angelspace
原初舞踏、舞踏、バリ舞踏など、身体表現、
夢を見た時の記録と考察
月欠損についてという事も含めて、あれこれ書くことが多くなったので、マガジン増設しました。
星、占星術関連
お面を舞台の上で外すということは、昔からいつかやりたいと思っていたことの一つでした。 それを今回の踊りの中で実際にやってみたわけですが、それは思っていた以上に意味のあることだったと思います。 お面を外すことで、世界は全く変わります。物理的にも、お面をつけて踊るということは、なかなか大変なところがあるのですが、これはあまり知られていないことかもしれません。 まず何よりもお面をつけるとほとんど見えません。明かりの具合によっては全てがホワイトアウトになったり、ブラックアウトに
昨日の原初舞踏の稽古の記録としてこれを書いておこうと思います。 昨日の稽古の前に、2週間前(前回)の稽古の時に満開の桜の下、地面が桜の絨毯になっていた公園に寄ってみました。 ここを発見した時には、まさに息を飲むような思いで、その空間の凄さに圧倒されたのですが、稽古の後、何人かで再び訪れた時には、ひとりでに屋外での床稽古みたいになって、みんな次々と地面に寝転がり始めたのがとても面白かったです。 ところが2週間後のこの日は、もちろんすでに桜は終わっていて、濃い緑の空間になっ
このFacebookのリール動画を見て、思わず書き始めたら、長くなってしまったので、こちらにまとめておくことにします。特にトランスについて感じたことですね。 https://www.facebook.com/share/r/A5ejt5VD8EyxQnuW/?mibextid=UalRPS どこの国かはわからないけれど、きっとバリ島のチャロナランと同じようなメカニズムかなと思われます。民族を問わず、時代を超えて、世界中の全ての地域にこのようなガス抜き装置と言えるような儀式
仮面を使っての稽古をしました。最上さんもこの稽古を行うにあたっては大変ご苦労されたようで、Xのポストでも何度もむずかしいとおっしゃっていました。しかし蓋を開けてみると、とても興味深い稽古でありましたし、仮面の本質的な意味を掘り下げるものとなったと思います。 そのための核心的な所作を含み持っていて、そのまま舞台にあげても良いのではないかと思うくらいに素晴らしい稽古のレジュメだったと思います。 僕自身、実際稽古の中での手応えはとても大きかったですし、参加者の多くがそう感じたの
今日も最上さんのポストの引用から書き始めます。 本当にそうだと思う。結局、押し潰されそうな強度にどう向き合うかということが、生きることだと思うし、そこをエポケーして、きれい事を言っていても何も起こらない。 ただし、誰にとってもそこに触れることは簡単ではないし、向き合ったとしてもそれに耐えられるとも限らない。しかし、それでもそこに向き合おうとした経験を通して、人は一皮ずつ剥けていくのだろう。だからこそ、焦らず、忍耐強く待つことも大事なことだと思う。 強度に触れる時、そこに
踊りの中で「想起」が起こるということについて、今朝のポストで最上さんが書かれていました。少し長いけどスクリーンショットで引用します。 特に前回の稽古の中では古い絹の着物を使ったということもあり、参加した多くの人がそれぞれに意味のある体験をしたように思います。 思い返せば、4年前の床稽古の時に、母が出てきて、さめざめと泣いたということを覚えていますし、折に触れ、様々な過去に縁のあった人が立ち現れて、その都度ひとつひとつの過去の出会いに向き合うということが、稽古の中での経験と
こちらはFacebookでシェアされていたライブ動画です。チョップリンさんという舞踏家の方が主催するサラスワティという踊りのグループの記念イベントというか、発表会というようなものだったようです。 https://www.facebook.com/share/v/AvEH9SeSx2XSVs3A/?mibextid=WC7FNe バリらしさがてんこ盛りの動画で、ついつい惹き込まれて、全部、見てしまいました。踊りは19:30あたりから始まります。 花撒きの踊りがあり、唄があ
今日の発見は、ポリスの「EVERY BREATH YOU TAKE」邦題では「見つめていたい」に関してのこと。 スティング自身がストーカーの曲と認めていたりして、歌詞が怖いということで有名な曲ですが、これって神が歌ってるとしたら、まさに宗教的な単独者の世界観を表してるのではないかと思い、なんだか感動してしまったのです。 日本的な世界観で言うならば、お天道様はすべて見ているということでもありますからね。そう思って聴いていると怖さは消えていきました。 ハイアーセルフは全部見
ふと、見かけたカスタネダの言葉。 というか、これはドン•ファンがカスタネダに語った言葉だと思うけれど、この心境は本当に踊りに似ていると思う。 少なくとも僕にとってはずっと、踊るとはそういうことだった。とくに、戦士の踊り(バリス)から始まったということも関係あるかもしれない。 死と隣り合わせというのは、日常においても常にそうで、そのような生のエッジみたいなところで生きてきた人というのは、普通の人生には興味が持てなくて、気がついたらドン•ファンのような変人を探していたりする
最上さんのポストを見ながら、今日考えたこと。大事なことだと思うので、書き残しておきます。 踊りを目的とするからこそブレイクスルーが起こり得るのであって、セラピーを目的としたら、その分、淀みが出るのかも知れない。 目的は具体的にして、はるか先におく方が良いということなのだろう。あくまでも、踊りのための稽古だからこそ、そこに強度が生まれるということか。 >冷静な計算が必要なのは、個人感情ではない「純粋感情」で踊るため そこに至るために稽古の中で感情を燃やして、削ぎ落として
この写真は稽古の最後に行った、布を使ってのフリーダンスの時のもの。動画からキャプチャーしたので、画像は荒いです。 まるで腹を割いて内臓を引っ張り出しているような感覚になった。腹わたも含めて、全てを曝け出す時が来たのだと思うと、とめどなく涙がこぼれてきた。 新年会で仮面を外し、鎧を外し、腹を割り、この前の稽古では上着を脱いだのだけれど、どんどん隠し事がなくなっていくということの象徴のような気がしている。 本当の自分を曝け出していく時。今年はそういう年なのかもしれない。
昨日の原初舞踏の定例稽古の中で、スローで上着を脱ぐという稽古をしました。4年前にも、日本の着物を羽織り、その着物をゆっくりと脱いでいくということをやったのですが、それを洋服でやるというものでした。 4年前のその稽古のことは、今でも鮮明に覚えていて、いつかまたやりたいと思っていたものでしたから、稽古の最初にその話を聞いた時には、ついにきたという気持ちになりました。 そのくらい4年前の着物を脱ぐスローは印象に残っています。服を脱ぐということは、普段当たり前に毎日皆がしている行
前回の稽古では布を使った。絹の布を手にしたフリーダンスで、何かが起こってしまって、終わった時には放心状態だった。まるで夢のようで、何があったのか思い出せないという感じで、少し時間を置いてから、断片的に思い出されてくるというような状態だった。 そこで起こったことを言葉に残しておきたいと思いながら、なかなか書き出すことができなかったのは、やはり記憶が曖昧だったからというのもある。ただただすごい嵐が通り過ぎて、放心状態が続いていて、どこから手をつけていいのかわからないというのと似
noteも書き始めて1年半を超えました。最初は占星術のために始めた様なところがありましたが、今は原初舞踏の話が多いです。 原初舞踏のマガジンを開いてみると、すでに102個の記事になっていました。初期の頃の記事にも目を通してみると、今更ながらああと思うものがあって、そろそろとそのあたりのことを振り返ってみるといいのかも知れないと思いました。 これから時々、過去の自分の記事を再シェアして、今の感覚で振り返ってみるというようなことも始めてみようかと思います。 手始めとして、こ
さきほど、こちらの動画を見ました。 「2024年はどんな年、ゴジラとヌーソロジー」というタイトル以上に、「ヌーソロジーはゴジラだ!」というサムネの言葉が目に飛び込んできました。そして、このタイトル、激しく同意します。 昨年末にゴジラマイナスワンを映画館で見たときに、人間ドラマが余計だと思ったのを覚えています。シン・ゴジラの時もそうでしたが、ゴジラが町を破壊し、人間の文明を蹂躙していくところを、ずっと撮り続けた映画があったならば、そういうゴジラこそ見たいというのが、僕の感想
あらためて、今日の最上さんの踊りの感想を書いてみたい。言葉にすることが難しいことをあえて言葉にするという挑戦でもある。 割と早めに会場に着いたので、開場とともに中に入り、一番後ろの席に座りながら、徐々に人が増えていくのを見ていたのだけれど、踊りを観るために集まった人たちが、舞台を囲むように座っていて、皆、観る気満々という雰囲気ができていって、その皆の観る態度によって出来上がった空気自体が、すでに何か特別な場をしつらえていたような気がする。 そこにすっと現れて踊り始めた最上