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J.C.Penneyとシナプス:PDLB

今回の無料記事では、「自分というコンテンツの価値は何か」を考えてみる。定期購読マガジンPDLBではこういうことを書いている。

自分がしていること(商品)を陳列している店頭ディスプレイがソーシャルメディアだと仮定して眺めてみるとわかりやすい。いくら自分が「バーグドルフ・グッドマン」のオーナーであるかのように振る舞ったとしても、並んでいる品物が「J.C.Penney」並みだったら、誰もそこでとっておきの買い物はしない。

もちろん「J.C.Penney」でする普段の買い物は悪くはない。そこには上下や優劣とは違う大きい精神的な隔たりがあるというだけだ。だからそれを「格差」と単純に言ってしまうと身も蓋もないわけで、シチュエーションの差や目的の違いだと言っていい。富裕層が集まるパーティで女性の服を褒めるとき、「素敵な服だね。J.C.Penney?」と聞けばそれは立派なジョークになる。反対に「Roy Rogers」に集まった若者がその名前を入れ替えても同様にジョークになる。つまり、違うのだ。

韓国映画の「パラサイト」や「ハウスメイド」が描く世界には格差が交差してしまう悲哀がある。どちらにもある落ち度が、互いを知らないことだ。

今言った例は、買い物はせずともバーグドルフ・グッドマンに足を踏み入れ、J.C.Penneyで3枚組のソックスを買い、Roy Rogersで食事をし、パラサイトとハウスメイドを観た経験があって、初めて実感することができる。

そのどちらかの情報しかないと、判断は機能しなくなる。消費のトレンドを解析する人が国内外問わず、つねに新しいものやコンセプトを体験しに出かけているのには理由がある。

「図書館が自分の家の本棚より小さかったら無意味」だからだ。

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ひとつひとつは無関係に見えているものでも、神経細胞は互いに繋がりながら連結した複雑な情報になっていく。だから最初の細胞はできるだけ多くストックしておく必要があるのだ。それもネットの情報などではなく、自分の目で。もしネットですべての情報が手に入るなら、美術館も図書館も不要になる。

その意味で、自分が持っている情報や体験を「水増ししていないか」には慎重になる必要がある。神経繊維とシナプスは自前だが、細胞は捏造できないから、細胞の数は定期的に確認してメンテナンスをする必要がある。簡単な方法は、それぞれの分野で自分よりも博識な人と話すことだ。人と話していると知らない言葉や考え方が出てくることがあるはず。それが今持っている知識の「欠けている細胞」だと感じたとすれば、勉強する分野のナビゲーションをしてもらったことになる。

そこで勉強し続けると、ある程度粗い「知識の編み目」ができあがる。よくないのは一部分だけ極端に編み目が細かくなることで、学者などの専門家ならそれでもいいが、それ以外のジェネラルな職種だと不均衡な編み目を指摘されるマイナスになる。

ある程度の知識の編み目ができると細胞同士は「自動的な推論」の構造を持つようになる。簡単な例で言えば、西欧と東欧と北欧の文化の違いを論じるとき、それぞれにいくつのサンプルを持っているかが前提条件になる。

オーストリアではこうだった。ドイツではこうだった。スイスではこうだった。さて、そこから導き出せるものは何か。この三つの国は共通した「ドイツ語」というファクターがある。言語は文化だからその精神性を探る手がかりになるかもしれない。さらにスイスにはフランス語圏、イタリア語圏があるので、そこは除外されるのかもしれない。

では戦争によって分断された東欧という人工的な概念は、それまでの伝統的なヨーロッパの文化にどう影響しているのか。我々は大戦前の東欧を知ることはできず、社会主義的なベールをかぶった状態と、民主化した後の現在からしか情報を読み取れない。

北欧は多くの部分で似通ってはいるが、それぞれのあり方は大きく違っている。

さて、ここでわかることがあるだろう。私が今までに訪れたヨーロッパの国は15くらい、都市で言えば30程度で、北欧の国にはトランジット以外で一度も降り立ったことがない。だから最後の説明だけは極端に短い。いくらネットでニュース記事などを読もうとも、北欧の編み目は粗すぎて何も語るべきことがないということだ。

世界中のあらゆる都市や文化を知ることが不可能なことはわかっている。ただ誤解してはいけないのが、「自分が語るべきなのはどこまでか」という部分で、それが知識や体験の質と品揃えであり、最初のバーグドルフの例に戻ることになる。誰でもアクセスできるネットの情報に価値がないことはもうわかっていて、情報を接続・連動させるシナプスの性能に真価が問われる。それを「語るべき人の価値」と呼んでもいい。

アメリカ文学について語ってもらうならあの人だし、ブリティッシュロックならあの人、イタリアのサッカーだったらあの人、と人選されるようにその分野の詳細な情報と、情報の二次加工シナプスを持った「極端に編み目の細かい人」はそれほど多くない。だからオファーは集中する。

広告の分野には「自主プレゼンテーション」というのがある。たとえばAというクライアントがBという広告代理店に仕事を依頼して、継続的なマス広告を打っているとする。その仕事を手に入れたいCという別の広告代理店が、Aに対して(依頼されていない)自主的なプレゼンテーションをする、という意味の専門用語だ。

個人的な態度で言えば、私はずっと広告の自主プレゼンテーションには参加しないことにしてきた。なぜかと言えばそれまでの経緯がわからないのと、求められていない場所に「御用聞き」であると言って参加しても、クライアントからの対等な敬意が得られないからだ。もちろんAとBが思いもよらなかった斬新な提案をCがなし得たという奇跡的な事例もあっただろう。しかしほとんどの場合が、恋人の横取りのような扱いを受ける。

長い目で見てそれより効率がいいのは、自分の編み目を細かくすることだ。

最近よく「私はこんなことを考えているのだが、どこかの企業が私のアイデアを採用してくれないだろうか」というポストをソーシャルメディアで見ることがある。はっきり言って、それはないと言っていいだろう。フロックはあっても定期的にはなく、定期的に起こり得ないことはビジネスではない。

朝から晩までそのことだけを考えている人に向かって、たまたまそれを外から見て、問題点とその解決方法を発見した、と発言するのがいかに厚顔で愚鈍なことかを理解した方がいい。

自分で考えなくても、あなたの店の前に立ち止まった人が、その店がバーグドルフかJ.C.Penneyなのかを判断してくれるから安心して待っていればいい。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。