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「自分へのプレゼント」がNGワード、という話

お疲れ様です、あおです。
おそらくこれが今年最後の記事になります。
今年最後の記事でかなり不穏なワードをタイトルに据えたのですが、タイトルのままです。

自分にとって「自分へのプレゼント」はNGワードなのです。
今年最後はこの自分に現在進行形でかかっている「呪い」の話をしたいと思います。


抑圧された学生時代という「普通」


前にも書いたのですが、自分の未成年、学生時代は貧乏で、できることがかなり限られていました。

家族旅行なんて行ったことないし
お小遣いなんて無縁だったし
修学旅行にも行けず
親には制服が買えないかもしれない、と絶望した顔で言われる
大学は国立大学指定で
大学時代はバイト三昧で周囲との経済力の違いを感じる日々
友達の旅行の話や買い物の話、プレゼントを貰った話を半ば夢物語のように聞く日々
サンタさんが来た記憶がない
そしてプレゼントを貰ったことが自分の記憶の中にない

それがずっと自分にとっての普通でした。


根深かった浪費癖


自分はつい最近までかなりの浪費癖がありました。
今はようやく自覚できる様になって頑張って理性で抑えている、という感じですが、自分の場合は単なる浪費癖と言い切れない、根深く「呪い」が染み付いているが故の浪費癖です。

きっかけは社会人になって上京ならぬ上阪し、一人暮らしを始めた年のクリスマスです。
社会人になるとそれでも大学の時のバイト代とは比べ物にならない金額の給料が入るわけですが、その蓄えを得て迎えたクリスマス。
外に出るとどこもかしこも華やかなクリスマスイルミネーションで、店はボーナスで懐が潤っているであろう顧客をターゲットに、色んな宣伝文句やディスプレイで購買意欲を煽って行きます。

その中で不意に目に飛び込んでいたワードがありました。

「一年頑張った自分へのプレゼントに!!」

今までそんな言葉を見たことがなかった自分には衝撃でした。

自分に対してプレゼントって贈っていいの?

その時でした


『買って!!!!!!』

何処からともなく抑えようもない欲望が自分を突き上げて、抵抗する間もなく、というより抵抗する気すらなく、自分はそのまま自分自身に買い与えていたのでした。

今ならこれが「自分自身の声」だとわかります。
あの時の「我慢しなければ生きてこれなかった、周囲との経済格差で惨めさで押し潰されそうになっていた自分」が、自分自身の中にずっと住み着いていたのでした。そして私を「プレゼントをくれる人」と判断して「欲望のままに我儘をぶつけてきた」ということです。

辛い気持ちや惨めな気持ちはその時々で目を背けて「見て見ぬふり」「なかったふり」は出来ます。
でも完全に「いなかった存在」には出来ないんです。
自分が認知していないだけで、自分の根底にずっと存在はしているし、見て見ぬふりをすればするほどそれは雪だるま式に大きく、そして捻れていくのです。


これの何がタチ悪いって、自分は「自分の声のままに買い与える事」について特に悪いこととは思っておらず、むしろ「自分を大切にしてる良い行い」だと思っていたことです。

だって今までずっとわがままも言わずに我慢して生きてきたし、わがまま言える人も周囲には居ないんだから、その中で要望を聞いてくれる人=自分自身がちゃんと受け止めて叶えてあげることこそが「自分自身を大切にすること」ってことでしょ?って

そして声のままに制限なく買い与えていました。
ただお金は無限に湧き出すものではないので、貯蓄という概念もなく、給料が入れば使っていく、という生活でした。


正直じゃあその体験が完全に悪いものだったのかというと、そう言い切れない部分もあり。
「自分は自身にプレゼントをあげても良いんだ!」という免罪符を得てから、今まで行けなかった場所に行って旅行体験したり、自分には縁がないと思っていたデパコスデビューをしてみたり、オタ活で初めて自分自身で同人誌を作ってイベント参加してみたり、と行動力は飛躍的に上がったので。
「意外と挑戦してみたら何とでもなる」精神はここの経験でも養われたので、浪費癖はあかんけど経験値は確かに得ている、と思う。

インナーチャイルドの話


見直すきっかけとなったのはやはり周囲からの反応でした。
「それって浪費って言うんじゃないの?」と何気なく言われ、「自分の欲望のままに買うってなんか自分自身を放棄してる感じだよね」と言われたのがショックで、浪費癖についてアレコレ調べているうちにアダルトチルドレンに行き着きました。
言うなれば自分は子供時代の自分のわがままのままに後先考えず買い与える「放置系毒親」的ムーブをしていたわけです。

ただこの「アダルトチルドレン」と言うことすら認めるのに時間がかかりました。
それは「アダルトチルドレンは機能不全家庭の場合になる」という認識だったから。
自分は家族のことは好きだし、親のことを毒親だと思ってないです。むしろリーマンショックで失業して食べることすらままらない事態にまで陥ってなお家族が生きていくために尽力していたのを知っているし、尊敬しています。

両親から感情的に、理不尽に怒られたことはないし、暴力を振るわれたこともないし、「女だから、長女だから」という言葉を言われたこともない、周りと比較されてとやかく言われたこともない、むしろ「あおちゃんはあおちゃんらしく生きてほしい」とよく言われていたし、今も言われる。自分の好きなものを否定されたことも行動することを否定されたことがない、むしろ「世界はもっともっと広くて、自分が正しいと思っていたことが覆ることだって珍しくない、そういう色んな世界があると知ってほしい」と言われていたし、上阪することを決めた時も応援してくれた。

おそらく親自身も「理想の親像」があって、それに基づいて行動しているんだろうな、とは思いますが、これに関しては親自身の話なので深く言及はしません。

自分の場合はただただ「貧乏という環境」のゆえに「我慢しないと生きてこれなかった」ので、それが結果的に「インナーチャイルドをずっと抑圧している=認めずに放置してきた」という状況での「アダルトチルドレン」だったわけです。

これを理解するのにまず時間がかかりました。

余談ですが「アダルトチルドレン」という言葉だけを見ると「一部の人が当てはまる現象」だと思われがちですが、「日本においては自覚してないだけで約8割もの人がアダルトチルドレンの可能性がある」という話もあるので、「自覚するかしないか」の話でもあるんだろうと思う。

自分の中で子育てする感覚


そして「自分のインナーチャイルド」を自覚したわけですが、言うなれば「自分の中で子育てをしている」ようなものなので、正直しんどい。
結婚もしてなければ子供もいない独身女なのに既に子育てに手を焼いているってどういう状況?

で、初めの時はそもそもどうすれば良いか分からないので、無意識に頑張って抑え込んでました。
どういうことかと言うと

『他の人は甘えても許されてるからプレゼントを貰えるけど、お前には甘えることが出来る人おらんからな?泣いたって誰かが助けてくれるわけじゃないからな?わがまま言ったって仕方ないんだから諦めろ。お前の人生はもう諦めろ』

こういう言葉をずっと自分に言い聞かせてました。
今振り返るととんでもない事を言ってるな、と思うんですけど、本気でそう思ってたし(心が弱ると今でも顔を覗かせる時は正直あるし)、それが本当だと思っていたから。

同時に彼氏や旦那がいる方の話(一緒に出かけたとか、プレゼントを買ってもらったとか)を聞くと、どうしようもなく羨ましくなる。
でも彼氏や旦那がもし出来たとしても、このメンタリティだと相手に依存して変に消耗して終わるだけだろうな、というのも火を見るより明らかなので、自分の場合はそれ以前の段階の話なんだろうとも思います。

ムンプラさんの言葉を借りると『シンデレラに憧れていた人が本当に求めていたのは王子様じゃなくて何もしなくても希望を叶えてくれる魔法使いだった。でも現実には魔法使いはいないから自分自身で戦って呪いを解くしかない』

パートナーも一人の人間であって自分のインナーチャイルドの欲望を満たしてくれる「託児所」ではない、というのは、今後もし自分にパートナーが出来た時に真っ先に肝に銘じるべきところだと思う。

でも『お前は甘えることが許される人間じゃない』と言い聞かせても結句欲望という名のインナーチャイルドが消えることはなく、浪費癖が治るわけでも勿論なかったです。
そのやり方は一番の悪手とのことで、一旦肯定した上で、現在の状況を説明して妥協案を模索する、というやり方に変えました。

例えばクリスマスセールで購買意欲が掻き立てられるポップや商品が目についたら

「わかる、欲しいもんな、わかる。でもな?今残金が〇〇円で、引き落としがこれくらいかけるだろ?で、貯金にこれくらい回す必要があるから、自由に使えるお金はこれくらいやねん。明らかに予算オーバーやろ?売り場はボーナスが出る事前提でクリスマス商戦してるのであって、うちらはボーナス出んからな、そこは申し訳ないけど理解して欲しい。どうしても欲しいなら〇〇を我慢する必要があるけど、それでも本当に欲しいか?」

と肯定した上で問いかけるわけです。
これ自分で言いながら思ったのが「自分お母さんと同じ事言ってんな……」ということ。
違うのはお母さんは「だから諦めて欲しい」で、自分の場合は「欲しいなら妥協案を探ろう」という点。
子育ては自分が受けた子育ての方法が無意識に出るってこういう事なの?と思う。実際の子供は居ないのに!笑

ただ正直めちゃくちゃにしんどいです。
そりゃ出来たら全力で甘やかしたいし、欲しいものは与えてあげたい。でもそれは物理的に無理。この自分の中の戦いがいつ収束するのかもわからないのもしんどい。

その中でふいに彼氏や旦那、家族がプレゼントしてくれた!!という話が目に入ると、純粋な祝福と気持ちとは別に、言いようのない気持ちが湧いて出てしまうのも事実。

この前阪急に寄ったのですが、それこそクリスマス商戦まっただなかで、人が溢れ、しかも高級ブティックに人だかりが!大きなハイブランドのショッパーを何個も手にかけて、「これも欲しい!」と無邪気におねだりしている人たちを見た時に、本能的に「これはヤバい」と思って自衛のためにそそくさと退散しました。

あきやさんは「クリスマスシーズンはジュエリーが豊富に出ているので試着旅にもってこいの時期です!」とおっしゃっていたけど、正直今の自分のメンタリティだと試着旅以前の話だと思うので、ハードルが激高です。
あのホリデーシーズン特有の多福感溢れる、そして経済力をバシバシ感じる空間では試着云々より前に「自分はここには相応しくない人間なんだ」と、どうしようもなく卑屈になってしまうから。
でもデパコスで「デパートで色々相談をしながら買う楽しさ」もなまじ体験しているので、「自分には関係ない、縁がない世界」だとも思いたくない。
ここら辺の折り合いの付け方はどうにか見つけたい、ともがいているところです。出口があるのかは果たして分かりませんが。


「自分へのプレゼント」というワードは自分にとってはかつての免罪符でトリガーでした。
だからこそ呪いを解くためには意識して距離を取る必要がある。
しんどいけど、頑張りますよ。頑張るって決めたからね。

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