見出し画像

目的や理由ってそんなにだいじ?

友人とショッピングなんて何年ぶりだろうか。
買いものといえばスーパーぐらいしか行かない。
買いものといえばもっぱらネットショッピング。
もし出かけるとしても、ひとり。

繁華街に出かけて誰かと買いものなど、最後にいつ行ったのか記憶にございません。

わたしはとくに欲しいものものぞいてみたいお店もなかったため、友人のショッピングにおともする形だった。

無印良品、エスニック雑貨、素材にこだわった洋服店、食器・調理器具、LOFT、アクセサリーのポップアップショップ…

これかわいい
いいなあこれ
え、それ似合う
あー、えいみっぽいねそれ

と、ショッピングに行きゃあ行ったで学生時代にタイムスリップしたかのようにしっかりキャッキャはしゃいだのだが、確実に学生時代と違う点があった。

結局買わない。

学生時代よりもお金には余裕があるのに、あれだけ「えーほしい」「似合う?買おうかな」などと店員さんの前ではしゃいだのに、買わない。
冷やかしもいいところではないか。

結局、わたしの釣果はバッグインバッグとお箸1膳を無印良品で、サルのステッカーを雑貨屋さんで買っただけ。使ったお金は2,000円ちょっと。
「今日のためにATMでお金を下ろしてきた」と鼻の穴を膨らませていた友人も、ふたを開けてみたら靴下1足、パンツ1枚、韓国コスメを3種類ぐらい。総額5,000円ぐらいじゃないだろうか。

∽∽∽

「かわいいし欲しいんだけど、『買ってどうすんの?どこで使うの?』って考えちゃうと、カゴには入らないよね」
不漁の理由はふたりとも同じであった。

わたしたちはなにをするにも目的や理由に囚われすぎていないか。
年齢や経験を重ねるほど、目的や理由に囚われる傾向にないか。

なにをするにも、
なんのために?どうして?なぜ?

もちろん目的や理由は多くの場合とてもだいじだし、ビジネスの場においては欠かせないとさえいえる。
けれども、日常生活において目的と理由ってそんなに大切なんだろうか。

一瞬ぱぁーっと心がときめいても、直後に「買ってどうするの?」「このアイテムは別に今足りてるよね」と、一挙手一投足をツメてくる上司のようにセルフ詰問が脳内を駆け巡る。

買いものだけではない。
ほんの好奇心から興味がわいた習いごとなんかでも「なんのために?」「どうしてやりたいの?」「お金と時間を使ってまで始めたいの?」などと、いちいち目的と理由をほしがる。

目的と理由は、ゴールへの道のりをより明確に示してくれる強力なコンパスとなるが、別になにも目指していないことだってあるだろう。
なんとなく、勧められたから、おもしろそうだと思ったから、時間に余裕があったから、そこに山があったから、姉が履歴書を勝手に送ったから…
そんな理由で始めてみたって、別にバチは当たらないんじゃないの。

はっきりとした目的や理由で正当化しなければいけないような感覚や、意味のないことをしてはいけないような感覚、無駄を許容できない余裕のなさは、いつから自分の心に巣食っているのだろう。

合理性ばかりでなく、時には非合理的なことも大切にしたいよね。
遊ぶためのあそびがほしいよね。

我々は遅めの昼ごはんを食べながら、早めの酒を飲みながら、ファミレスでそんな話を延々語らった。
割り勘で3,200円だった。
その日いちばんの買いものといえるし、この時間はいうまでもなく3,200円以上の価値がある。
非常に合理的なお金の使い方をしたと思う。



今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたが大切にしている「非合理」はなんですか?

この記事が参加している募集

休日のすごし方

QOLあげてみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?