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【インタビュー】大ヒット作『ハッピー・マニア』と多忙な中での夫・庵野監督との出会い

スタジオジブリの機関誌「熱風」2020年9月号に掲載された安野モヨコのインタビューをnoteに再掲載いたします。インタビューの内容は掲載当時のものになります。
2022年8月現在、「安野モヨコ展 ANNORMAL」は東京、大阪の巡回展を終え、2022年9月10日(土)~10月10日(月・祝)に金沢21世紀美術館での開催を予定しています。(スタッフ)

文責・構成/編集部+山下 卓

インタビューの前編はこちらからご覧いただけます。


小3で夢見た「漫画家」。30年の漫画家生活を経てなお「描く」こと三昧の日々~中編~

月々のバイト代、
漫画家のアシスタントの報酬も、
生活費に消える。


――高校時代になるとお父さんが仕事を辞めてしまっていたこともあって、家計を支えるためにお金を稼がなければならなかったというようなことが、自伝的漫画『よみよま』の中でも語られています。早くプロにならないと、という意識はやはりかなり強かった?
 
安野 そうですね。高校時代は自分のお小遣いは自分で稼ぐぐらいで、まだ家計を支えるほどじゃないんですけどね。
ただ、最初の賞金は自分の専門学校の入学金にしましたし、その後も単行本の印税は全部家に入れていました。
自分が稼いだお金で親に何かを買ってあげるとかではなく、普通に生活費として消費されていく感じです。
 
――お父さんが仕事を辞められたのはいつ?
 
安野 私が中2のときですね。
会社が正式に潰れたのがその時期というだけで、それまでもしばらく仕事をしていませんでした。
家でずっとお酒を飲んでいて。
ちょっと今で言うADHD(注意欠如・多動症)っぽい人なんです。
興味があることにバーッと行っちゃうけど、それをまわりの人に説明して共有したり仕事としてちゃんと遂行していくという能力が低い。
自分ではこんなこと思いついてすごいという気持ちが本人にはすごくあるけど、それを仕事に落とし込むということができなくて社会から浮いてしまう。
なぜそうなっちゃうのか自分でもわからなくて、辛くてずっとお酒を飲むみたいなことになっていたんじゃないかなと思います。
そのときは子供だからわからないけど、今思うと、たぶんそんな感じだろうなと。
その時期のことって、ちょっと思い出せないんですよね。
しんどかったから。
 
――お母さんが代わりに家庭を守るとか、そういう感じでもなかったわけですね。
 
安野 ないです。すごい謎なのが、うちの父親、自分は仕事をしていなくて、会社も潰れて引きこもっているけど、母親が働きに出ていくのはイヤなんです。
普通の人だったら、おまえが代わりに働けみたいなことになるんだろうと思うけど、それは男のプライドが許さない。
謎理論過ぎてわからないけど。
 
――誰も仕事をしないのでは暮らしていけないですね。
 
安野 それでどうするのかといえば、母親が実家に行ってお金を借りてくる。
ただ、その頃は私も中学生ぐらいでイマイチよくわからなくて、なんとかなっているから貯金があったのかなと思っていた。
切り詰めて貯金でやりくりしているんだろうなと。
それがたぶん違った。
 
――実家からお金を借りていた。
 
安野 ええ。うちの母親は倹約とかまるでできないタイプ。
いわゆる毒親みたいにパチンコに行ったり、朝から晩までお酒を飲んでタバコを吸ってみたいな人じゃないんです。
それはすごく謎というか、始末に負えないんですけど、普通の人たちなんです。
ただ、若いときからずっと伯父の家にいて自分の力で生活してきていない。
で、普通よりは豊かなわけです。
とびきりの金持ちじゃないけど、我慢してこれを切り詰めてこれを買うみたいなことをしたことがない。
だからすごく高い物を買ったり、贅沢をしているわけじゃないですけど、持っているお金は全部使っちゃう。
 
――贅沢をしたいというより、我慢が出来ない?
 
安野 大人になってから実家に戻ったときに冷蔵庫を開けると、たとえばすごい数の冷凍食品が入っていたり。
食べないのにすごい量の何かをストックしていて、それが全部腐っていたり。
そのとき何も考えないでほしい物を買っちゃうんですね。
だからすごい高級車を買ったり、毛皮を買ったりとかはしてない。
せめてそっちにしてくれると、逆に漫画にできて助かるんですけど(笑)。
 
――でもおうちに『波』とかあるということは、インテリっぽいおうちですよね。
 
安野 タダだからもらってきただけで、読んでいる感じじゃなかった。
私と妹はそれを読んで、あの人の作品は好きとか嫌いとか、あれがいつも楽しみとか話してましたけど、母親が内容について話したことは一度もありません。
相田みつをさんがすごく好きで、そういう色紙を飾っちゃうみたいな人です。
 
――何かに救いを求めているところがあったのかもしれないですね。
 
安野 すごく宗教に依存していました。
私の原稿料が入ってくるようになったらすぐにお供えしろ、お供えしろと。
おまえがそうやって賞とかもらえたのも、全部神様のおかげだからとか言われて。
私はそのせいで、もうまったくの宗教嫌いになって。
いつもすごい喧嘩をしてました。
私が賞をとったのは私のおかげだからと言って(笑)。
 
――高校卒業後すぐにデビューして23歳で家を出られるまでの5年間というのは『よみよま』を読んでも、かなり過酷な時間だったようですね。
 
安野 高校卒業後入った専門学校は前期が半年で、次の後期の授業料が払えなかった。
月々バイトをして、水商売もして、漫画家のアシスタントもしていたんですけど、それは生活費に消えていく。
毎月10万とか5万とかチョビチョビ貸していくから貯金できないんです。
ほんとだったらそのお金を貯めて後期の授業料を払わなきゃいけなかったんだけど、できなくて。
そんなことを2、3年やってました。
その間に妹の体調がすごく悪化して、入院しなければならなくなって。
その入院費も親が何とかできるわけではないですからね。
 
――セツ・モードセミナーという専門学校を選ばれたのは特別な理由があったんですか?
 
安野 私、高校2年に上がるときに特待生クラスに入れられたんです。
進学率を上げるために大学に行けそうな子だけ集めて勉強させるクラスがあったんですね。
ほんとに成績がいい子たちは、他の一般の生徒たちは知らない施設があって、学校が終わった後、そこで塾のように勉強を見てもらえる。
私はそこには入っていなかったけれど、美術の成績が良くて、美術部にも入っていたし、たぶん何かの進路相談のときに美大に行きたいと言ったんだと思う。
それで美術の先生が学校が終わってから毎日、美術室で特別に絵を見てくれたんですけど、まあ、さぼりがちで(笑)。
先生に話を聞くと、やっぱり美大に入るための専門の塾に行ったほうがいいと言われて。
そのあたりで一応大学のガイド本とか調べて、美大の授業料がすごく高いんだというのを初めて知った。
で、これは無理だと。
奨学金をもらえるほど優秀じゃないから、あきらめちゃったんです。
 
――で、進んだのがセツということなんですね。
 
安野 そうです。セツ・モードセミナーって人体デッサンを大量にやるんです。
モデルさんが来て、3分とか5分ごとにポーズを変えていくのをクロッキーしたり、そういう時間がすごく多い。
それができるだけでもすごくうれしくて。
あと、一番授業料が安かった。
あそこは学校ではなく、塾みたいな感じですね。

自伝的要素の強い『よみよま』(黄泉夜間)より

岡崎京子さんとの出会いと
岡崎さんの事故後のファンの反応のこと。


――18歳でデビューしてから24歳で書かれた『ハッピー・マニア』でひとつの成功を収めるまでの漫画家としての変遷について聞かせてください。この6年間という時間は安野さんにとって、どんな時間だったんですか?
 
安野 『別フレ』でデビューしたものの、全然仕事がなくて、一番苦しかった時期ですね。
バイトをして、他の漫画家さんのアシスタントにも行って、しかも担当さんが毎年替わって。
出版社って異動があるじゃないですか。
担当になってやっと仲良くなって一緒に頑張ろうっとなった時期に、「ごめん、異動になっちゃった」というようなことが毎年続いて。
私は『別フレ』に5年いたんですけど、担当が5人いるんですよ(笑)。
 
――1992年に初めての連載『TRUMPS!』が始まっていますよね。
 
安野 1回、連載をさせてくれたんですけど、それも全然人気がなくて。
少女誌って専属契約があるから他の仕事をしちゃダメなんです。
仕事がないのに他で仕事もしちゃいけないという状態で。
一度、友だちの漫画家さんの紹介で、4コマ漫画誌に描いたことがある。
そのとき『フレンド』のほうでは仕事がまったくない状態だったので。
そしたら、すごく怒られて。
 
――『フレンド』の編集者に?
 
安野 そうです。今はどんなシステムか知らないんですが、その頃は専属契約料というものがありまして、当時私くらいの作家だと年間で20~30万くらいでした。
まとまったお金でありがたいことはありがたいですが、当然1年はもたない。
それでももらっている以上は他で描いたらダメですから、バイトをするしかありません。
漫画で稼いではいけないんですね。
連載はあと半年先まで他の作家さんで埋まっているし読み切りの仕事も無いですよ、と言われてました。
単純に他で仕事をしたんで干されたってことなんですが悩みましたね。
全ての道が閉ざされたように感じて毎日悶々としていました。
 
――漫画家・岡崎京子さんのアシスタントをされていたのも同じ時期ですよね。岡崎先生のところで仕事をしたとき、岡崎さんが仕事を断っているのを見て、なんで断るんだろうって思ったというようなインタビュー記事を読んだ記憶があるんですが、それはどういう心境だったんでしょう。
 
安野 ちょっとニュアンスが違う気がします(笑)。
なんで断るんだろうっていうか、その頃の岡崎さんへの依頼の量を見たら断るのが当たり前なんですよ。
もうとてもこなせない数の仕事が来ていましたからね。
だから断るほど来ているのが羨ましいっていうだけです。
先ほどお話したように、自分は八方塞がりで仕事がしたくても無い状態で、漫画を描いても発表できないわけですから。
岡崎さんに仕事がたくさん来るのは当たり前です。
あれだけ才能が飛び抜けてて本人も魅力的な人ですから。
私は岡崎さんに嫉妬して苦しんだとか書いてあるのを見たことがありますが、岡崎さんの才能には嫉妬してないです。
すごすぎて。
段違いに才能がある方なので比べようもないっていうか。
だから自分は自分なりにコツコツやるしかないと思ってる。
それでもいまだにパクりとか言われてしまうのは、影響がそれだけ強いということだとは思いますが、岡崎さんのファンの方々が不快に思われるのは良くないので、全然違う方向性の作品を描いてきたつもりです。
それはそれで全く違うものとして評価してくださる方もいてありがたいと思っています。
 
――岡崎さんと安野さんの出会いは、どういうものだったんですか。
 
安野 岡崎さんの最初の単行本を読んで初めてファンレターを書いたのがきっかけです。
返事が来ると思っていなかったのですが、本当にすぐ返事が来て住所も書いてあって嬉しかったのを覚えています。
15歳か16歳くらいでしたね。
何回かやりとりをするうちに会うようになって。
クラブとかイベントに連れて行ってもらうようになりました。
私はお返しみたいに学校の話とか恋愛の話とかをしてました。
今思えばリサーチ対象だったんだと思います。
漫画に自分の言ったセリフや実際にあったことなどが出てるので、その頃はそれも嬉しかったですね。
アシスタントにはまだなってませんでした。
 
――現実にアシスタントに行くようになったのは、何かきっかけがあったんですか。
 
安野 アシスタントには最初から志願していたんですが技術的にも時間的にも無理だろ、ってことで高校卒業するまではベタとかたまにちょっと塗るくらいで、遊びに行く感じでした。
高校卒業してからは他のバイトをしながらアシスタントにもかなり行っていましたね。
大体お昼くらいに入るんですけどその時点では、まだ先生のペンも入って無い。
そこからは腕ききの古株のアシスタントさんと私とですごい勢いで背景入れて、先生のペンが入ったページからどんどん仕上げていって9時か10時には原稿が上がってました。
本当に速かった。
あの頃の自分を私もアシスタントに欲しいと思う(笑)。
そもそも先生の手が速いし古株のアシスタントさんもめちゃくちゃ早いから全員加速していくんですよね。
次の日にかかったことは一度も無いですね。
その頃は、いつも16ページくらいなら半日で上がってたと思います。
その後アシスタントさんも入れ替わったりして人数も増えていきましたけど、基本的には日帰り。
ほぼ半日です。
その頃他の先生のところに行って初めて泊まりがけで何日も合宿みたいにして仕上げる少女漫画スタイルも経験するんですけど、むしろ主流のそっちが新鮮でした。
今はみんなデジタルでアシスタントさんもリモートが主流ですが、私がアシスタントしていた頃はどこもそんな感じでしたね。
なので自然と自分もそんな風に仕事をするようになりましたけど、泊まりがけをしないのと、ものすごい速さで仕上げていくスタイルは、岡崎さんのところで培われました(笑)。
 
――では、1996年に岡崎さんの身に起きた、あの交通事故はショックでしたね。
 
安野 岡崎さんはわりとうっかり屋さんだったんで私、最初はタクシーを停めようとして少し接触したとかちょっとぶつかったとかそれくらいなのかなって思って、心配しながらもフワーッと病院に行って。
とんでもない事故に遭ったとわかったときには立っていられなくて。
同じように駆けつけた(桜沢)エリカさんと2人で支えあってました。
ほんとにひとりで立てないから人という字みたいになってた。
自分たちもすごくショックでしたからファンの人たちもすごく辛いだろうなって思ってました。
でも一番大変なのはご本人だしご家族ですから、泣いたり騒いだりするのは違うと思ってて。
自分たちにできるのは京子さんが帰ってくるまで、『FEEL YOUNG』が無くならないように頑張ることだと周りの人たちと話してました。
いたずらに悲しんだりしないで仕事するしかない。
考え始めるとどうしていいのかわからなくなるから。
その頃はこの事についてインタビューで聞かれることもありましたが、ほとんど話すことが出来ませんでした。

第一印象はかなり感じ悪かった(笑)。


――1995年に『FEEL YOUNG』で連載を開始された『ハッピー・マニア』によって、安野さんの状況は一変します。そこから先は売れっ子漫画家として、月に7本の連載を抱えるほど、ただひたすら仕事に邁進する日々へと変わっていくわけですね。


安野 そうですね。その頃はとにかく来る仕事はひとつも断りませんでしたね。
単発のインタビューも全部断らないし、「おすすめのB級グルメを教えてください」のような雑誌の細かいコメント仕事とかも全部やっていました。

――マネジメントをしてくれる人はいなかったんですか。

安野 いないです。全部自分でやっていました。
岡崎さんもそうだったから、それが普通だと思っていたんです。
だから文芸誌の小説家さんとの対談で、ふらりとひとりで現場に行くと驚かれたりしてました。
「安野さん、ひとりで来たんですか」と。
小説家の方って他の担当さんもついてきたりして、ご一行みたいになりますよね。
一方、私はもう丸腰でフラフラと(笑)。

――そういう多忙な生活の中で、庵野秀明監督にお会いになる。

安野 そうですね。

――さて、ここからが本題です(笑)。最初から惹かれたんですか。

安野 全然です。

――最初は、どういう経緯で会われたんですか。

安野 『エヴァ』のキャラクターデザイナーであり漫画家の貞本(義行)さんの奥様であるたかはまこさんが『FEEL YOUNG』で連載されていたんですが、担当さんが一緒で。
貞本さんが『ハッピー・マニア』を面白いと言ってくださってて食事会をする事になったんです。
そしたらなぜか監督もおまけについてきたんです。
私は『エヴァ』を観てて監督のことはもちろん知ってましたが、監督はその頃まだ『ハッピー・マニア』は読んでいなくて誰だかも知らずに来たらしく全く喋らない。
後から、あのときは花粉症の薬を飲んでて眠かったと言ってましたが、かなり感じ悪かったです(笑)。

――第一印象はそんなに悪かったんですか。

安野 だってほとんど口利かなくて、そんなにつまんないんだったら帰ればいいのにと思っていたんですけど、2次会でみんながうちに来るっていうことになったら、ついてきたんですよ(笑)。
「帰れよ」と思ったぐらいです(笑)。
でも庵野監督が来たということで、そのとき一緒に住んでいた男の子がもう「すごい、すごい」って興奮しちゃって。
そのとき私が飼っていた犬を監督が蹴ったりして、ほんとにむかついた(笑)。

――それは、かなり態度が悪いですね。

安野 まあ、蹴るって言っても、プードルがなぜか監督のことが好きで、身体によじ登ろうとするんです。
獣臭がしたのかな。
それを監督が無言で蹴っ飛ばして。
私はそれを目撃して、絶対に許さないって思ってました、そのときは(笑)。

――そのときはどんな会話をされたんですか。

安野 いや、ほとんどしてないと思います。
貞本さんのほうがちゃんとしゃべってくれて。
監督と何を話したとか、あんまり覚えてないんですよね。

――でも次のデートの誘いは庵野監督から電話を?

安野 いや、デートなんて全然。
もっともっと後です。
その後も他の漫画家さんの飲み会で久しぶりに会ったりして。
そのときも普通に「どうも、お久しぶりです」ぐらいの感じです。
そこでもそんなに話もしないし、その後も何かしらの飲み会とかで顔を合わせていましたけど、ほんとに顔見知りというだけの時期が3年か4年ぐらい続いていました。
お互いに携帯の番号も知らないし、飲み会に行ったらたまにいる人みたいな感覚です。

庵野秀明監督との生活を綴る『監督不行届』。 映画監督と漫画家のふんわりした日常がユーモアを交えて描かれている。

――意識し始めたきっかけというのはあったんですか。

安野 萩尾望都先生を囲む会という、簡単に言うと萩尾先生と一緒にご飯を食べられる会があって、私と監督も同じときに参加したんですね。
参加者は当然のことながら誰もが超緊張して行くわけです。
やまだないとさんと、山本直樹さんがいたかな。
ほかにも何人か漫画家さんや編集さんがいたと思いますけど、私、萩尾先生の隣の席だったんです。
さすがにすごく緊張しちゃって、どうしようかなと思って、とても萩尾先生のほうを向いてしゃべれない。
そのとき、隣にいたのが監督だったんです。
だから必然的に監督とばっかり話しちゃって。
監督も萩尾先生が大好きだから珍しく緊張していて、いつもあんなにふてぶてしいのにと、新鮮な感じがしたんですよね。

私、その日すごく脱ぎ着がめんどくさいサンダルを履いていたんです。
履くのに時間がかかるタイプ。
それで、食事会はお座敷だった。
で、おトイレにいくときに「誰のかわからないけど、サンダル借ります」と履いたのが監督のサンダルだったんです。
それを履いたときに「あれ?」と思って。
人の靴とかサンダルって履くとちょっと気持ち悪いときがあるじゃないですか。
なんかしっくり来ないというか違和感があるんだけど、そのときはなんかフワッといい気持ちになったんです。
だから「エッ、これ、誰の?」って思わず聞いてしまって、監督が「ああ、わしの、わしの」って。
なんでこんなサンダルがって、私はちょっと驚いていて、よく見ると超汚いんですけど(笑)。
でも、なんかフワッとした感じがあって。
うまく言えないんですけど、それがなんか……今思うとなんですけどね。

そのときもうひとり編集さんがいて、その編集さんと私がよくプロレスを見に行っていたんですよね。
それで「今度行くとき、来ます?」ってお誘いして初めて電話番号を聞いて、後日プロレスに行った。
けど、監督、格闘技とかあんまり興味がないから、すごくつまんなそうにしていて、終わった瞬間、帰っちゃったんです(笑)。
そのときもなんで来たんだよって思いました。
デート感とかは全然なくて、今思うと不思議ですね。

インタビューは後編に続きます!
次回「ANNORMAL」の巡回展は2022年9月10日(土)~10月10日(月・祝)に金沢21世紀美術館での開催を予定しています。
詳細は下記リンクからどうぞ!(スタッフ)

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安野モヨコ&庵野秀明夫婦のディープな日常を綴ったエッセイ漫画「監督不行届」の文章版である『還暦不行届』の、現在連載中のマンガ「後ハッピーマ…

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