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プラットフォームと医療行為:PDLB

今、私が書いた文章としてのコンテンツを載せているのは、Facebook、Twitter、noteなんですが、それぞれの役割は違っています。140文字しか書くことができないTwitterには「長文をnoteにアップしたこと」を知らせるためのリンクを張り、有料記事の場合は無料で読めるところまでをFacebookに転載して、noteへリンクしています。

このように役割が違う接触先を使い分けることでそれぞれの読者に文章を届けていますが、長い間やっているとわかってくることがあります。私の経験とスキルは元々「広告」にあります。誰も知らない新製品や新サービスを「買ってくれる誰かにリンクさせる」仕事です。

コンテンツは単独では成り立たないので、それらを置く適切なプラットフォームの選択が必要です。(ソーシャルメディアとプラットフォームは厳密に言えば違うものですが、ここでは情報の運搬という意味で同列に扱います)。

企業あるいは個人が作るコンテンツは、どこかに流通させることで意味を持ちます。旧来型では新聞や雑誌、テレビやラジオにはCMというコンテンツがありました。「コンテンツって番組のことじゃないの」と不思議に思われるかもしれませんが、スポンサードとは、コンテンツ制作予算をスポンサーが媒体料として払うことにより、テレビ局が番組制作を請け負うことです。

特にテレビは(メディア=媒介という語義のような)情報の運搬というポジションから、自らが情報を発信しているのだ、と存在を見誤る方向に進んできました。つまり「時代を作っているのは他ならぬ我々である」と、情報の運搬業者であるテレビ局が自己言及をし始めました。1980年代のフジテレビなどがわかりやすい例だと思います。

「世の中の流行はメディアが作る」と思っていた時代は、ネットの登場で終わっています。情報というのは受け手の選択によって価値が決まりますから、どこに自分の欲しい情報があるのかを無意識に近い敏感さで察知します。新聞にはない、雑誌にもテレビにもない、という判断がネットの登場に由来していることには誰も異論がないでしょう。

放送時間が来るまでテレビやラジオの前で家族全員で座って待つ、1953年のような行動をいまどき誰がするでしょうか。自分の欲しい情報が好きなときに好きなだけ国境すら越えて手に入るネットだけがどんどん進化して、ニュースだけではなく、AmazonやNetflixは、リアルな買い物、映画・番組コンテンツまでを牛耳ることになりました。

インターネットの中にはテレビ局員のような人は誰もいません。

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ネットには大小さまざま、玉石混淆のコンテンツメーカーがそれぞれ持ち寄った、膨大で断片的な情報が編集されずに渦巻いているだけです。その中から自分の欲しい情報を探すのが困難になった頃、他人の情報を自前の弁当箱に詰める業態(キュレーション・メディア)が生まれます。音楽で言えばDJのような立場かもしれません。オリジナルの音楽を作ることではなくて、今あなたはこんな音楽を聴きたい気分ではないですか、と提案する仕事です。

ここでわかるのは「コンテンツメイクと同じ比重をプラットフォームが持つようになった」ということです。学習しないプラットフォームは、またテレビと同じ轍を踏むことになります。プラットフォームの自意識の肥大化です。自分が作っていないコンテンツを「流通させること」が仕事であるのに、弁当箱であるみずからの存在理由を見誤る結果を生んでいるのです。

さて、何を言っているのかがわかった人だけがこの先に進んでください。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。