。


そこで母が頻繁に聴いていたのが、
David Bowie であったり

The Velvet Underground であったり

Led Zeppelin であったり

King Crimson であったり

新しいCDコンポが導入されてからというもの、
これらの他にも、
何だかよくわからない音楽が常に流れていた。

とにかく日本語ではない事で、真面目に聞く事を放棄していたように思う。
(ただ、この当時聴いてた音楽もろくに歌詞なんか読んじゃいなかった)

特にキングクリムゾンのインパクトが度を越えており、
当時はいつまで待っても歌が始まらないという曲(インスト曲)
に全く理解が追い付かず、
次第に母の聞く私物のCD類のほとんどは、
右耳から左耳へと流れ出ていくようになった

もはやサブリミナルと同義である。


また、当時はこれと同時に、
レゲエのコンピレーション『100% Reggae 2』
を延々聴かされており、
聞き慣れる頃には、寝る際に子守歌状態で流していたりもした。

このコンピに収録されていた下記↓ の曲は、
日本のロックバンド BEAT CRUSADERS もカバーしていて、
聴いた当時は大変懐かしい気持ちにもなった。

ロンドン・ニューウェイブ・パンクのカルチャーからのレゲエにはピンと来ない方もいるかもしれないが、
当時はイギリスへのジャマイカ移民によってレゲエ音楽がもたらされており、イギリスでもかなり流行った事で、当時のパンクスたちはこぞって聴いていたようだ。
イギリス ロンドンのカルチャーごと愛した母は、
レゲエもそのロンドンカルチャーの一端として捉えていた模様。
ボブ・マーリー等が特に好きであった。

こうして、90年代は
アニソン、R&B、J-POP、ロック、プログレ、レゲエ、ニューウェイブ、パンク、テクノ、エレクトロ、その他諸々という、
よくわからない取り合わせの音楽体験をした幼少期となった。

これらの音楽体験がなければ、今の私はなかったであろう。
胎教含め、母には感謝したい。


そうして母の聞くような洋楽のサウンドで耳慣れてくると、
あのバンドについての違和感が浮き彫りになってくる。

前々回の記事でも書いた、
JUDY AND MARY である。

【前々回 記事】

ヴォーカルのYUKIの高くてイノセントな声はどうにも、
あのロックサウンドには浮いて聞こえてしまう
コレジャナイ

そこに気が付いたのは、
音楽を聴き始めてから何年も経ってからの事であった。
※あくまで個人の感想です


母の話はこれでおしまいになるが、
シリーズはまだ、つづく

今回もベスハチのこと書けなかったので置いときますね!

👑 Elizabeth.eight(エリザベス エイト)

Webサイト
https://beth8.net/

YouTube公式チャンネル
https://m.youtube.com/@ELIZABETHEIGHT

X(旧 Twitter)
https://twitter.com/ELIZABETH_EIGHT

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