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雑記|言葉、文章にすること。

みなさん、こんにちは。本日もアクセスありがとうございます。

ふと、思い立ったので文章を書いてみます。

文章には、読みやすい文章、ちょっとわかりにくいなと感じる文章、長い文章、短い文章、読んでいて心がスッと軽くなるような文章、読んでいてちょっとツラくなってしまうような文章などなど、、いろいろあるなぁと思います。

そして、その文章がうまれるまでのプロセスには、必ずその言葉を紡いでいる人がいます。いや、生成AIがこれだけ話題になっているので、必ずは言いすぎましたね。。

そういえば、今日で私がnoteを書き始めてからちょうど1年みたいです。

この1年を振り返ってみると、前半(5月~10月)は日々の忙しさに忙殺されてほとんどnoteを更新していなかったのですが、昨年の11月からは最低月に1本出すようになりました。このことは、それまで自分のことを全くといっていいほど発信(表現)してこなかった自分にとって、大きな変化だったかもしれません。

1年間、いや正確には半年間、文章を書き続けてみて気づいたことがいくつかあります。

まず私は、文章にすること自体に苦はないということ。

そして、なんだんかんだ素直?な自分の気持ちが綴れているような気がすること。

でも、本当に本当に心の奥底で「書きたい」と思っていることが、なかなか言葉にならないこと。素直な自分が綴れているというところからは矛盾するかもしれないけれど。

noteを始めた当初は、もっと自分の中にあるいわゆる”思想”みたいなものを書きたいなと思っていました。「私はこの概念に対してこんなことを考えていて、今後もそれにこういう態度で向き合っていきたいんだ!」みたいな。

例えば、私が書きたかったことって
・私は日本人であり、韓国人である。(って思いたい話)
・(↑に関連して) ”地元の人”と”よそもの”。
(とは?という話)
・訪れる、暮らす、住む。
(とは?という話)
・音楽を介して、人が、心が、つながっていく。

とか、そんなこと。プロフィールにも「境界をあいまいにすることの探究」とか書いてみていますが、これについても本当は文章にするつもりでした。

でも、これまで書いたnoteの中に、それが見える文章ってありそうでないんですよね。少し顔を出してはいたけど、「詳しくはまた今度」みたいな感じで濁してしまっている。大体が”日記”どまり。あるいは感想文みたいな。

そして、最後には”幸せ”とか”大切なもの”とか、そういうありきたりで、曖昧で、でもどこか標準化された言葉に収束していってしまう。。

以前にも、これから書くnoteについてのメモを残したんですが、そこに箇条書きしておいたものはほとんど書けていないですね。noteの下書きにはそれっぽい題名のものがたくさん残っています。たくさん。でも筆が全く進んでない

なんでなんだろうってずっと考えていたら、私が抱えている色々な想いが、誰にも誤解されたくないものだからではないかと、そんな考えに落ち着きました。それがたとえ、一度も会ったことがなくて、これから一度も会うことがない人だとしても。

ここで綴る文章たちは、不特定多数の方が見てくださる文章です。そして、私の文章は、それを読んでくださる方の解釈が加わることによって始めて作品になる。

だからこそ、一方的な発信の中では語れないこと、どうにも言葉にならないことがあるんだと。言い訳がましいけど、率直にそう思います。でも、内に秘めている分、1対1でキャッチボールできる場ではめちゃくちゃ語るかもしれないけど。

あと、ひとつ言えるのは、私のnoteの文章は、あまり読む人のこととか考えられていないし、あくまでも自分の中にいる複数の人格の中の1人が、自分の中にいる他の人格たちに語りかけている文章でしかないんですよね。

だから、いつも自分が読み返す前提で文章を書いているなと。それも誰かにつらつらと喋るように。別に意識していたわけではないけれど、今思えばそうだなと腑に落ちる部分があるんです。

自分で読み返しながら「なんか言葉が軽いな〜。」と思うこともあるし、「すげー真面目。」って引いてる自分がいたり、「かなり素直に思いの丈を書いたね。」って労いの言葉をかけている自分もいたりするんですよね。

ここから解釈できることとしては、私はこの”文章にする”ということを通して、自分自身と対話したかったんじゃないかなということです。カウンセリング日記なんかがそうだなと思います。たまに読み返すと、「何分かったようなこと言ってるんだろう、この子。」みたいな気持ちになる時も正直あります。とはいえ、救われるときもある。

私は、今まで自分の過去に対して幾度となく解釈を加えてきたと思っていますが、それって素直に自分のことをもっと知りたいからだったんじゃないかなと思うんです。つまり、「私が私のことを実はあまりわかっていない。23年目を生きる今でも。」という現実がまるっと表れているのかなと。

頭の中だけではなく、言葉にしてみて、文章にしてみて、向き合える自分もいるなと。そんなことを思いながら今日はこのあたりでみせじまいさせていただきます。

明日からも変わらず、自分の変化を紡いでいきたいと思います。温かく見守っていただけますと幸いです。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

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