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【小説】可惜夜に眠る恋人よ

可惜夜に眠る恋人よ

 またか、と息を吐けるほど、人間は他人の死ぬる姿へ従順になりました。つまるところ、正方形の機械に意識を吸われている僕だけが、この世にすら取り残されておりまする。その受像機の上には蝉が裏返っていまして、微かに動いていた足も静寂となりました。陽炎が窓に密着して嗤う日盛りの二時半。葉月と三日のこと。女性アナウンサーが淡々と発する言葉には、僕と彼女の心中事件が報道されているようです。また、察するに僕らは五日間も眠りに耽っていたようでした。自ら身罷る者の多いのを由に、捜査と葬儀の立てる準備が遅れてか。身体を焼かれもせず二人して無事に情死と勘違いをされたまま、横たわっておったところでしょう。

    自分が著名である自覚はございませんでしたが、世間様の灼熱地獄に、この炎天下のさなか、恋い慕う人を巻き込んだ事実は口惜しいばかりです。けれども、それ以上に、彼女の命を救えなんだことへ袖が濡れていきまする。かと言いつつ、ハオが二十歳にして生を全うした事実は変えられませぬ。藁にもすがる魂胆で、訪れた侘しさを拭うべく彼女の言霊を探しました。まさか、とは思いましたが、やはり、ハオは僕の真似をして小説に血肉を落とし込んだようです。暗紅のインクで綴られたものは、僕の文体にそっくりだと一文で分かりました。下賤な小説家の真似などしなくてよいのに。

   ――人生の不幸を御伽噺にするために、小説家はいるのかもしれません。もし、本当に小説が貴族のものだけではなくなったのならば。与太話と興を結んで、不幸せな息吹が平等になるのです。ゆえに、小説家は存在します。そのように陳ずれば、不条理に与えられた命にも生きる意味がうまれるでしょうか。私には知りかねます。如何せん、初めて書くものですから。自分の奇譚を書き記してみなければ、一度死んでもなお生きている理由が説明付きませんもの。そして、彼が私に残した心臓を書くことに使って、今度こそ死に切ったのなら。小説家の愛人の務めとして誰も文句は言えますまい。でしょう、アビコさん。貴方は、私の小説を読んでいる。

   死体の焼けた臭いがしました。牛の油とも豚の油ともとれない饐えた空気が鼻を引っ掻きました。あっと驚き、火事か何だと身体を翻せば、右足にあたる空の薬箱。デエビゴ。脆弱な身体を狡猾に、薬を頼って私は死んだはずでした。ところが胴は滑らかに、肌は季節に背いて雪化粧をしているよう。導線を断ち切れぬどころか若返ったような肉の形に、哀れ気を咲かせざるを得ませんでした。さては人魚の尾びれでも食んだのかと疑問が頭を弄びましたが、答えは鬼の血液以外はないはずです。じっとり、じとじとり、ブラウスのレース袖に染みる血の池。畳に蔓延る鮮血の川を辿っていきますと、関節の大きな見知っているお手がありました。血管をなぞって縦に切り込まれた手首は、沸騰して紅の参列を見送り続けています。私は恋人の血を浴びて、言うなれば彼の心臓のもとに、息を吹き返したのに違いありません。火傷をしそうな射光を窓かけで隠しても、鮮明に情景を脳に描写する眼、テレビ脇の小さな鏡に映らぬ実体が、現世から私を隔離したのです。

「あぁ、あ、どう、どうして、貴方」

  私には貴方しかおりませんのに。肝心なときに言葉を発せない性分は呪いです。吃る唇を噛んでどうにか雫を耐えました。もともと血の気の無かった彼の顔面は明らかに蒼白で、身体の下も透けそうな程でした。

   お初にお目にかかりましたときから、彼が野狗子や乾屍などに類を持つことは存じておりました。磯女や飛縁魔ら本国の吸血鬼の種に加えて、漢字の輸入と共に来日して千歳を跨ぐ。彼もそのうちの御一人です。が、悄然ともせず彼に心臓が跳ねるのは惚れた腫れたの弱み、いや孤独者の妙な運命でしょうか。

   有象無象の浴衣姿が爛漫する丁度一年前の夏祭りで、人間たちからはぐれた私は彼の胸に飛び込んだのです。家出をした日陰者と、夜を練り歩く人外の隠居者が偶然出会っただけでした。それでも、私はその日から恋蛍になりました。

「どうも失礼したね。葵のお嬢さん、お手を」

  提灯が反射して、夕日へ月明かりを溶かし込んだ瞳に見つめられたものですから、いつも以上にたじろぎました。

「わ、た、わたし、は、」

「あぁ、なるほど。どうやら僕は二度も君に礼を欠いたようだ。悪しからず。そこの隅に座ろうか。紙を持って来よう」

  焼き鳥の醤油が浮かぶ芳ばしさを隣に、言われるがまま屋台の影へ潜めます。そこの店主のおじ様と彼は長くからの縁だそう。銭を求めずに、書きものと塩の焼き鳥を一本、また、何かしらが入ったボトルをくださいました。それに口をつけ、飲み干す様子を見ても慄かない私に、

「怖くはないのか」

  筆記用具を差し出しました。

   ――一番恐ろしいのは人間です。だから、

「わ、たしを、攫って、て」

  殺してくれればいいと考えました。どこにも居場所を見つけられぬ私は、風に抱かれてそっと消えてしまえば家族も本望でしょう。人に喋りかけるのが下手で、大学は半年で辞めました。江戸川の親戚のお宅に間借りをさせてもらって働いてみても、案の定、結果は実をつけませんで。もはや死ぬしかないと、魑魅魍魎が紛れ込んでいそうな公園の祭りに駆け出したのですから。たとえ浮舟だったとしても、彼という鬼に身を任せたいと懇願するまでに、独りなのです。

  彼があまりにも言葉を発さないので、周囲の騒がしさも夢のように離れて感じられました。しかし、私の怯えた顔が面白かったのか、不可思議にも彼は頬を緩めています。

「人類だけが異常に増えた地では、僕も独りでね。その葵、摘んでみようぞ」

  小説家が受け取る趣は、存外、陳腐なもののようです。

  空の鏡は雲をかき分けて帰路を見守っていました。アビコさんの肩に頭を寄せながら、ふと葵の由来を尋ねてみますと、

「空蝉の声は汚い。思惑が音にのって禍々しい。君はまるで口下手なことを恥じているようだが、声無く流す文筆は麗らかだ」

  考えてもみない答えが落ちてきたものですから、素っ頓狂な声が出て、その後は一言も発しまいと決めたのを覚えています。

   玉響の、彼に揺られる場面は過ぎ。日々を居座るにつれて似た者同士である私たちは惹かれ合いました。ただ二人は、共にあるべきではなかったのです。孤独を群れへ帰してはいけません。そこへ馴染めなかった浮き出物の代償が孤独だというのに、起点へ戻すのは大富豪の傲慢です。孤独は孤独にしか生きられません。

   解っておりました。いつかの別れを恐れて死のうとした私の動機も、彼が私を好いていたからこそ、僅かの寿命を削りきり、血を分け与えて息を引き取ったことも。私たちは愛し合ってしまいました。ですからね、私がいけないのです。葵なんて大層なものではございません。愛したのに孤独になりたい。捨てられるのが辛いから。それでも、さようならを選びましたのは私ですが、アビコさんには生きていてほしい。塵に情けをかけないでくださいませ。この心臓は返します。鎖骨に万年筆を刺してここまでの物語は書き終えたのですから、頂戴した時間は幾分か消費しました。江戸より前から令和まで生きた、彼の筋がよい大和言葉を借りて、幸せな一瞬を小説に収められただけで嬉しかったです。小説家が文化を成した過程を学べました。アビコさん、教えてくれてありがとう。これで勘弁してくださいまし。私が悪うございました。心臓を今から抉り、無理やりにでも貴方に咀嚼させますから、受け取って。

  話はここで途絶えておりました。

  彼女の血がこびり付いた万年筆を、僕も取らなくてはなりません。口内の肉に、直線を描く。慟哭で喉を震わせながら。ハオの、恋人の、心臓を喰らったのはどの口でしょうか。恨めしや、なんとまぁ、恨めしい。人は食わぬとして数十年。愛でるどころか剥ぎ奪った舌と粘膜とを、細胞の形にそって力を尽くします。筆の先端が破り弾く痛みなど、血管の浮き出た怒りには敵いません。決壊した滝の岩々を遮ることもなく噴く宿り身の興奮は、掌さえも浸食しました。僕は、この血によって小説の続きを書くほかありません。唇をなめる血液の温度は、彼女の温かさであれば良いのにな。

  花笑みに身を預けた女。君は、間違いなく僕の愛すべき御仁でした。肌に指を這わせれば沈む肉体美。あぁ、恋しいや。僕に抱かれた貴女。出会いのその日のか細い声も、降ちに喘ぐ鈴の音も、首ったけにつかりました。好きです。だから、糸の別れはごめんだと身を投げたことは、いじらしくて。対し、僕も君に心臓を捧げて君だけを生かしたかったのです。己が、最も醜いのですから。君の命をあるべきところへ返したいと血を被せたのは、善意ではありません。エゴです。僕らは互いに、独愛を投じていたのですね。心臓を幾度も交換した罰を、受けねばならぬようです。

  ハオに触れた人差し指が、硬質な骨を折る音に連れられて石化の道をたどりました。出水に任せるが如く身体を覆う玄の色。硬直した節々に、終わりを悟りました。無論、彼女も胸に空いた洞窟を始まりにして鴉へ蝕まれています。僕らはこれから、命を無下にした罰を背負い、生き物として朽ちることもなく、この石に生涯を献上していくようです。書いているなおも、三肢から首にかけてが黯に飲まれました。ハオは哺乳類としての威厳が既に残ってはいません。このまま別個体として離別するくらいならば、血豆の潰れた右手で彼女の顎を引き、接吻を交えながら一心同体に去ろうと存じます。両足は役目を果たせぬようではありますが、男たるもの片腕の筋肉だけで床を押し、葵のもとへ近づこうぞ。

  この小説を手に取った読者諸君。どうか、死を暴かないでください。愛を骨にしないでください。他人に死ねよと言いながら、いざ死んでみれば迷惑だとほざく諸君は、死体あさりをしたがります。よしてくれ。静かに、孤独に幕を閉じさせてください。続編はござらぬ。

  最期に。この小説の題は「可惜夜に眠る恋人よ」だということを記しておきます。彼女と死することに焦燥が襲い、つい忘れておりました。これ以外の題をつけることは、親愛なる憎き読者諸君であっても許しはせぬ。可惜夜を見つけたのですから。

   一旦は筆を置きまして、床についたヌーマイトの恋人へ目をやりました。確信ではございませんが、数珠によくみるこの角閃石は、おそらく左様でしょう。そこへ僅かな日脚が二人の腹を蹴り飛ばして、宝石の中に夜が舞い積もりました。朝ぼらけが物憂い、銀河が巡る夜でした。白練と鶯色の流星群に、紫式部の実が点々と散歩をしています。まさに、可惜夜。ふと、彼女が哀感して泣いた歌が聞こゆ。万葉集第九巻の玉櫛笥の歌を、ハオは寂しがったのです。それにお返事を致すならば。

「玉勝間 明けまく惜しき 可惜夜に 恋衣忘れめや 大和男児」

 セミの死体が床に落ち。
  帳は、もう降ろされようとしております。


あとがき

  春先に紆余曲折ありまして、この小説は此処で皆様に見ていただくのがよかろうと、書き起こしました。この小説を読者諸君へお渡しするには、私はとある悲しみを越えなければなりませんでした。作品が背負った運命かもしれません。

  あとがきで早々に蛇足のようなものをつけてしまいましたが、孤独の在り所はいつだって裏切りの下、というだけです。

  初めから孤独な人なんていません。生まれたての孤独など、あってたまるものですか。兎にも角にも人間が孤独になる由は、人間の面の皮に隠れた血肉のグロさです。そりゃ、死んでしまいたくもなるでしょう。だからと言いつつ孤独を救うために幸福をぶら下げられたとて、孤独に慣れた人間は幸せが恐ろしい。与えられたそれに見返りが付きまとうものだと疑う性分。裏切られてきたのですから、そりゃ無償の幸せや愛を易々と受け取れやしないものですよ。

  でもね、唯一、私たち孤独者が受け取れる幸せと愛情があるとすれば。それは、孤独を知っている者同士のものなんだと思います。孤独に利己も利子もつきませんから、本当の無償なんです。

  あなたの孤独を誇ってください。それは、いつか誰かと愛し合う赤い糸になる。

秋杏樹


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