Blaze

ニキビも大人になったら吹き出物と言うように、
人見知りも大人になったら別の表現に置き換わる
のだそうだ
さしづめ、人見知りであっても取り繕うことが
大人ならできるでしょうに、と突きつけられて
いるかのようだ

だが、この数ヶ月の私は過去を遡っても
より強い人見知り状態にある
仕事の局面でもできるなら話すことなく
局面を打開したいと思ってしまう
(会社組織と私の職分からしてほとんどそれは
無理なことだけれど)
私的な面でもそうで、先日まで行われていた
イベントにもついぞ行くことができなかった
関係する方に随分と気を遣って頂き、
取り計らって頂いたのに応えることができず
随分と不義理を働いたものだと大きな呵責の念に
苛まれている
元々はたったひとりのひとがそこの場に来るか
どうかが気になっていたのだけれど
来ないとなってもどこでどう繋がっているかも
分からないし、どこまで無いことや無いことを
吹聴されているのだろうかと想像しただけで
そこに行くことができなくなっていた
(そういうのも思うツボなのだろうなあとすら
思うほどに)
きっと不必要に考えてしまっているのだと思う
私に見えるその人と、私以外から見えるその人
とでは違う一面も多面も見せていて私こそが
本質を見えていないのかもしれないし
(本質如何によらず、私から見えるものを信じる
より仕方ないのだけれど)
きっとそこに行っていれば何者にも変え難い
素晴らしい記憶と経験になったのだとも思う

それらを考えると珍しく私はことばに窮した
その対象の方とともにすべてを切り離したら
良いのではないかとすら思った
とんだ御門違いの発想だとはいえ、それくらいの
嫌悪があり、未だその方の考え方や矛盾には
堪えきれないものがある
そして、同じくらい自分自身に落胆してもいる
縁あってやり取りをさせて頂いている方々の
人間性は素晴らしく、私がいかに矮小な者かを
突きつけられているような気がしてならなくなった
四六時中、誰かの批判をして、世の中を小馬鹿に
しているような物言いに辟易しながら
私自身も誰かを嫌だと思っているのは
どういうことなのかと思わされるから
私みたいな人間にも素晴らしいひとが周りにいて
くださることに感謝よりも情けなさが込み上げた
こんな風に書いたら、またネタにして世を斬る
みたいにするのだろうなと思うけれど
他の方の記事にもあったように、自分自身のため
であれば、平気で意見を翻して水を飲むように
嘘をつけてしまうのだろう
それを咎めても自分のことだなんて分からない程に

私みたいな人もいて、その方みたいな人もいて
そして、私が素晴らしいと思う人たちもいて
せかいは作られていて、そういうことも
矮小なことなのかもしれないとしても
私は『そういうものだから』と割り切ることが
できないでいる
結局のところ自分自身に自信がないし
生きていることのそれについて喜びよりも
不安の方が大きいからなのだろう

いちばん近くで見ていたひとが言ったことが
今では全てが正しいことなのだと
しても仕方のない答えあわせをしたあとで見た
手のひらの日焼けはひたすらにひたすらに
もがいた火傷の痕のようで
慰めにもなるし、徒労を感じさせるものでもある
と思い至った

たんなるにっき(その152)

よろしければサポートをお願いします。自費出版(紙の本)の費用に充てたいと思います