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ロジックとエモーション:Anizine(無料記事)

昨夜は高円寺のスタジオで恒例の生配信でした。いつも思うのですが、みんな様々なことで悩み、それは他人からしたら取るに足りないことなのかもしれませんが、本人にとっては命をも揺るがすほどの切実な問題なのだと感じます。それについて私のようにルーズな人間が無責任に発言してもいいのかと毎回考え込んでしまいます。

世界はすべてが相対的で「作用と反作用」が釣り合っているものだと思います。自分がマイナスだと思っている部分があるからこそ生まれている別のプラス面があるんじゃないかということです。ガサツと鷹揚、神経質と繊細の関係のように。表面にあらわれてくるものの描写の違いなのかもしれません。「あの人はおおらかだ」と感じる人もいれば「あの人ってガサツね」とまったく同じ部分をさして語られることもあるでしょう。ですからあまりそこを考え込んでも仕方ないのだと思います。

私はロジカルではありませんが、ロジカルであろうとする欲求はかなり強く持っていてそれを他人にも強いるという欠点があります。「AがBになるという前提なら、Cという行動を取るあなたは論理的におかしい」と、つい言いたくなってしまうのです。でもABCの論理構造は人によって違いますから、正解などありません。ロジカルの逆のエモーショナルな部分に対してもロジックは攻撃します。「あなたは愛や平和や幸福というシュガーコートされた言葉ばかりを使うけれど、それは誰も否定できない言葉を選んでいるし、証明もできない『神秘』に逃げているだけじゃないか」と思うのです。

悪い言葉で「お花畑」というのがあります。世界で戦争が起きていても貧困や政治の腐敗があっても、現実から目を背けて自分さえハッピーならそれでいいという人々がそう呼ばれます。ネガティブなできごとにはスイッチを切って、なかったことにする方法です。よくあるシーンで、テレビを観ている裕福な家族が「ウクライナは大変ね。アフリカの飢饉も、環境破壊も悲しいわ。さて、お肉が焼けたからディナーにしましょう」というのがあります。この家族に罪はないのですが、重要なのはそのゲージの針はつねに揺れ動く、という自覚です。

自分が年齢を重ねるほど、何も進歩していないことに愕然とします。どうでもいいことばかりしている。つまらない写真ばかり撮っている。誰の役にも立っていない。私はウクライナを幸福にはできませんし、環境破壊を止めることもできません。無力感ばかりです。でも、SDGsのバッジをジャケットにつけているからといって、覚醒した人だとも思えないのです。

自分が世界を見つめる目はつねに揺らいでいる、ということだけはかろうじて理解しているので、何が正しいとか、誰が間違っているとかいうことをできるだけ決めつけないようにするくらいで精一杯です。


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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。