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雪化粧

「似た者夫婦」という言葉がある。

手元にある電子辞書で意味を調べてみると、

“夫婦は性質や好みが似るということ。また、そのような夫婦”

と記されている。

同じような性格同士がお互い惹かれあって夫婦になったのか、或いは一緒に生活し、寝食を共にする過程の中で次第に似ていくのか、いずれにしても性格だけでなく、趣味や思考などがいい意味で似ている夫婦のことを指すのだろう。

私と妻は、生まれも育ちも全く共通点がない。

妻は新潟生まれの新潟育ち、私は京都生まれの熊本育ちである。

そんな対極に住む二人が偶然東京で知り合い、結婚した。

干支も血液型も年齢も(妻は私よ七つ下である)、幼い頃観ていたテレビなども全く異なるけれど、お互いに笑ってしまうくらいに共通している特徴がある。それは、極度の暑がり、かつ寒がりだというところである。

私も妻も、それはそれは汗かきで、夏場はカバンに換えのTシャツを数枚ずつ用意し、繋いだ手は幾度となくハンカチで拭わなければならない。

息子を妊娠している時も、世田谷区の産婦人科に通い、二人でお茶を飲みながらため息をつき、「あぁ、この子が産まれる予定日が真冬で本当によかったぁ。」と、汗で濡れた手を取り合いハンカチを握りしめて通院していたのもいい思い出である。

「おれなんて九州育ちだからさ、寒い冬も苦手って分かるけど、新潟なら寒さに強いんじゃないの?」

「それならあなたも暑さには強いはずよね?」

こんな感じでお互いが折れ、春と秋が一番だよねと仲直りをする。

私達夫婦には、二人の子供がいる。

上のお兄ちゃんが二十二歳、年子の妹が二十一歳である。

二人とも、妻の実家のある新潟の病院で産まれた。

病室の窓からは、真っ白な雪が一日中降り続き、九州育ちの私にとってはとても珍しく、不思議で神秘的な光景だった。

息子の時も、娘の時も、この雪を二人で眺めながら名前を考えた。

息子の名前は『瞬』とした。

虹や花火、流れ星や雪の結晶など、本当に美しいものの輝く命はほんの一瞬だから、その価値を分かる人になってほしいという私の願いと、誰にでも優しく出来る子に育ち、親切な行為をあからさまに見せるのではなく、人が見ていない時、瞬きして気づかないうちにそっと手を差し伸べてあげるような逞しく思いやりのある人になってほしい、そんな妻の希望を込めた。

娘の名は『若菜』に決めた。

これは夫婦で病室の窓から木の枝に降り注ぐ粉雪を眺めながら、どんな冷たい雪にも、人生の困難にも負けない可愛い芽を出して欲しい、そしていつまでもいつまでも若々しく、可憐な花を咲かせて欲しいという、二人の小さな思いを込めた。

だから子供たちの名を呼ぶ時、私はいつも、あの病院から無言で眺めていた雪を思い出す。

辺り一面、白銀の世界だった雪国の景色が、おとぎ話のような鮮烈さと美麗さをもって、脳裏と胸をぽかぽかと温めてくれる。

それは今も変わらない。

妻は、娘を産んだ年の十一月の下旬、病気の為天国へとひとり旅立った。

年が明ければ、間も無く子供たちの誕生日だった。

それから私は二人の子供を連れ、熊本の実家に戻って来た。

お葬式の日も、初めて二人を保育園に送る時も、今では珍しい、大雪であった。
それは自分の胸の内を現しているかのようで、私は雪を見るだけで眩暈がしていた。

子供たちが生まれた時、夫婦で目頭を熱くしながら笑顔で眺めていたあの雪とは違い、実家に帰ってから見る雪はどことなく陰鬱で仄暗く、希望の道筋と明日への架け橋を無惨に掻き消す厄介者のように、私には思えた。

当時の私は毎日、妻のお墓の前で泣いてばかりいたと思う。

いや、その記憶も曖昧なほど、その時期の自分を思い出せないでいる。

子供たちを保育園で送っていたある日、息子が急に歌を歌い出した。

言葉を覚え始めていたらしく、私も幼い頃口ずさんでいた懐かしい歌であった。
よく喋れない娘も、一生懸命お兄ちゃんの真似をして声を出して手を叩きながら笑っている。

どうやら保育園で習っている歌らしかった。

「きしゃきしゃ、ひゅっぽひゅっぽ、ひゅっぽひゅっぽひゅぽっぽ!みんなをのしぇて、いっぽいっぽいっぽっぽ!」

「ぼくらはみんな、いちている、いちているからかなちいんだ!ぼくらはみんないちている、いちているからわらうんだ!」

そのカタコトのへんてこりんでぎこちない歌は、まるで応援歌のように私には聴こえた。

そんなたくさんの歌を三人で大声で歌いながら、保育園へ向かっていた。


母と、そんな二十年前の懐かしい思い出話に花を咲かせていると、母がこんな話を始めた。

「あんたね、しゅんもわかなちゃんも大きくなったけど、こっちに帰って来た時は本当に小さくて、あたしもお父さんもね、これから一体この家族はどうなっていくんやろか?ママがおらんで、あんたひとり親でどうやって育てていくんやろか?もしあたしとお父さんがなんかで早く亡くなったら、あんたたちはどうして行くんやろか?そんな心配ばっかりやったとよ。けどまぁしゅんは小さいのに泣きもせずに、お父さんに手を引かれて公園に行って、滑り台で遊んだり、海岸に行って石投げをしたり、ほんと元気で逞しかったんよ。わかなちゃんは保育園に行き出してすぐに言葉を覚えて歌も覚えてしまって、先生がびっくりしてたんやから。『お昼寝の時間に歌を口ずさんであげたら、わかなちゃん、なんと瀬戸の花嫁を歌い出したんですよ!こりゃすごいってなって、先生たちもみんな集まって来ましたよ!』ってびっくりしとらした。あの子、あたしがお風呂上がりに髪を乾かしながらつい歌ってた歌をそのまま暗記してしまったんよ!」

「しゅんを散歩に連れて行く時はな、俺はリュックにアンパンマンのお菓子とかおもちゃとかオムツ入れてたんやから。昼間、おまえが仕事の時は俺がオムツ替えしよったんやぞ。」

そう言って父が話に入って来た。

会えば必ずこの話で盛り上がる、落語のオチのようだ。

もう何十回、何百回と父と母に聞いた話である。

二人がとても嬉しそうなので、

「もう何回も聞いたばい、その話!」

と言いつつ、私も大きな声で笑う。


つい先日、私の住む熊本でも大雪が降った。

車のタイヤの準備はしていたのだが、固まったワイパーがポキンと折れてしまい、交換するのに手間取ってしまうくらいだった。

その日は、娘の二十一回目の誕生日であった。

その数日後、息子が二十二歳になった。

二人が親元を離れる前は、毎年交代で、どちらかの誕生日に二人合わせてお祝いをしていた。

今年は娘が用事があって帰省出来ず、間も無く大学生活が終わる息子が帰って来たので、息子の誕生日に簡単にお祝いをした。

息子のリクエストで、特製のキムチ鍋を一緒に作ってみた。

そう言えば去年もキムチ鍋だった。

その前も。

息子と飲むお酒は、やっぱり格別だと思った。

最近、ビールの味が分かるようになったらしく、

「パパ、やっぱドライやね!」

と、生意気なことを言った。

「いや、パパはやっぱりプレモルやな」

と、つい張り合ってしまった。

乾杯をする時、

「誕生日、おめでとう!」

と言ってみた。

いろんなことが頭をよぎり、たくさんの思い出が胸を駆け抜けて行った。

妻が亡くなってから今日まで、こうして元気に楽しく生きていられるのは、この子たちのおかげだなぁと思った。

辛いことも悲しい涙も、全部全て報われる気持ちがした。

「パパがもうちょいしっかりしてたらよかったなぁ!」

と、自虐を込めて笑うと、

「パパ、しっかりなんかしなくていいんじゃない?おれさ、例えば友達とかに話す時さ、うちの父親、いい会社に勤めてていい車乗っててねって話すより、おれの父ちゃんさ、また行方不明になって大変なんよ。まぁいつものことやけん、ふらっと帰ってくるやろ!そういう風に話せる方がなんかカッコいいていうか人間味があるっていうか、憧れるんだよね」

そう言ってカッコつけて笑ってくれた。


「似たもの親子」という言葉があるかどうか分からないけれど、この子は私と違って優しくて、私をそっと救ってくれて、きっとママに似たんだろうなと思った。

「しゅんもわかなちゃんも、いいところは全部ママに似て、ダメなところは全部パパに似たねぇ」

と、コーヒーを飲みながら母がしみじみ語っていたのを思い出した。


娘から電話があり、

「パパ、帰れんかったけど、誕生日のプレゼントリストを送るけん、財布と相談して決めてね!よろしく!」

「あ、おれも!」


しゅんがまだ生まれて間もない頃、熱を出して車が出せないほどの大雪の中、パパはママが照らす明かりの中を、お包みに巻いて毛布で包んで死に物狂いで走って病院に向かって薬をもらって来たんよと話すと、
「パパ、その話もう何回も聞いたよ!」
と言われたこと。

友達と福岡にライブに行って、大金の入った財布を無くして博多駅の周りで一夜を過ごしたしゅんの失敗談。

沖縄のパラセーリングで着地に失敗して大きな木に引っかかってしまったドジなわかなの話。

そんな何気の無い誕生日の笑い話、
天国の妻にも届いただろうか。

すってんころりんな毎日を。

祈りを込めて願った通り、
逞しく大きくなってくれた子供たちの姿を、
見てくれているだろうか。

きみが植えた小さな芽は、やがて大きな花を咲かせるだろう。

きみにも見えるだろうか。

そして笑ってくれるだろうか。

きみによく似た、可憐な花の凛々しい姿を。















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