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フォアグラと闘牛:PDLB

写真を撮る仕事をしていると、ありがたいことに見るものが増える。見た経験が増える。そして、それを見ていなかった頃の自分を毎回恥じることになる。

ある若者がアメリカでのフォアグラ規制について話していた。「あんなに残酷な食習慣は、規制されるのが当然だ」と言った。私もそう思う。そこで彼に聞いてみた。「でも、美味しいよね」

すると彼は驚くべきことに、「いえ、僕は一度も食べたことないです」と言ったのだ。何かの是非を判断するときに、それを体験として知らないということがあり得るのだろうか、と私は不思議に思った。つまり、彼はただの思考シミュレーションしかしていない。アフリカのある部族にはこういう風習があるそうなんですが、どう思いますか、という種類の思考をしているのだ。

もちろんアフリカの風習を文化的な観点で議論することにも意味はあるだろう。しかしフォアグラはどこでも食べられる。もしフォアグラを規制した方がいいと考えているのに、それをレストランで「食べてみる」という簡単な努力すらしないのはなぜか。

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以前マドリッドに行った時、ちょうどサン・イシドロ祭の時期だった。国内の優秀なマタドールが集まって闘牛をやるから見てみないかと言われた。怖いので見たくない気もしたのだが、そこはフォアグラと同じ。残酷なのか野蛮なのかは体験しないとわからない。

意外なことに歴史のある闘牛場でまず初めに感じたのは「社会の格差」だった。正面の一番いい席には貴族のような人々が陣取っている。きらびやかな服を着て登場したマタドールはその客席に向かって自分の帽子を投げ込む。「牛と戦って死ぬかもしれない。終わるまでの間、その帽子を預かっておいてくれ」ということだ。

面白いと思ったのは入場料のシステムで、強い太陽が照りつけるスペインでは、大きく分けて三種類の値段がある。暑い日向と、涼しい日陰の席の値段が違うのだ。もうひとつが「途中から日陰になる席」。裕福な人々は日陰に座り、エキサイトした庶民は野球で言えば外野席のような日向に座っている。

そして闘牛が始まる。闘牛士はチームになっていて、牛を弱らせて動きを止める数人が前座のようにあらわれ、最後に一発で息の根を止めるメインの闘牛士が出てくる。牛の骨は硬く、そこに剣がぶつかると刺さらない。首の後ろにあるほんの数センチの柔らかい場所に刺さなければ牛は即死しない。観客が観ているのは闘牛士のエレガントな身のこなしと、とどめの一撃の美しさである。それを失敗すると牛も苦しむし、格好も悪いのでブーイングが起きる。

そのポイントに正確に刺さると剣は心臓まで届く。牛は大量の血を吐いて、一瞬で動かなくなったところで拍手が起きる。牛は闘牛場の地下に運ばれて食肉へと加工される。闘牛士は客席から帽子を投げ返してもらい、一礼して去る。この格好良さには痺れた。ちなみに食肉加工をする場所の隣には、負傷した際の闘牛士の手術台も並んでいる。両者の命は平等だ。

自分が実際にそれを見るまで野蛮だとか動物虐待だと思っていたのは、ただの「無知」だとわかった。何も見ずに言っていたのだから。畑正憲さんも視察に来たことがあるらしい。闘牛を見終わって彼がどう言うのかを周囲の人は緊張して待っていたが、「これは素晴らしい文化だ」と感激して言ったそうだ。

フォアグラの話をしていた若者に足りないのは好奇心で、そこに「知的」という言葉を足せればもっといい。なぜヨーロッパにフォアグラという食べ物が生まれたのか、それは美味しいのか、そうではないのか、では誰が料理したフォアグラが美味しいのか、そのすべての情報分析力はそれまでに自分が行動して得た知識にかかっている。

北極点に立ってから北極のことを語れ、などとは言わない。それほど困難ではない体験ですら試してみないのは、ただの「怠惰」である。百歩譲ってその怠惰を認めるなら、その人はフォアグラ規制について沈黙を守らなくてはならない。

この闘牛の話は、私がマドリッドで体験したことで、だからこうして書くことができる。もし見ずに書いていたらどれほど間違ったことを言っていたか、そう考えると恐ろしくなる。

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