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40歳になりました。

十年前、私が30歳になった時、私は教会(といっても信仰者ではなく部外者であったが)で誕生日ケーキをご馳走された。その蝋燭を息で消しながら、私は激動の20代だったなぁという感想を抱いていた。

そして十年経過した。今日、2023年8月22日、私は40歳になった。30代が終わった。

この30代はとても濃密なものだったと我ながら思う。多くのことを学んだ。多くのことを知った。多くのことを経験した。多くのことを楽しんだ。これ以上にないくらいに。

他方で安定もしていた。十代は若さのエネルギー真っ盛りだったし、二十代は大きな衝撃を受けることもあり有為転変が激しかった。だが三十代は基本的に安定していた。大人になったから当たり前かもしれない。自分を大きく変える強烈な一撃はほぼなかった。自分を変えることはあったにしてもゆっくりゆっくりと変えていったことだろう。

三十代で私は何をやったか。まずは古典をひたすら読んだ。二十代前半から読んでいたが、それ以上に三十代になって読んだ。まだ読んでいない作品も無論あるが、読み尽くしたと言えるくらいに。そして古典を原文で読むための勉強も徹底的にやった。英語、フランス語、ドイツ語は一時期ひたすら読みまくっていて、翻訳を開始する前に合計一万五千ページの古典を読んだ。そしてそこから翻訳も開始し、すでに二十冊出ている。また、自分の創作もある程度は出した。
四十は結果の年齢である。そして私は相応の結果を出すことが出来たと自負していて、安堵している。

他にもゲームをたくさんプレイした。ゲーム自体は十代の時にやっていたが、二十代になるとほとんどプレイしなくなった。だが三十代になり、私はゲームをまたプレイし始めた。とにかく様々なゲームに手を出して、それまで名前だけ知っていた名作も次から次へとプレイした。中でもNIntendo Switchの「大乱闘スマッシュブラザーズSpecial」は格別な思い出で、オンライン対戦は一万回はプレイした。それに付随する形で、知り合った人々とスマブラの対戦会を私の家で食事しながらやった(乱闘形式で一度に八人までプレイできる)。色々あったが失われた青春をもう一度味わったとしていい思い出である。

また多くの知り合いが出来た。三十代になれば、新しい知り合いを作るのは一気に難しくなるが、それでも仲のいい人が出来た。たまに飯食うだけの関係性が多いが、それだけでもなかなか作れないものなのだ。またそれがきっかけで動画に出るようにもなった。これもまた貴重な体験だ。

三十代のテーマを今振り返ると「好奇心」と言えたかもしれない。私はそれを全開にした。そして極限まで味わった。モームの言葉を借りれば「私は人生を楽しみたかった」のだ。
三十代は短かったか、長かったかと聞かれても、どちらとも言えない、あっという間だったと言えばその通りだし、とてつもなく長くもあった。不思議な感じがする。

ともかくとして私は今こうしてホテルで四十代になったばかりにこの記事を書いている。場所は私が生まれ育った富山だ。旧友に会いに来てたまたま誕生日が重なったのだが、不思議な縁を感じる。

https://note.com/andukga/n/n6a1313c5314d

 上の記事に書いたように、今から数ヶ月前、私はハズリット作の「テーブルトーク」の翻訳を完成させたことにより、自分の人生観が大きく変わった。もういつ死んでも後悔はないと感じるようになった。自分という存在がどこか透明になり始めた。それを日に日に感じる。この地球が自分の居場所じゃないとすら感じることがある。
 三十代のテーマであった「好奇心」は今の私にはかなり薄らいでしまっている。私は何かを学ぼうという意欲が相当減っているし、楽しもうとか自分を磨こうという気持ちもやはり相当減っている。どのような四十代を迎えるのかはわからない。だがそれは静かなものになるだろう。とはいっても翻訳や創作自体は続けていくのは間違いない。だがそれも淡々と機械のように行なっていくだろう。情熱も感動も、無縁な感じになっている。

確か23だったか、大学を卒業し、公務員試験を受けたあと、高校の同窓会があった。別にその同窓会自体に大きな出来事があったわけではないが、それが終わった後の夜中の帰り道、私はこれから世界を知ろうと心の中で強く誓ったことを今でもはっきりと覚えている。ある意味人生の旅路に出発した瞬間だったのだ。単に外国に行くだけでない、精神の旅。それを今まで私は意識的に無意識的に行なっていた。
 だがその旅路もいよいよ終着点を迎えようとしている。まだ終着点そのものには達してはいないにせよ、そろそろゴールに近づいてきているのを肌で感じる。肉体的にも老いを感じ始め、すでにピークは過ぎている。終わりが近づいてきている。
 無論、今は長生きする社会で、私は七十くらいまでは生きるだろう。だが私の精神の遍歴はもう数年で終わる、そんな感じがする。それ以後は生物的に生きるにせよ、どこか静止ししたような、そんな感じの生き方をするようになる気がする。
 現に、私はあまり物事に感動しなくなった。これは私だけでなく齢を重ねる人間は皆そうだが、どこへ行っても、何を食べても、飲んでも、新しい出会いがあっても感動の念がかなり消え去ってしまっている。美味しいとか思うことはあるにせよ、だ。昔なら単に感動しただけでなく、そこから何か精神の糧になるものがあったが、それが感じられなくなった。
 ここ最近、自分の何かが削り取られるような感じがする。肉体だけでなく精神的に。大きな出来事があったわけではないし、ストレスとはまた違うものだ。年をとっているのもあるだろうし、翻訳の疲労がたたっているのかもしれない。ともかく自分がどんどんなくなっていってしまっている、そんな感じがすることがある。

せっかくの誕生日なのにどこか暗いことを書いてしまった。ただこれからの十年、いや残りの生涯は静かなものとなるだろう。色々とやっていくつもりだが、自分がどんどん透明になっていく。もしかすると、四十代で私は死ぬかもしれない。でも今の私には死など容易いものだ。

では良い一年と人生を。

追記:

少し時間が経って考えてみれば、四十代のテーマは「後世」になるかもしれない。自分がこれから来たる世代に何を残していけるか、ということだ。事実、そういうことを考える割合が多くなり、単なる娯楽とか一人で完結することにどこか虚無感を抱くことも出てきた。自分の精神が削られているように感じるのも、翻訳とかで自分の一部をそこに注入しているからかもしれない。ちょうどSF創作で、AIか何かに自分の人格を転移させるように。

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