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ヒリヒリしないと:写真の部屋

写真は料理と重なる部分が多いので、ついその喩えを使ってしまいます。素材を吟味して探し、技術を使って調理して、皿に盛り付ける、最初から最後まで似ています。

料理を作る技術のベースメントは、それまで自分が食べてきたものによりますから、美味しいものを食べた経験がない人が素晴らしい料理を作ることはあり得ないと思っています。写真も同じです。シェフが舌を鍛えるように、写真家の眼が鍛えられていないと、自分が撮った写真がいいかどうかがわからないはずです。

手垢のついた「インプットとアウトプットの問題」になりますが、日々見ているものの質は自分ではあまり客観的に判断がつかないので、できるだけ方向性やジャンルが違うものを毛嫌いせずに見てみることをお薦めします。写真展や写真集は完成品の幕の内弁当のように思いがちですが、そうではありません。「私はこの手のお弁当は嫌いだからいらない」と全体を否定してしまうのは勿体ないことで、片隅にあるヒジキとか松前漬けの味などに、関係がなさそうに見えても何か自分にとってのヒントがあるかもしれないからです。

この、ジャンルの完全なパッケージ感から自由になると、写真のほんの一部からでも有意義な情報を受け取れるようになります。そうでないと特殊な趣味や嗜好が生み出す狭い表現に凝り固まって客観性を失う危険があります。

たとえば!

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写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。