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サヨナラロメオ

早朝Kが起き出した気配がして、薄目で時計を見るとまだ7時すぎであった。隣で寝息をたてるRが掛布団を蹴り上げるので、起きると大体私には毛布1枚しか掛かっていない。今朝もそう。窓からの冷気が堪えるし今日はサッカーも昼からだから、もう一回布団を掛けて潜り直したい気分なのだが、だめだめと思い直した。あと1時間したら車を引き取りに業者が来る。Kは先に洗車をしに行ったのだろう。本当は昨日か、先週のうちにでもやりたかったのだが、Rの予定を優先に動いていたら後回しでできなかった。

意を決して布団をめくり、冷たい水で顔を洗うと幾分しゃきっとした。肩が筋肉痛なのは昨日の泥水との格闘のせいだ。ユニフォームは綺麗にできたけどタオルに沁み込んだ泥は結局落ちなかった。Rはあともう少しだけ寝かしておこうか。

晴れて気持ち良い朝でよかった。
水はびりびりに冷たくて手はとても痛いのだが、花粉やらホコリでうっすら粉を被っていた車体の黒いボディが、泡を落とすとてらてらと輝いて見えた。
Kが拭くのに使っている布は、自分が使い古した白いTシャツなのが面白い。ただ単に雑巾用にストックしていた中から取ったのだと思うけど、別の気持ちが込められているような気がする。聞かないけど。

にこは車が大好きだった。
ドライブに行くときは、助手席の私の腿の上が指定席だった。高速の脇に田畑の景色が広がっているような風景に出会うと、前足をダッシュボードにかけて身を乗り出した。私は散歩の紐をシートベルトに絡めてにこを体で支える。ドライブが終わる頃には腿に青あざが出来るのは毎度の事だった。助手席の窓ガラスに、濡れた鼻が当たると拭いても取れ無いとKは文句を言うのだが、にこが嬉しそうだから仕方ないといつも笑っていた。

1月5日に動物病院に連れて行った時は息をするのも苦しそうで私の膝の上でぺたんとしていた。
ブレーキなんとかの警告ランプが時々点灯する車なのに、近場ならなんとか大丈夫だろうとKが根拠もなく言って、久々に走った。
「にこが好きな車に乗って行こうね。病院行ったら楽になるからね。」って言ったけど、聞いていただろうか。8日に火葬場に連れて行ったのが最後だった。もう死んでしまった体になっていたのだけど、私たちはドライブの気持ちでにこを連れて出た。

そろそろ7時半になるのでRを起こしに行く。
いつも寝起きで声を掛けるとぐずるのに、今日は車が行っちゃうと分かっているから彼もなんとか気合で起きる。立ち会いたいと思っている。本当は洗車もやらせたかったが、昨日凍える寒さに耐えて泥のグラウンドで懸命にプレーしていたので、少しでもゆっくり寝かせてやりたかった。

ヘビとバツ。
Rが三つ四つの頃に車のエンブレムを見て言ったこの言葉を、私が気に入ってよく使った。Rは大きくなるにつれて車酔いがひどくなり、ここ数年は特に強まった感がある。車体が低いから振動が伝わりやすいのかもしれないが、友達のお父さんが運転する車には酔わなかったりするので、Kは面白く無いのだった。私も自分は免許を持っていないのに、ブレーキはそっと踏んでとKの運転に注文を出したりして、不穏な空気になることも度々だった。

吐いた記憶もたくさんあるから、多分乗る前からメンタルがやられているのだ。チュアブルや錠剤タイプ等のいろんな酔い止めを試したり、乗る前の食事の量を調整してみたり、音楽を自分で選ばせたり前に座らせてみたり…と、私たちも毎回試しながら苦労した。ここ1年は試合で遠征が多くなり、車でないと連れて行けない所も増えたから余計気を使った。不思議なのは行きは気持ち悪くなるのだが、帰りは殆どケロっとしている。やはりメンタルの問題なのだろうなぁ。

Rの指定席は左の後部席である。酔わない策ならなんでも良いと、夏でも冬でも、トンネルの中以外は窓を全開にして外の空気を吸っていた。冷房も暖房もいつでも中途半端な車内だった。
Rはネックウォーマーで顔を半分おおって、匂いから遠ざかるような仕草で席に乗り込んだ。動き出す前から速攻で窓をあけるのもいつもの事。でもこれがうちの、ヘビとバツのスタンダードだった。

にこの骨のキーホルダーは私が持ち、Rは車のキャラクターである緑の蛇のキーホルダーを握っている。Kが家の周りをひとまわりしようと言う。きゅるきゅるという独特のこのエンジン音も、失う前からもう懐かしい気持ちになる。動画をまわして車内を撮影すると、蛇が後ろからにゅっと現れた。景色をみせているところだと言っているみたいだが、声が風にかき消されてよく聞こえなかった。

今年は年明けからの変化が過ぎて、心がざりざりし通しだ。お前も今日いなくなってしまうんだね。
次は車高の高い車がいい!とか、座席を倒すのに今どきネジみたいなのを手動でクルクルしないといけないの不便!とか好き放題言っていたのに、寂しくて仕方がない。変化が苦手な水瓶座なのです。

ひと回りを終えたところでKの携帯が鳴った。
「少し早いけどもう近くまで来ていて、家の前にレッカーが付けられないから近所のファミマ前まで持ってきてほしいって言ってる。」
もう一度三人で(にこも左手に)乗り込んで、指定の場所まで走らせたのが、本当の最後のドライブになった。

スキンヘッドの屈強そうなおじさんが一人、レッカー車の前で立っていた。Kが書類の引き渡しをして鍵を渡してしまうと、目の前にいるのに他所の子になってしまったようで急に心細くなる。色々ないまぜになって、また家族が減るような気持ちだ。

屈強そうなおじさんは多分間違いなく屈強であるが、とても人が好さそうであった。彼はいつまでも傍を離れない私たちを気にしながら、運転席から顔を出して荷台のレールに器用に車を乗り上げた。屈強おじさんが運転すると車の小ささが際立った。うちのヘビとバツはあんなに小さかったんだね、と三人とも多分思った。

タイヤの固定を確認すると、おじさんは何度もこちらに頭を下げてレッカー車に乗り込んだ。鍵を渡してからほんの10分足らずであった。手を振ると振り返してくれるのは、おじさんとしてよりも、車の気持ちになってくれていたように思う。優しい人でよかった。すぐ信号が青になって、斜めになった黒い車はまっすぐ北に向かって走り去ってしまった。
ばいばい。
隣でRが緑の蛇を振っていた。


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