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カンナの切れ味を試すために木が存在するわけではない

個人の主観的リアリティーあるいは現前のリアリティーよりも、科学的あるいは客観的リアリティーを重んじることは、科学という宗教の信者になることにほかならない。
科学とは、真理の一部にすぎない。宗教が真理の一部であるのと同じように。

問題は、物事が科学的かどうかではない。物事を科学的な態度でみているかどうかである。
科学的態度とは、現象の一部始終をありのままにとらえる(肯定する)ことから始まる。

ある現象を「非科学的である」と退けるなら、それは科学的態度とは言えない。
「科学」と「非科学」という二元論に陥っているにすぎない。
既存の科学的法則の正しさを証明するために現象が起きるわけではない。
カンナの切れ味を試すために木が存在するわけではない。

ある理論に当てはまらない現象に出くわしたとき、私たちが取るべき態度はおそらく二つだろう。
つまり、その現象を説明できるように理論の細部に手を加え(場合によっては拡大解釈して)つじつまを合わせるか、あるいは理論そのものを疑うかだ。

ところが、偽科学者は、理論に手を加えもしないし、理論を疑いもしない。現象の方を「例外」あるいは「範疇外」として切り捨てる。もっともタチが悪いのは、「私の専門外なので」と逃げてしまう専門家だ。これを思考停止と呼ぶ。
皮をむかれ、皿に切り分けられたリンゴだけを「リンゴ」と呼びたがる科学者は、リンゴの木になっているリンゴの実を、あるいはリンゴの木そのものを、あるいはリンゴの木の果樹園全体を「リンゴ」と呼びたがらない。アダムとイブが食べた「(善と悪を識別する)知恵のリンゴ」となると、なおのことだ。

特に統計的手法では、現象から法則を導き出すために例外を排除する。
その瞬間から統計は、例外をも含めた、まったく新しい(そして、より真理に近い)法則を導き出すことを諦めてしまう。
このとき統計学は科学であることを放棄する。これも一種の思考停止だ。
実は、例外こそが真っ先に考慮すべきパラメータなのだ。

真理はこう言う。
「現象に例外などない」

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