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長谷川京「ルーザーズカンパニー」

◆作品紹介

失敗が成功の母だとして、父はどこにいるのか? 写真を詰めたマトリョーシカを飲み込んだ水死体から始まる物語は、拳銃の姿をした奇妙なプロダクトや、空前絶後の成長を遂げるベンチャーキャピタルを巻き込みながら進んでいく。さて、「生存バイアス」の説明において頻出する〈被弾箇所を赤く塗られた航空機の図〉が、統計学者エイブラハム・ウォールドの論文を曲解した架空のイメージにすぎないことはよく知られている。存在しない銃創を穿たれた存在しない航空機をもとに立案される、存在しない改善案。イメージは無限に複製され、本来の意味を忘れ去られながら伝播していく——それは祈りによく似ている。ところで、エイブラハム・ウォールドはインド訪問中の飛行機事故により、48歳の若さで死亡している。現実と空想は時としてよく似た輪郭を帯びているが、それは偶然と必然どちらだろうか? 「もしも」の先を撃ち抜く銀の弾丸シルバーバレットの行方を、ぜひ見届けてほしい。(編・青山新)


# ZERO

【カヤホガ川付近で頭部に銃弾が打ち込まれた死体が発見される】
 先週の水曜未明、オハイオ州クリーブランドに流れるカヤホガ川の河口付近で発見された遺体は、長期にわたって不衛生な水に浸かっていたことから損傷が極めて激しく、年齢や性別なども判断が不可能であることから、警察による身元の特定は未だ困窮を極めている。
 被害者の身元の判明を困難にしている理由はそれだけではない。遺体の頭部は大きく破損しており、相貌は一切不明ということも非常に大きい。警察はその損傷具合から被害者が銃身を口に加えた状態で弾が発射されたと推察し、他殺と自殺両方の可能性を視野に入れ捜査を続けている。
 唯一遺体の身元につながる可能性がある手がかりとして、警察は遺体の胃の中に残った遺留物があるとし、それらを身元特定のために公表した。
 公開されたのは、ロシアの民芸品であるマトリョーシカと、その中に収められていたという、1枚の写真。
 瀟洒な背広に身を包んで屹立する背の高い男性と、その横で可愛らしい服を着て、椅子に腰掛ける少女——と思われる2人の人物が映った写真。
 だがその写真も、肝心の顔はなぜかモザイク状の模様で塗りつぶされている。その判然としない様相は、遺体の身元の特定に向け、より一層の混乱を加速させることだろう。

——デイリードットテレグラムの記事より抜粋

# ONE/INSIDE

 そうだ。俺は確かに死んだはず。
 そう、絶対にそのはず。川のテラスを眺めながら、銃を口の中の奥にねじ込んで放ち、そのまま水面に倒れ込んで、深く深くに沈んだはずだ。
 だが、今の自分を包むのは工業廃水で汚染された水の匂いではなく、汗臭い自分の体臭。もう何日も着っぱなしのシャツ、窓の外には、ニューヨークの夜景が病的なまでの煌びやかさを放ち続けている。決して眠らない街。1999年3月1日、時刻は深夜の3時を示している。
 眼前のデスクの上に散乱する紙の束。机の奥に鎮座している3枚接続の巨大ディスプレイには、不整脈患者の心電図のような時間外取引の株価チャートがパチパチパチと点灯していた。
 やっと自らの人生を思い出す。そうだ。俺は、投資会社の新人アナリストだったんだ。
 自分の座標を思い出すと、一気に現実が押し寄せてくる。座る席の椅子の下に転がっているのは、栄養ドリンクの大量の空き缶。それもただのエナジーじゃない。本来の10倍の値段で買い付けた、本来ならば軍の売店PXでのみ販売が許されている特注のブツ。そんな劇薬を心臓発作のリスクを棚上げしてガブ飲みするのが日常だった。カフェイン不感症の身体が受けつける液体は、もはやこれしか残ってないのだ。
 株式市場で時間外取引が開始されたのは、たしか80年代だが、金融界隈でその利用が本格化したのはネットインフラが確立してからだ。つまり、インターネットの革命のせいで、安寧の夜は消失したのだ。100年後にはネットはマスタードガスやアヘンなどと並んで人類最悪の発明品に名を連ねているに違いない。
 微温くなったその1本を無理やりガブ飲みして頭を今一度シェイクさせ、目覚める前の時の瞬間を思い出し、試しに口にも出してみる。
「いや、絶対に死んだはずだ」
 全身を覆うのはやはり、衝撃、弛緩、虚無、それは圧倒的な死の感覚。自分ではない自分の死が未だ肌を包んでいるのがわかる。こういうのを、東洋思想では胡蝶の夢とでも呼ぶのだろうか?
「おい。生きてるか?これでも食えよ」
 狼狽える俺に向かって突如、背後から筋肉質の太い腕が伸びてきて口を覆ってくる。途端、口の中に泥の味が広がる。口元にはベトベトする茶色い何か。俺の口に突っ込まれたそれは、ドッグフードだった。
 その不意打ちに思いっきり咳き込んで、手元のカフェインが飽和した液体で必死に口を濯ぎ、半泣きになりながら、その悪質な悪戯を仕掛けてきた張本人を睨む。口に犬の餌を突っ込んできたのは、俺の上司だった。
 俺の顔を嗜虐的な笑みとともに眺めるのに満足すると、ボスは俺に急に背を向けてオフィス全体に目を向ける、鷹揚に両手を広げてから、パンパンパンと強烈に拍手し、フロア全体に向けてこれみよがしに叫ぶ。
「おい猿ども喜べ! 上玉のケツに、俺らのイチモツをねじ込めたぞ!」
 上場準備中の企業の幹事ブックランナーになれたことに親猿アルファオスとして叫び、続いて子分の小猿たちも湧き上がる。盛大な誇大広告ハイプの雄叫び。
 アナリティクスオフィサーである俺のここでの仕事は、この猿どもに深夜の朝刊ミッドナイト・ペーパーと呼ばれる最新の分析を届けること。つまり、野生動物に麻薬コカインを処方するのに等しい愚行が日常というわけだ。
 本当にくだらない。先程までの胡蝶の夢が痛烈に告げてくる。「いや、これバブルなんで、このあと弾けますよ」その夢の中身が、つい俺の口から漏れてしまう。
 やってしまった。だが、もう遅い。
 案の定オフィスにいる全員が夾雑物を見るような目でこちらを眺めてきている。直視できず俺はそっと目を逸らす。
  勿論、そんなことでは失言は誤魔化せない。親猿が殺意の滾る目を向けながら再び近づいてくる。狼狽える俺の間近にまで迫ると自慢の腕の筋肉を脈打たせ、思いっきり胸ぐらを掴み、俺の身体を半フィートほど中に浮かせてきた。
 狂気的な集団において最も不要なのは同じ体温を共有しない人間、最も必要なのはそうした不純物の粛清。
 胸についた茶色い試供品ドッグフードが目に入る。そう、俺のような新米は、犬の餌ほどの立場しかない。
 強引に掴まれた勢いで、自席の空き缶がパララララと音を立てながら床に散らばるのが目に入る。
 そして、アルミの積み木の山から、もうずっと埋もれたままだった写真立てが現れる。暖かいベッド、汚れてない服、家族とのくつろぎ。愛娘、俺の宝物。安寧、銃。
 念じると、写真立ては銃に変わる。どこでも売っているような安物の銃に。
 上司に胸ぐらを掴まれたまま、俺はなんの迷いもなく銃口を自分の口に突っ込む。
 もう何日も、家には帰っていない。けど、やっとこれで帰れる。

# ONE/OUTSIDE

 2040年4月に一流経済誌であるビジネスアナリティカは、そのトップ面に当時無名の米国のベンチャーキャピタルが、資本金10兆ドルの前人未到の投資ファンドに成長したと記載した。
 曰くこの新興のファンドは、ここ数年で訪れた法規制、不景気、災害、紛争、パンデミックなどのあらゆる未知の危険ブラックスワンを予知したかのように先んじて対応し、逆張りコントラリアンによって過去いかなるファンドでも見たことがないような、ありえないほどの利益リターンを投資家たちに還元してきた——企画の骨子がプリントされた紙には、そのような内容が大仰な単語によって書かれていた。
『同社は、インキュベーションプログラムを立ち上げることも、玉石混交のスタートアップに金を一律でばらまいたりすることも一切せずに、わずかな資本金からシリコンバレーでも有数のキャピタルに成長した。その鍵は"敗北者たちルーザーズ"という、皮肉としか言えない社名にある』
 その文言に続く先には、ルーザーズカンパニーの共同創業者であるひとりの女性——つまり、私の独占インタビューが掲載される予定なのだと記されている。その企画書の最後には、私たちのファンドのロゴ——マトリョーシカがモチーフのマークが印されていた。
 過去の記事と今回の独占インタビュー企画書。その双方を読み終えると、私はやっと顔を上げる。すると、目線の先に座る若い青年編集者が微笑んでくる。洗練された人間であることを強調するような、少し鼻につく笑顔だ。
「では、よろしくお願いします」私はその編集者に向かって軽く挨拶してから、椅子の位置を調整し、彼がインタビュアーを務めやすい位置に移動する。同時に、今、私たちのいる執務室の更にその奥の、私以外は一切立入禁止の部屋への扉が、彼の目に極力入らない方向へと。
 位置を移動しても青年は微笑みを崩さないので、私は安堵する。その彼が手元の録音機材をONにしたのを確認してから、私は口火を切る。
「古来から、勝者が勝者となるのに理由はなく、敗者が敗者になるのには必ず理由があると言います。つまり、勝利の要因を発見するよりも、敗因を見つけるほうが遥かに低コストということです。私たちは、そのシステムを作り上げた——」向かいに座す男の様子を確かめるために、一旦私は言葉を区切る。
 男が笑顔で頷いたのを確認し、私はそのままの調子で続ける。そう、歴史とはすなわち、勝者によって作られる神話。「——だが同時に、歴史の敗者と勝者はほんのちょっとしたゆらぎによって決まる。ひょっとしたら、神話の主人公はほんの些細なことで交代していたのではないのか? その可能性を探ることには、意味があると考えました」
 たとえば、グーグルからの申し出を受けわずか100万ドルで同社を買い取るヤフー、たとえば、ネットフリックスの猛追を撥ねのけ配信モデルで成功するブロックバスター、フェイスブックに競り勝つマイスペース、"ガラパゴス"という嘲笑をブラントに転換することができた日本企業、権利問題を乗り越えアップルより前に音楽ストリーミングサービスで成功するナップスター。
 もしもあの時に買収していたら、もしも、あのときに油断せずに真っ向から対決していたのなら、もしも、もしも、もしも、もしも、もしも。
 けれども、歴史にもしもは存在しない。死者が語るための口を持たないように、競合他社によって、殺された法人企業の慟哭など誰も耳を傾けない。
「だけどもしも死者ルーザーを蘇らせたら、その時かれらは、いったい何を語るのでしょうか」
 そこで私は言葉を切って、青年に向かって、嗜虐的にも見えるような笑みを浮かべてみせた。

# TWO/INSIDE

「スタートアップの寿命は、中世に生まれた人々のそれよりもはるかに短い」
 壇上に立つ俺が左を向けば、聴き入る信者ユーザーも自然とその方向、つまり俺の立っている舞台の左袖に視線を向ける。右を向けば右に。上を向けば、虚空に。まるで俺の視線の少し先に未来が鎮座しているかのように。
 面白くてたまらない。これは本当に癖になりそうだ。
 満杯の会場に3千人、中継を見ている人々が5千万人。更にこれから先、伝説となるこのプレゼンテーションをアーカイブで何十億人もの人々が視聴するはずだ。
 俺は黒を基調にしたプールサイド程もある広大な壇上で、それら幾億もの人々に向かって語りかける。
 宗教とはすなわち、この世界の因果則を超えた次元と接続し、メタ的審級の論理を把握することで、暗い洞窟に映る影に怯える、迷える子羊たちを救うためのものだ。
「《product製品》という言葉は、《pro前方へ》と《ducere導く》、つまり救世主を表す」大仰に手を前に出す身振りをしながら、そこで言葉を区切り余韻を作ってやる。案の定、そこかしこでウォオゥ、ウォオゥ、イエス! イエス! イエス! と声が響き、感嘆の溜息や興奮で会場は満ち満ちる。
 そう、俺はポストモダン時代の預言者。空虚な言葉に意味を持たせることこそ、今世での俺の力だ。
 俺は信者たちに向け啓示を与える。信仰は株価に反映され、その計量化された信心によって、新たな製品が開発される。その製品は最後、俺の奇跡プレゼンによって救世主プロダクトに変貌する。
 そして、その奇跡を目の当たりにした一部の信者は、使徒エバンジェリストとなり、俺の神性をまだ見ぬ者へと伝えてくれる。そのサイクルを肥大化させた結果、俺は今この場に立っている。
「では、ここで紹介しよう」舞台の奥でヴェールで覆われ鎮座しているのは、我が愛しの娘。俺はその覆いを大胆に引き剥がし、聴衆に見せる。
「これこそが、iBullet、世界初のスマートガンだ」
 指紋認証、継ぎ目の無い流線型のインターフェース、人間工学の粋を集めたデザイン、愛しの我が娘プロダクト
 その銃を、俺はこれみよがしに口の中に突っ込む。
 即座に、観客の誰しもが俺のそのメッセージにどんな信念や意味があるかを測りかねているような真剣な表情をする。
 こいつらはなにもわかっていない。日本のアニメやハリウッドのアクション映画の銃撃シーンを真剣に観たことがないのか? 真に選ばれし人間であれば、銃弾のほうから当たるのを謹んで辞するのだ。
 俺は選ばれし者。人々は今この瞬間、地球最大の奇跡を垣間見ることとなる。
 弾は3回引鉄を引いたところで、ちゃんと発射された。

# TWO/OUTSIDE

 量子自殺クォンタム・スーサイドとは、エヴェレットの多世界解釈を前提とした思考実験である。
 この実験の過程において、観測者は必ず死ぬ。または、絶対に死なないかのいずれか。
 観察者は量子的にランダムな結果が起きる装置——たとえば、2分の1の確率で弾が放たれる銃を自身に向け、引き金を引く。この装置から銃弾が発射されると、観測者は死ぬ。発射されなければ、勿論、死なない。
 この時、弾が放たれるかどうかは量子的に決定するため、両方の結果が同時に実現する。つまり、ある世界では観測者は絶対に死ぬが、もうひとつの世界では生き続ける。多世界解釈を前提とするならば、世界は分岐する。客観的には慈悲なき確率の元に死ぬが、主観的にはその当事者は観測を続けるために生き残る。そうして宇宙は引鉄が引かれるたびに分裂していく。
「故に、私たちのモデル内では、量子自殺人間クォンタム・スーサイドマンを採用したというわけです」
 インタビューが佳境に入って、私は更に早口で自分の偉業について語る。テクニカルタームに"自殺"という、グロテスクなワードを絡ませながら。
「まずこのモデルを生み出せたのは、量子AIコンピューティング理論における、あるパラダイムがあったからです」
 そこで私は、手元のタブレットに1つの論文を映し出し、おもむろにインタビュアーに画面を向けた。タイトルは、《Swarm Intelligence Is All You Need》。
「この論文を読んだ時、私は閃いたのです。これが真ならば、法人格をベクトル化することも可能なのでは、と」
 理解不可能な内容を向けられ、ここ十数分の間ずっと曖昧な表情のインタビュアーに目線を合わせる。とっくに彼の表情から浮ついた笑みは消え去っている。
 その彼に私は追撃する。「つまり、"企業文化"、"ミッション"、"バリュー"などという、極めて定量化しにくい概念を有限次元のベクトル空間上で表現する方法を手に入れた、ということです。量子演算の基底ベクトルによる概念操作によって、今まで極めて抽象的な概念に過ぎなかったさまざまな事柄を演算可能にし、特定の失敗と直交するような事象を抽出する——そして、その反実仮想で張られた空間内で、ビジネスを成功させる"ルーザーズカンパニーモデル"が作られたのです。歴史を振り返ると些細に思えるその差の中に決定的な因子を発見するために——」
「つまり——」そこでやっと、編集者は無理やり口を挟む。これ以上は耐えきれないと言わんばかりに。
「——つまり、あなたのアイデアとは、あらゆる失敗の可能性を模索することで、そうでない可能性を見つける。それが、あなたたちのファンドが"成功"を獲得してきた秘密なのだと、そういうことですか?」顔を硬直させながら、一息でそう言い切る青年編集者。
 分野違いの内容の中に、なおも自分が知っている文脈を掴もうとするその必死さに免じ、私は少しペースを緩めてやる。
「おっしゃるとおり、仮想の法人格をたったひとりの個人の中に射影することで、失敗の本質を計量化し、逆説的に成功の概念を抽出することに成功したのです」
「しかし……」インタビュアーはゆっくりと言葉を選びながら口にする。「なぜ、その失敗の主体である自殺人間に、あなたは自分の父親をモデルとして選んだのですか?」
 専門用語を浴びせられたことに対する憤りなのか、はたまた、あえて感情を逆なでして私から思わぬ反応を探りたいのか。
 彼は言外に問うているのだ。『あなたにとって、これは必要性から生じた仕事ビジネスなのか、それとも、仕事の皮を被った、復讐プライベートなのか』と。
 待ちに待ったその質問に、私は喜々として応える。「『資本を肥大化させることを目的に、自分の実の父親を利用したのか?』つまりあなたは、そう言いたいのですね」
 私の率直な物言いに、案の定、彼は慌てた様子で、弁解のためにすぐさま口を開こうとする。その彼を私は掌を向けて制す。まだ、私の話は終わっていない。
「実はね、今回のモデルを作成するにあたってもっとも難しかったのは、目的関数の厳密化でした。なぜなら、成功と失敗はあくまで主観的な現象だからです。見方によって敗北と勝利、裏と表、手段と目的は簡単にひっくり返りますからね」

# THREE/INSIDE

 そう、成功と失敗はコインの表と裏のようなもの。見る方向を変えたり、あるいは表を裏と言い張ったりするだけで、その解釈は簡単に翻る。
 今の俺は、失敗によって成功している。あるいは成功するために失敗している。故に、自虐を込めて付けた活動母体の名は、"ルーザーズカンパニー"。
 何億回も自分を繰り返すことでついに俺は悟りを得た。作り直される世界を繰り返すことで得られる本当の強みは、経験が蓄積することじゃないのだと。
 真の強みとは、生きる上でどうしても囚われてしまうバイアスを、自由自在に外すことができるようになること。そう、人間のOSの最も最下層に規程されてた"倫理"という名の檻から脱獄エクスプロイトできることだと気づいたのだ。
 だから俺は転生しては人の心を失う永劫回帰を繰り返し、自分と他の人々との間に薄い膜のような非現実感を感じるまでになった。
 そのマインドを獲得してから俺は、あらゆる害悪を実行した。とはいえ直接的な犯罪は結局のところ長期的なビジネスにならないことは身にしみてわかっていたから、実行したのは非犯罪的サステイナブルなビジネスのみ。
 ただし、法的には問題なくとも、倫理的には十分問題なもの。つまり、利率がよく、競合が少なく、長期的に金銭的期待値が高いものだけだ。
 たとえば、脱法大麻、人肉の味がする人工肉、いかがわしい取引の仲介エスクロー。ネットの海から黒歴史デジタルタトゥーを掘り起こして脅し、煽り屋トロールとなって特許侵害訴訟を行い大金をせしめ、あえてSNSで悪名を轟かせて衆目を集めることで、株価をいいように操作する。
 だがこんなのは、最初の資金を集めるための一番初歩的なステップでしかなかった。
 投資というのは自己矛盾の塊だ。明日の天気、気候変動、ある国で反乱が起きる確率。人々はすべてを賭けの対象にしてきた結果、自分たちが破滅する方にすら賭けることができるようにしてしまった。
 敗者となることで、勝つことができる。その矛盾したゲームのルールについて骨の髄まで知った俺がまずやったことは、すべての失敗に投資したことだ。
 結果、世界が、破滅に向かえば向かうほど、俺は儲かるようになった。
 そんな地獄のような計画をここまで実行できたのは、そうしてまで、守りたいものがあったから。
 深夜、昼間の喧騒を離れ、自分の執務室でひとりになった俺は、手元のコンソールを動かす。映るのは娘の無邪気な姿。私の愛しい、失われた娘。それは、決して在りし日の思い出などではない。
 俺は稼いだ金で、どこかの国の地図にない街にデータセンターを建設した。そこで大量の電力を使い甚大な計算を行うことで、今この瞬間も、彼女の可能性を再現し続けているのだ。
 そう、眼の前の画面に映るのは、俺の大事な大事な我が娘プロダクト。俺は、失ってしまった彼女をこの手に取り戻すために、資本を集め娘を別の世界の中に再現した。
 わずか数十分間の今日の分を見終えると、俺は銃をスーツの胸ポケットから取り出し、いつもの儀式に取り掛かる。何百、何千と何万、何億と味わった鉄の味。だけど、弾は何度引鉄を引いても発射されない、
 その事実のおかげで、俺は正しい世界に来られた信念を、今日もまた一段と強めることができる。ここが自分にとって最後に行き着いた世界である確信を。
 だが、どんなにやろうとも、この世界が真に正しい世界だという保証は一切ない。無限の中で行う有限回の試行は、文字通り無に等しいのだから。
 自分を救うためにだけに行う。確率的自傷行為。それでも俺は、泣きながらひたすら引鉄を鳴らし続ける。有限回の試行によって、無限の闇が少しでも薄まることを願いながら。

# THREE/OUTSIDE

 もしもマトリョーシカに人の心があったとしても、まさか自分の外と内にまったく同じ自分がいるなんて、きっと考えもしないはずだ。
 だけど、もしもそのマトリョーシカが、とてもとても賢いマトリョーシカだったらどうだろう?
 その聡い彼女は、暗闇の中でじっと眼の前の壁を見つめていると、ふと、あるとき気づくはずだ、自分を包む境界が自身が描く曲線と、全く同じ凹凸を描いていることに。
 そして、その時に、同時にこう考えるはず——きっと外側と内側にもおなじような私がいるのだと。
 そう、この世界において、私は賢いマトリョーシカ。その事実を私はすべてあの編集者に伝えたが、きっと彼は私を狂人としか思わなかったことだろう。
 だけど、これは本当のこと。だからこそ、あえて慣れないインタビューを受けたのだ。その事実をこの世界の他の者にも伝えるために。
 気づきのきっかけは、ルーザーズカンパニーモデル。私はこのモデルを次元削減することで、3次元に住まう人間にも理解可能な図にマッピングを施した。
 その結果、画面に現れたのは、まるで曼荼羅のような緻密な自己相似性フラクタルだった。つまり、私が作り出した世界ルーザーズの中でも、世界ルーザーズが構築されている。そして、さらにその世界ルーザーズの中でもまた同じ構造が存在している。
 ならば、私たちの世界の外にも、ここと同じ世界があると考えるのが道理のはずだ。
 つまりそう。おそらく多層化された中間層の中に私たちは生きている。私たちはこの外側の世界が構築した、考える機械の一部。多層に複雑化した世界の中で、何らかのパラメータを最適化させる、ただの関数にすぎないのだと。
 だけど、その事実に私は絶望しない。おかしなように聞こえるかもしれないが、私は、自分が作られた存在ということを知って、初めて希望を見出すことができたのだ。

 編集者をエレベータまで見送ったあと、私はインタビューを受けた自分の執務室の、更にその奥のプライベートルームの鍵を開ける。
 黒を基調としたその部屋の中には、片隅で、涎をこぼしながら、頭を垂れる老人がひとり。
 眼窩の縁はくぼみ、目に光が灯るのはもう何年も見ていない。口元は荒れて、歯はボロボロに砕けている。
 生気を感じないその男が、自身の身体のうちで唯一力を込めるのは、銃を握る手元のみ——そうして私の父親は弾の入っていない銃を今日も口に咥え、ずっとこの部屋の中に蹲り続けている。
 ひたすら空砲を撃ち続ける父。それは、彼なりの贖罪の形。ただの手段であったはずの自殺の演技は、月日が経つに連れ、彼にとって正式な祈りとなった。
 彼は今からもう10年以上も前、自分のビジネスにおいて行った犯罪について、私たち家族を巻き込まないために死人であるふりをすると決意し、検察からの刑事訴追を免れた。
 だが、結果として、彼は本当に狂ってしまった。あの編集者の言う通り、私の父は世間一般には、悪であり、愚か者であり、まごうことなき敗北者ルーザーだ。
 だが、成功と失敗の定義が人によって違うように、結局人の印象というのは、主観的な観測の結果でしかない。
 誰がなんと言おうとも、娘である私にとっては、彼は良き父であり、救うべき父親でしかなかった。
 だから、私はこの世界が再現性がある作り物であった事実に感謝したい。だからこそ、内側で失敗を繰り返す父の姿を何億回も反芻することで、シミュレーションをシミュレーションすることで、彼にとって、本当に正しい人生の形を見つけることができたのだから。
 父を失敗させ続けることで、逆説的に彼にとって、もっとも最適な人生を演算できた。そして、その結果を得た上で、私は次の世界で彼を失敗から救ってみせる。
 そう思えるのだから、私は作られた人生など無意味だとは思わない。なぜならば、自身で自身の目的を規定できることこそ、自らが存在する条件だと思うからだ。
 だから、私は人間だ。決して哲学的なゾンビではない。この人生の主人公は私。たとえ、この感情すら、外側の世界ではなにかの最適化に利用されているのだとしても。
 その事実を証明するため、私は今、目の前の父親から、銃を取り上げる。まるで玩具を取り上げられた子供のように暴れる彼を横目に見ながら、私はその銃にちゃんと弾を込める。
 私は、陰湿なジョークとして、マトリョーシカの中に私たち親子の写真を詰め、口に詰め、飲み込む。吐き気と格闘し涙目になりながら、霞んだ朧気な視界の中で、陰鬱な部屋の中で唯一光を感じる場所を目指す。
 私は壁伝いに移動して、やっと火災時の緊急避難用の窓を見つける。一切躊躇することなく乱暴に開けてから上半身を乗り出し、すぐに口の中に銃をねじ込む。
 瞬間、今まで一度も考えなかった疑問が沸き起こる。私が亡き後、この世界は私と言う主体が存在しないことに、どうやって帳尻をつけるつもりなのだろう?
 だけど、私はすぐに思考にストップをかける。残念ながら、どんなに疑問に思おうとも、私には原理的にその結果を観測できないのだ。
 私は更に勢いをつけて、ウエストギリギリの大きさの窓枠に身体をねじ込む。足が床から浮いて、半身が外気に触れる。このアンバランスな状態で弾が放たれれば、私は下半身を支える力を失い、ビルから身を投げ出すことになるだろう。
 真下にあるビルの貯水タンクは、先ほど設定を調整し、強制排水モードにしてある。水は近くの川にそのまま流れ込むようにしてあるから、私の遺体はそのまますぐ近くのカヤホガ川の支流に流れ込んでしまうはずだ。
 工業廃水が十分にろ過されないままに垂れ流しにされている、資本で汚れたその川は、私の棺としてこの上なくふさわしい。
 周囲の生臭い空気を吸い込んで、引鉄を引く。
 来世に持っていくのは父の失敗の記録以外、ここには存在しない勝者の記録だけ。
 振動する宇宙の答えは、脳漿に塗れた弾丸の、更にその先に。


◆作者プロフィール

長谷川 京(はせがわ・けい)
1991年生まれ。京都大学大学院理学研究科修士課程修了。現在東京在住。起きてはいる。X/Twitterも@okitehairu
活動経歴: 『アネクメーネ』(アンソロジー『地球へのSF』ハヤカワ文庫JA)、『帰ってくれタキオン』(小説すばる2022年12月号)、『障害報告: システム不具合により、内閣総理大臣が40万人に激増した事象について』(anon press)
ご依頼があれば、ぜひTwitterのDMかhasepappa@gmail.comまでよろしくお願いいたします。


*次回作の公開は2024年5月22日(水)18:00を予定しています。

*本稿の無料公開期間は、2024年5月22日(水)18:00までです。それ以降は有料となります。

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