見出し画像

才能は、他人基準

”才能” 何度この言葉に憧れたことだろう。
一度くらいは”才能あるね”と、言われてみたい人生だった。

そして、漠然と”何者かになりたい”と焦燥感を抱きがちなお年頃、”才能”というのはかなりマストなものに思えてくる。

ただ、”才能”ってなんだ?

いくら自分に才能があると思っていても、他者からの評価がなければただの独りよがりで、ただの無能。

結局、才能って相対評価で他人基準。
確固たるもののようで、実は他人の意見で0にも100にもなってしまう流動的なものなんじゃないかと思う。

今、”何者か”になっている人たちの才能だって、その人たちの実力が秀でていたのはもちろんあるけれど、そこに大衆の評価が乗っかったもので、結局マッチングみたいなもの。

そう思うと自分の中で言う”才能”とは、他人基準の結果論である、という場所にひとまずは行き着いた。

ただ、その才能を存分に駆使して、信念を持って何か創り上げたとしても、それが思うように他者に届くかは分からないし、批判されることさえ当然な世の中。それは才能でカバーしきれない部分もあるだろう。

でも、創る側ではない限り、私たちは例外なくそれを消費する側の人間にしかなることはできなくて。もしそれを貶したくなってしまうんだったら、私たちにできることはそこから距離を置くことしかないのに。

それなのに、今のご時世、黙って去らずにごちゃごちゃと匿名で戯言を書き込まないといられない人がいる。面と向かって発言する勇気もなければ、その発言の責任を負うこともないのに。

未熟な世の中だな、と思ったりもする。

またしても脱線してしまった、才能があったらあったで大変そうだ。

他にもたくさんの正解があると思うし、何かパッとした結論があるわけではないんだけど、今日はこんなことを考えた1日だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?