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何か成し遂げたいことがあるとしたら、毎日の生活をただ漫然と過ごしていては時間が足りるはずがない。私たちの1日に与えられているのは、世界中の全員が同じ、24時間だ。

いかに普段の日常を「訓練」に変えるか。通勤時間に本を読む、英会話の音声コンテンツを聴く、それでもいいが、まず、どんなことでもできるだけ源流に遡ってみる。つまり長い通勤時間は妥当なのか、そもそも通勤する必要はあるのか、などだ。

これからは確実に「拠点を必要としないスタイル」が進むだろう。どこにいても仕事はできるようになる。宇都宮にいても虎ノ門にいても同じことができるはず。家を買うなどという長い目で見るべき計画なら、今働いている会社を起点に短絡的に生活を組み立てない方がいい。それはすぐに変化してしまう。

生活を訓練に変える方法は、探せばいくらでもある。たとえば毎日自分が考えたり話している言葉をコンテンツに変えるという例で考えてみる。

YouTuberたちは、なんということのない日常的なおしゃべりが莫大な金額を稼ぎ出すコンテンツになることを教えてくれた。誰にでも同じことができるとは限らないが。しかし「コンテンツになる」ことを証明してくれたことは紛れもない事実だ。そこですべきことは何かというと、自分の口から出ていく言葉や、書いていることに価値があるかを見極めること。

これさえできれば、マネタイズをすることもできるし、同時にしないことも選択できる。ダメなのはその客観的な価値が自分で「わかっていない」状態だ。

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私は今月末に『ロバート・ツルッパゲとの対話』という本を出すことになったが、これなどはまったく価値がないと思っていたSNSに書いていた文章を売り物にしようと言ってくれた編集者があってこそ。謙虚というのとも少し違うが、自分ではそれが本というプロダクトになるとは夢にも思っていなかった。

こうしてnoteで有料の定期購読マガジンを運営しているのも、自分の考えに価値があるかどうかの実験や検証であり、もし定期購読マガジンに数人の購読者だけしか集まらなかったら、すぐにやめていただろうと思う。

自分の考えをコンテンツにするためにはどうすればいいか。最初に書いた抽象的な生活の中の訓練として提案したいのは、置かれた環境を第三者的に過ごしてみる、というアイデア。コンテンツの価値は自分が言いたいことではなく、他人が受け取りたいものかどうかで決まるからだ。これを一度試して欲しい。

会社に気に入らない上司がいる。同僚がいる。横柄な取引先がいる。よく行く店に気に入らない人がいる。などのすべてを、「自分に降りかかる災難」としてではなく、客観的な第三者になって眺めてみるのだ。

Aさんというあなたは、<私は上司に怒られている>と思うのではなく、<私はAさんという人が上司に怒られているのを見ている>と思ってみる。

これを「思う」だけではなくて、話すこと(描写)にも応用する。ここがとても大事なのだ。

「私はヤマダとイシイに業務の指示をしたのですが、彼らの連絡ミスで、取引先のオカベさんからクレームが来ました」

こういうことを仕事帰りの酒の席などで愚痴として言っていると、仕事は苦痛で退屈になる。ではどうすればいいだろう。次のように言い直してみよう。

「部下に業務連絡をしても、連絡ミスで取引先のクレームにつながることがありますね」

さっきと何が違うかと言えば、固有名詞が全部なくなっている。つまり、自分の身に降りかかった固有のトラブルではなく、出来事が一般論に置き換えられている。起きてしまった失態はどうしようもないので、現実的なリカバーはするべきだが、そのときに固有名詞を使った描写や、責任の追及は無駄である、ということだ。

自分に落ち度はないと言いたい自己弁護のバイアスもかかるだろうし、結果として部下を貶めたり、取引先の態度を批判していることにも繋がりかねない。それらは建設的でないから、もしその出来事を言いたかったら、固有名詞を外して一般化してしまえばいい。

とても簡単なことを言っているようだが、これができれば仕事への不満は大きく減らせるので、試してみて欲しい。それとはやや意味が違うが、第三者の立場で話す「間接話法」が使えないのは幼稚である、ということも知っておいて欲しい。

そのときの情景を台詞で伝える、演劇のような直接話法は、子どもの話し方だ。これは言語的な要因だとは言えないはずだが、日本人全体にはびこる幼稚さかもしれず、ロジカルな議論ができないことの原因でもある。テレビのインタビューを見るとそれがよくわかる。

「私がタイムズスクウェアを通りかかったとき、銃声が聞こえました。数人の覆面をした男たちが銃を乱射していたようでした。数人の男女が血を流して倒れているのが見えました」

たとえば、事件を目撃したアメリカ人がこういう風に話すのを聞いたことがあると思う。

「あそこにいたら、バーンという音がして、キャーッという声が聞こえたからみんな逃げて、すごかった」

こういう日本人の証言も聞いたことがあると思う。この差は何か。それは「わからない人にわからせたい情報を伝える必要がある」という認知能力の欠如で、メタ認知の領域にすら到達していない、ごく単純な話だ。

「あそこ」とはどこを指しているのか。「バーン」「キャー」という擬音は目撃していない他人に状況を伝える情報として有効なのか。どこへ逃げたのか、何がすごかったのか。これは事件を目撃した自分の感情を言っているに過ぎない。つまり、こういった状況を論理的に解説する訓練を日本人はしていないのだと言える。

他人が必要とする、価値のあるコンテンツとは何か、このヒントだけでも、自分に何かができると思う人はいるはずだ。そういう人のために「PDLB」はある。

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