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カードを切る日:Anizine(無料記事)

33歳の時に10年勤めた広告プロダクションを辞め、CMディレクターのサノ☆と一緒に渋谷に事務所を作った。俺はその頃CMやテレビ番組の仕事をしていたんだけど、演出という職種はほとんど事務所のデスクでの作業がない。コンテなんてカフェでも家でも描けるし、打ち合わせは広告代理店かプロダクション、撮影や編集でほとんど外にいる。だから事務所はただ皆が集まる遊び場だった。

サノ☆との音楽性の違いで離脱した後、線路を挟んだ明治通り沿いに新しい事務所をCMディレクターの平林監督とふたりで作った。それが2000年くらいのこと。ここでも平林監督と俺、そこに集まるたくさんの人々と、ただただ無駄話をして過ごしていた。あれがもう20年前だとは信じられないが、「デザインのことが知りたいんです」と言って遊びに来た高校生が、今では大きな広告プロダクションの偉い人になっていたりする。

最近もクライアントの人と話していたら、昔、事務所に遊びに行ったことがありますと言われて驚いた。ソーシャルメディアが始まるか始まらないかの時期を俺たちはインターネットとともに過ごしてきた。ネットの世界はいわゆるアーリーアダプターだけだったから今のようにギスギスしていなくて、誰かが面白いことを言うとそこにゆるやかなコミュニティができあがっていく理想の遊び場だった。

編集・ゲームクリエイターの伊藤ガビンさん、ミュージシャンの山口優さん、イラストレーターの寺田克也さんと俺が、編集者の船田戦闘機さんによって集められ、「昭和38年組」(歳は同じだけど俺だけ39年)という名前で色々とおかしなことをした。もしあれが今だったらYouTubeチャンネルをやっていたんじゃないかと思う。この頃からネットの中で知り合いがたくさん増えて、現実に人と会うこととリンクし始めた。

40歳になってなぜか写真を撮るようになり、今に至る。写真の仕事はとにかくモノが増える。紙だの機材だので仕事場があふれてきて人が呼べるような状態ではなくなった。俺は綺麗好きなんだけど片付けるのが嫌いだ。そこで、20年間過ごしたこの仕事場と自分の環境をリセットすることにした。

ここを作った当時はとにかくオシャレな仕事場を競い合っていたようなバブルの尻尾の時代だった。平林監督と俺はそれに反発していかにダサい場所を作るかをコンセプトにしたと言えば聞こえはいいが、努力なしにナチュラルにダサい事務所になった。

時代は20年間で大きく変わった。渋谷と原宿の中間という土地も以前とは変化したし、そこで自分が感じられるカルチャーも様変わりした。千原徹也さんの「れもんらいふ」には、俺たちが仕事をし始めた頃のよき時代を感じている。ああいう場所が当時の理想だったなあと思う。

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ある人が、自分の日常が手詰まりになったときの話をしてくれた。そのときに印象的だった言葉が「カードを切る」というものだ。俺はまあまあ生きて行かれる程度の手を温存していたんだけど、この辺で色々なカードを切って行こうと思った。それの第一歩が仕事場の引っ越しで、多くのことをシャッフルしていくことになる。

今は時間との戦いで、5年後にしておきたいことは5年前からの準備が必要だからサボってはいられない。俺がいつも「努力しない若者は伸びないし、過去の業績ばかり語るジジイは現場から消え去るのみ」と言っているのは、すべて自分に向けての言葉だ。俺が写真を始めてからはまだ15年くらい。つまり最初から写真をやっていた人が40代になるかならないかの「写真年齢」ということだ。だからまだまだその年代と同じだけの努力をするし、もちろん偉いとか、自分の写真は素晴らしいなんて思ったことは一度もない。

誰にでも勧められる方法じゃないけど「職種を変える」という乱暴なやり方はとても効果があって、それまでのキャリアを「やさしい気持ち」でチャラにすると、また新鮮な初心者に戻ることができる。ある程度まで洗練された技術を微妙に積み上げていく苦しさとは違って、劇的で荒削りな進歩が毎日ハッキリと見える楽しさと言ったらない。俺は5年後、文章を書く初心者になっているかもしれないし、陶芸家の丁稚になっているかもしれない。

年に5回くらいファーストクラスで外国に旅行に行けて、毎日美味しいモノが食べられて、欲しいモノが何でも買えれば贅沢は言わない。それを稼ぐための仕事なんて、何をしていてもいいのだ。


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Anizine

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。