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彼女たちの場合は

明確な目的があって、あるいは漠然とどこか遠くへ行きたくなって10代の男女が旅にでる-そんな物語をいくつも読んできた。

江國香織の『彼女たちの場合は』もそんなロードムービーだ。従姉妹である逸佳・17才と礼那・14才のふたりは「アメリカ西部が見たい」とニューヨークを飛び出す。たったふたりきりで。

あらすじを書いていて改めて平凡だと思う。以前、喜多川泰の『また、必ず会おうと誰もが言った』を読んだが(この本は素晴らしい)、主人公は男の子であった。『彼女たちの場合は』はその女の子版かと思ったし、実際、途中までは本当にそうだった。単行本にして472頁を江國さんがこうして使うことを意外にすら感じるほどに、普通の流れだと思いながら読んでいた。

しかし未成年だけの旅はそれほど長くは続かない。逸佳と礼那には旅の期限(資金)があり、現時点で可能な限りの旅の最果てに辿り着いたあと、ふたりは自らの足でニューヨークへと戻っていく。

わたしが思うに『彼女たちの場合は』の良さはこの帰り道でのやりとりにある。それは432頁あたりから始まる。

親子の場合

『彼女たちの場合は』は6人視点で進んでいく。逸佳と礼那、そしてふたりの両親。もちろんメインは逸佳と礼那であるけれど、ふたりの両親の視点も話の本質に厚みを加えている要素のひとつだ。

序盤はそれぞれの母親と父親がひとつの意見を持ち、“親と子”の対立が見られる。旅の目的を知らされていない上に、置き手紙がひとつ。携帯は電源が切られ連絡は一切取れず、唯一、安否を確認できるものは旅先から届く手紙のみ。怒る親と怒られるのを覚悟した子のよくある関係だ。

夫婦の場合

そうした親子の対立関係は(なぜか)次第に解けていき、いつの間にか“夫婦の場合”に変わっていく。心配し、怒っていたはずの妻は「娘が無事に帰ってきてくれればそれでいい。それよりも、もっと出来るだけ遠くへ」と願うようになる。そんな妻に対し夫はいつまでもイライラと待ち続け、娘を心配するそぶりなく今までと同じように毎日を送っている妻さえも“分からなく”なっていく。それは逸佳と礼那、どちらの夫婦間も同じである。

はじめは“ふたりの旅”だったはずが次第に家族への影響が出はじめ、“それぞれの旅”に少しずつ形を変えていった。

逸佳と礼那の場合

ふたりは正反対の性格をしている。内向的であまり笑わない逸佳と、外交的で好奇心に満ちている礼那。ふたりの対比はとてもマイルドに描かれていて、どちらを肯定することも、否定することもない。ニューヨークを出たふたりを旅先が静かに受け入れたように、ふたりの違いもあえて特筆するようなことではないのだ。

時に心の中で逸佳は礼那の行動を「またか」と思い、礼那は逸佳のしかめっ面を「どうして」と思ったりもするが、ふたりの間には互いを尊重する気持ちが明確に存在している。逸佳と礼那の良い関係性は、両親の(少し)破綻した関係性を思いださせ、読みながら無意識に対比してしまう自分がいる。

旅の往路と復路の場合

旅は、重要な意味を持たせられがちだ。「自分探しの旅」だったり「傷心の旅」だったり他になんでも。どこかに行く、つまり往路にこそ旅のエッセンスが詰まっているような気がしてしまう。実際、人によっては「往路道中でのハプニングは良い思い出になったし、現地の人の温かさは忘れられない」と言うだろう。もちろんそれも間違いではない。ただ『彼女たちの場合は』を読むと、旅の本質は復路に詰まっていると思えて仕方がないのだ。以下、それが表れた本文を引用する。

「うん、書いたし憶えてもいるんだけど、旅のあいだにあった出来事は、永遠に二人だけの秘密にするっていう約束があったでしょ」
「あれは、なんていうか、無駄な約束だったね」
「たとえばこの朝がどんなにすばらしいかっていうことはさ、いまここにいない誰かにあとから話しても、絶対わかってもらえないと思わない?」
「だって、誰かに話しても話さなくても関係なくて、なにもかも自動的に二人だけの秘密になっちゃうんだよ? すごくない?」
『彼女たちの場合は』452〜453頁

旅の記憶をただ自分の中で、静かに正しく発酵させられるかどうか。誰かに話すための旅ではなく、自分の中にとどめておきたい旅になったと復路で確信できるかどうか。

“彼女たちの場合は”そうすることができたのだから、“わたしの場合も”そんな旅がきっと出来るだろうと思えてくる。復路すら待ち遠しくなる旅が。

「〜の場合は」

タイトルになぞらえて各見出しにもそれぞれの場合を引っ張り出し書いてみたが、あらゆる対比を前に辿り着く答えは“どちらも正しい”。親子の関係も、夫婦の関係も、性質の違う従姉妹との関係も、旅への意味の持たせ方も。全部どちらも特定の視点から見れば正しいことなのだ。

だから「〜の場合は」という言葉を受け入れて使うことに対して寛容になっていいのかもしれない。全てのシーンでも“問題なく正しい”ことを選び取るには時間がかかりすぎる。「〜の場合は、」と始めて最後まで語りきる誠実さを誰しもが持っていると素敵だし、そう語る誰かをやはり「〜の場合は、」と肯定できるようになるといい。

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