見出し画像

不登校の原因と真実を告白します。

皆さん、こんばんは蒼葉レイです。

普段は大学生の視点でお話しするZ世代のSNS事情や不登校を経験した自分だから話せる教育やメンタルに関する発信をしています。

今日は不登校を経験していた際にどんな事が辛かったのか、そこからどのようにして今に至るのか、最後に不登校を経験して学んだ事についてまとめてゆきます。


不登校になった理由

僕は小学生の時から少し休む事が多い方ではありましたが、ずっと休み続けていた訳ではなく、いわゆる不登校とまでは判断されませんでした。

また、時期によっては休む機会もほとんど無くなっていました。

しかし、その小学生時代においても友達が多い方では無かったとは思います。

時には休み時間を一人で過ごす事に関して、周りの目を気にしてしまった事もありました。

ただ、それでも友達が増えた時期もあります。

スポーツや勉強で高いパフォーマンスを出して周りに褒めて貰ったり、声を掛けてくれた共通の趣味を持つ友達をきっかけに一緒に遊ぶ時間が生まれていた時は学校に対するネガティブな印象は薄れていたと感じます。


そんな状況が変わり始めたのが中学生の時。

僕は中学一年時に野球部に所属しました。

その部内の人間関係の不和により、自分はその野球部を辞める事になりますが、その部では自分が辞めるより早くに仲が良かったメンバーが複数辞めていました。

僕も最初はその部内のノリに合わせようと努力していましたが、次第にそのノリや人間関係の違和感を強く感じる内に、自分のプレーにも影響を与えるようになりました。

(身体の緊張から急に送球のコントロールが悪化するなど。)

そこから、その辞めたメンバーに対する軽いいじめにも違和感を持つ中で、仲が良かった三年生の先輩の方が何とか纏めていた均衡が無くなったタイミングで「自分はもう居場所が無い」と思うようになった事が辞めたきっかけです。

それから、僕は何事にもやる気を見出だせなくなり、人生で始めて少し太りました。

それから、スマホ依存症によって二重だった目が一重になる程に目を酷使する事で、目や肌、顔の筋力も低下しました。

また、その見た目の変化(周りからすればいちいち見ていないと思いますが)も自分の周りからの視点を気にするきっかけとなり、学校へのストレスが蓄積されてゆきました。

ただ、そこから自分の興味は一気にビジネスや政治、テクノロジーなど、今までとは全く違う自分の生活から離れた所に興味を抱くようになります。

きっかけは中田敦彦さんのYouTube大学などのYouTubeの動画がきっかけです。

そのタイミングで自分は周りの社会や当たり前とされている社会の雰囲気みたいなものに対する違和感を持ち始め、もはや「学校以外」の分野への興味が増します。 

そこからは学校に馴染むや学校内で何をするかよりも、「何でこんな時間を過ごすのだろう」というくらいに既存の学校への違和感が蓄積されてゆき、自分は周りの生徒に誰かに心を開く事すら出来なくなってきました。

(それでも優しくしてくれたクラスメイトや話の合った担任の先生に恵まれた事はあります。)

その後、紆余曲折あり、中学三年生になった頃、それは2020年のコロナ禍のタイミングでした。

コロナ禍で人間関係を減らし、マスクを付けて過ごす生活は僕にとって必ずしも苦痛というよりかは、かえって居心地の良さを感じてもいました。

ただ、その反動やコロナ禍の間に蓄積された自分の知識、さらにその時に始めたSNS発信に自分の居場所を感じるようになってからは学校へのストレスが余計に大きくなったように思います。

そして、2021年、受験を目の間にした冬休みの後、僕は「不登校」になりました。

思えば、長期連休の後に不登校が増えるとよく聞きますが、正に「離れたいと願っていた場所にもう一度戻される事の辛さ」を痛感させられました。

それは、今までは辛いなりに我慢してきたけど、長期連休を挟んでそのストッパーが外れ、今までのように我慢し続けられなくなったのだと思います。

また、2020年12月までの出席が受験に関連するという事も、「もう限界」と吹っ切れた理由の一つでした。

不登校の2ヶ月と特別な1日

受験を目の間にして急に不登校になった事は家族や先生に迷惑を掛けましたし、特に親が最もその状況を受け入れられていなかったと思います。

様々な対応が学校と協議される中、僕は残りの中学生活を自宅で過ごす事になりました。

学校側は後ろから少しだけ教室に入ってみるといったプランや早退など、様々なプランを提示して頂きましたが、いずれもそれらのプランは自分は受け入れる事が出来ませんでした。 

そんな中でも救いがあるとすれば、担任の先生と相性が良かった事です。

30代の若手の男性教師である僕の担任の先生は、「人は30分くらいしか集中出来ない」という持論を持ち、毎授業中に15分くらい面白エピソードを話す少し変わった先生でした。 

僕の変わった話も受け入れてよく話を真剣に聞いて、真剣に返してくれた先生には感謝しかありません。

そんな中、僕は私立の高校に進学する事になりました。

ただ、最後の卒業式。

先生はそこだけは最後にクラス皆んなを集めたいとお話されていて、そこだけは何故か「この人には恩を返したい」みたいな思いから受け入れられました。

行ってみると、最後という事もあり、意外にクラスメイトからの対応を穏健だったと感じました。

その日は特別な一日です。

二回目の不登校

良い話で終わりたい所ですが、そうもいかないのが人生。

この中学時代の傷はそう簡単に解決するものではありませんでした。

僕は全日制の高校に通うようになった中、最初の数ヶ月はある程度、通常通りに通う事が出来ました。

少しずつ会話出来るようになる中で、友達になれそうな人もいました。

ただやはり、僕は高校生活の中で自分を発信出来ず、居場所を失ってゆき、自分の日常への違和感と自分の感情と日常の不一致が段々とストレスとして表れてきました。

不登校の時のストレスはそう簡単に解決出来るものではありませんでした。

徐々に僕の生活は乱れてゆきます。

すると、結果的に通えなくなってくる。

さらに、今回は中学生時代と違い、留年というルールもある中、そのプレッシャーは大きく、中学時代以上のストレスが掛かりました。

不登校から大学進学

ただ、自分はそれから通信制高校に転入学し、徐々にストレスから解放され、鬱状態だったメンタルも改善されました。

また、時間ができた事で「勉強してみよう」となり、実際に本格的に受験勉強したのは1年と数ヶ月でしたが、大学進学出来ました。

ここから学んだ事は最後は「自分らしく生きる道を自分で作ってゆくしかないこと」。

通信制高校では、自分で予定を決め、自分で選択と集中を判断した受験勉強を行い、4年近くまともに勉強出来ていなかった自分が一気に難関大学進学圏内まで成績を向上させられました。

もしかしたら、「自己責任だけど、自分で決められる人生」の方が合っているのかもしれない。

ただ、僕の選択は必ずしも再現性がある訳ではなく、この選択は家族の経済的支援が成り立つ上で成功した選択です。

まだ、通信制高校に対する偏見や各中学校側の認識不足があるという事実は否定出来ません。

場合によって、茨の道にもなり得ます。

しかし、人は思った通りに生きられる訳では無い。

人はそれぞれ違います。

どの選択が正しいかよりも、この選択が正しかったと思わせる生き方をするのかが重要。

僕の人生はこれからも続いてゆく。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?