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めんどくさい「過程主義」を愛する

函館の古民家に男女13人で住んでいる下沢杏奈です。先日私は23歳にしてぎっくり腰を患い、さらに風邪をひき、熱をだし、そして精神的に病んでいたため、顔がやつれ、さらに食べ物も受け付けてくれず、人間とは言えない状態になっていました。

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約2週間、体調を崩しまくった結果、めんどくさい「過程主義」を提案するまでの過程をここに記しておこうと思います。めんどくさいけれど、最後まで読んでくださると何かに気づくかもしれないし、気づかないかもしれません!!

見えるものを求めた私

私の体調不良の原因は私が、やりたいことだけ優先したこと。早さや結果ばかりを求めて、プロジェクトやイベントだけを重視していたため、自分の幸せのことをどっかにほっておいてしまったことを、今更ながら反省する。よって、当時私の目の前に起こっていたこと、それは色んな人間関係のことと、自分のやりたいこととの葛藤だ。私がやりたい!と思って進めている最中に、そんなことで悩みたくないということが、次から次に起こったりするのだ。それが積み重なって、ついに、ぎっくり腰と咳がでまくる病気にかかった。そして何よりもの問題は、それを誰にも言えなかったことだ。私は、誰も信じられなくて、孤独を感じて、1人で悶々と葛藤していたんです。

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あぁ!一緒に住むなんてめんどくさい!

一緒に住んでいること。それは1日を共有すること。一緒に住んでいるということ。それは誰のことも他人事にできないこと。
日々、喧嘩は起こるし、日々、何かめんどくさいことがおきる。その度に駆り出される。さらに、相手の嫌なところが見えてしまうだけでなく、自分の嫌なところも指摘される。例えば「杏奈さんの部屋汚くないですか?」とか「杏奈さんの足短くないですか?」などである。笑。嘘。本当は書きたくないくらいもっと深くて嫌なところに気づいちゃうんだよな。

ただプロジェクトだけをやればいいだけなら、人との共通点だけ探せばいいはず。なのにわざわざ住むことで人との違和感や分かり合えないことに直面してしまう。それってむちゃくちゃストレス!笑

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少人数の共有だけでいいのに、暮らしている人、みんなにいちいち言わなきゃいけないなんて、みんなの同意をとるとかって、正直めんどくさい...。

1人で決めたら簡単で早いのに、みんなで決めるから時間もかかるし、エネルギー使うし、まぁ進まない。効率的に何かを進めたい!のに、ここに住んでいることでめんどくさいことが増えて、タスクが終わらない。1人で自分が何をしたいのか考えて、やって見て改善すればいいだけのはずが...

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一緒に住んでいるから「最近どう?」という軽い話から始まったのにもかかわらず、なかなか寝かしてくれず、対話が夜中まで続くこともしばしばある。本当にめんどくさい。人が増えるということは、1人だけで考えていればよかったのに、他人の都合とか?他人の感情とか?も考えなくちゃいけない。ああ、大変だ。

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私はそんな生活に腹が立って、本当にこの家に住みたくなくなった。荘民に何かが起これば、別に他人なのに、話を聞いたり、どうしたらいいのかを考えなくちゃいけないというのが、本当に嫌だった。

早く結果を出したい。その一心だった。だけど逃げられない。家は一つだ。

そんな時の救世主

まさに私が限界を達して、体もメンタルも死んでいたころ、いつも私のことを外から落ち着いて見てくれる方々に話を聞いてもらうことになった。その結果、私が今やりたいこと・目指していることが早すぎることに気づいたのだ。何かを成し遂げるためにはまず、成し遂げる自分自身が元気でないと、周りに元気な人集まらんくない?って気づかせてくれた。そして、その時に効率的に日々をこなしていくことは難しいんだって諦めることができたのだ。さらに1人でやるんじゃなくて、時間もかかるし非効率だけど、仲間に話してみようと思った。

吐露するってことって痛い

 まずは、今までいうことを躊躇ってきた自分の奥底にある不安や気持ち悪いことを、吐露してみることからはじめた。1人で飲み込むことが善だとされてきた人生だったから、自分の気持ちを相手に全部言ってもいいのか?え、大丈夫?とか変な心配をしていた。勇気を出していってみようかな。と決めた。でも、痛い!!初めてその時自分というものを相手に見せるって痛い!痛い!痛い!って、気づいた。相手への不満を正直に言ったら、相手を傷つけてしまうんじゃないか?とか。自分の不安を吐露すると弱い自分が見えて、仲間を失ってしまうんじゃないかって寂しくなったりした。心がキュってなる感覚。だけど、思い切って言ってみたら、みるみる変わっていく世界!!話したら「え、そんなこと考えていたの?」って言われて自分の悩みがちっぽけに見えた。そこでようやく、まーーた人のせいにしていたんだと気づいた。私が変われば、周りも変わる。自分が変わらない限り、人を動かすなんて上から目線なこと言えないと実感した。自分の気持ちをわざわざ伝えるのって痛くて辛いけれど、だけどそれを超えた先に最高な仲間ができて、素敵な世界が見えるって教えてくれた。

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非効率を愛し始めた。

 そうやって、1人で抱え込みすぎることをやめた瞬間にやっと、「今」に温かみを感じられるようになった。未来のことばかりを見て、今をたのしみきれなかった自分だった。でもやっと、非効率で何も進まないこの毎日が、なんかあったかいって思い始めた。でも、実は前からずっと、あったかいことなんて気づいていたんだろうな。でも、自分が成し遂げたいことからすると非効率で、めんどくさいから、できるだけ排除して見ないようにしていたんだと気づいた。
 一緒に住むということは、一緒にご飯を食べたり、片付けをしたり、同じ空間を、すれ違うことでお互いの存在をなんとなく認識して、なんとなく思いやりあっている。それって何かあたたかくて、なんか素敵な空間だとやっと認識して、さらに肯定できるようになった。これは、私が目に見えるものを早く結果として出したい!という自分から、過程こそ面白いんだって気付き始めたことの現れなのだ。

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人が集まるのはなんで?

確かに喧嘩とか、掃除当番とか、片付けとか、1人で暮らせば気にしなくていいのに、みんなで暮らしているが故に、気にかけなきゃいけないこの日々はめんどくさいけど、この荘に人が集まるのはなんでなんだろう。

そんなこの場所に荘民だけじゃなくて、たくさんの人が訪れ、集まってくる。それってなんでだ?と考えていた。

こないだ、よく私たちのことを応援してくれている人から、「あなたたちはめんどくさくて、非効率なことをしているからこそ、社会にインパクトを与えられるんだと思う」と言われた。また別のわらじ荘で主催したBARにきてくれた社会人の方にも、「ああ、今日も会社では否定されることも、ここにくれば自分を思い出すことができる、そんな心のガソリンスタンドに来れてよかった」って言われた。その時、そうか!この社会で私たちがここに存在する価値は、非効率でめんどくさい過程こそ素晴らしいんだって体を使って体言することなんだって気づいたのだ。

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承認欲求まみれの自分と社会

現代の世の中。数字やデータなど目に見えるモノサシだけで図られてしまいがちなこの社会。小学生のとき、頭が良くて、スポーツができる女の子を見て、羨ましいと思っていた。でもその一方で、めちゃくちゃ努力している女の子(自分のこと)も評価されないなんて!ずるい!と思っていた笑。承認欲求まみれな自分。(そしてそれは23歳になった今でもたまに出てくる)誰かの見える指標で評価されて腹が立つことはしょっちゅうある。

「過程主義」の提案

私は、そんな結果主義的な(もしかしたらそう見えるだけかな)社会に対して、見えなくても、結果が出なくても、どのように、どんなことを学んだのか?何に気づいたのか?など過程から振り返り、学びに結びつける「過程主義」を提案したい。わざわざ古民家で、わざわざ共同生活をして、わざわざ他世代との交流もするめんどくさい生き方を提案し続けてやろう。結果だけではなく、迷ったり、もがいたりする過程こそが素晴らしいんだって胸をはれる社会を選択できるようになるといいな。(=結果主義社会もそれはそれでいいと思う)

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過程主義は人を巻き込み、まちをつくる(?)

しかも、荘の中だけで完結することができれば、一対一の対話で終わりだったのに、地域に開いて、いろんな人を巻き込むから、自ずと関わる人が増える。同世代だけでよかったのに、わざわざ他世代を巻き込む。身内だけでいいのに、わざわざ外部の人にもアプローチしていく。それが広まっていくと、いつの間にかまちの規模になってくる。正直このような巻き込みをするには、かなりの連絡を取らなきゃいけなかったり、いろんな根回しが必要。結果だけを求めていたら、ここまで多くの人は巻き込めないけれど、過程を大事にしているから、ちょっと寄ってみるとか、立ち話をするとか、そうやってより多くの人が巻き込まれることになる。だけどあえて巻き込むことで、たくさんの人が幸せになれる気がする。

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過程主義の無限ループ

たまに、最高の過程を経ることができて、結果が垣間見れる時もある。だけど、実はそれも、それは結果ではない。(僕たちはまだ人生の途中なんだな!笑)そう、結果も全て過程であり、途中である。ここまでくると「過程主義」って世の中全部じゃないかと文句を付けたくなるでしょう?そうなんですよ。世の中は過程の積み重ねでできているはずなんだけど、勝手に誰かに結果だと言われてしまうから、結果になるんだ。=失敗なんて、この世に存在してしまうのは、誰かがそれで終わらせてしまうからだ。失敗は人生が終わらないかぎり失敗になり得ない。

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体調を崩してのまとめ

さて、最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。体調を崩して私は諦めたことがあります。一つは、効率的でわかりやすい生き方をすることを諦めました。もう一つは1人で全部できるって過信することも諦めました。私たちがやろうとしていることは社会でまだあまり納得してもらえないものですし、受け入れられるまで大変に時間がかかることだってわかっていたはずなのに、焦って結果を求めすぎていたことに気づいたんです。そして、1人では何もできないことを知ってはじめて、私は仲間に自分の不安などなどを話して抱えることを止めることができました。体調不良の時は、もう嫌だ!って思っていたのに、今は体調を崩したことをネタにしてnoteをかけるくらい、体調不良になってよかったと思えるんです。この記事を書くのに実は8時間くらいかかっているんですが...)あ、でも、体調不良も振り返れば、一つの過程だったんだなと肯定しています。「過程主義」最高!最後にこの記事をつくる過程の写真を貼っておきます。いやぁ、大変だったあ!

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