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「私たちはなぜ学ぶのか?」(4)ー「学びを通じて新たな視点を得ると、世界が違って見える」から。

人類学者 磯野真穂氏の考える「学ぶ意味」とはー
「ひとつは、学士号や修士号といった資格が生きていく上で有利に働くからでしょう。現状では、多くの人にとっての目的はこれかもしれません」

「ただ、私が思うもっと大切な理由は、『そのほうがおもしろいから』です。学びを通じて新たな視点を得ると、世界が違って見える。私はカラスやマンボウなど、『なんでそんなものに人生をかけているんですか?』と言われそうな何かをひたすら研究したり、何かひとつのモノを作り続けていたりする人の話を聞くのがとても好きです。一見小さな世界の中に壮大な世界を見いだして、そこから、世界の楽しみ方が現れます」

(2022年10月12日付 朝日新聞「私たちはなぜ学ぶのか」人類学者 磯野真穂氏の考える「学ぶ意味」についての記事である)

磯野氏も、「私たちはなぜ学ぶのか(3)」の宇野常寛氏と同じように「面白さ」をあげている。

これからどう生きていこうかと考えていた頃の私も、磯野氏の言う「『なんでそんなものに人生をかけているんですか?』と言われそうな何かをひたすら研究したり、何かひとつのモノを作り続けていたりする」と言う生き方に憧れていた。

だが同時に「アンパンをかじりながらでも、先が見えないことをやり続けることは私にはできない」と言った友人の言葉がいつもついて回った。私も同感だったから。明日の食事もままならない暮らしではなく、人並みの暮らしもしたい。でも自分が生涯をかけられる何かにも出会いたいとも思っていた。

今になって、苦節ウン十年とか言って、何かを成し遂げた人を見るとあの時の自分に足りなかったものは何だったんだろうと考える。勇気だろうか、情熱だろうか?そして、その成し遂げた人の人生は「アンパンをかじりながら」でも、ちっとも苦にならないものだったのだろうか、と。でも、もし成し遂げられなかったとしたら、その人は自分の人生をどう考えるのだろうか。成し遂げられなかった人の方が絶対的に多いと思うのだが。

磯野氏は、このようにも語っている。

「研究とは元来、面白くワクワクするものだと思います。それは狙って生み出せるものではなく、その過程には、寄り道を許す、組織や研究者自身の余裕が必要です。でも、近視眼的な成果や実用性を求められると、寄り道は『無駄』と評価されてしまう。結果、ウケのよい研究テーマを選んで論文を書いたり、美しい報告書を短期間で作って体裁だけを整えたりして実績にしてしまう。やっている当人も『こんなことのために研究者になったんじゃない』と疲弊しているのではないでしょうか。」ー学びの寄り道は無駄じゃないのに。

「寄り道を許す、組織や研究者自身の余裕」ということを「余白」と言う言葉で語った記事がある。「2022年7月10日付 朝日新聞 『余白』の使い方 教える教育を」で、

音楽に携わる人の生き方について、あるピアニストは読書や絵を描くことにピアノに触る以上の時間を費やしていることやギリシア哲学に傾注していること、サックス奏者が楽器を置いて欧州の旅に出て車窓の風景に感動したことなどの例を挙げている。

「着実に成熟を重ねる表現者ほど、この余白のような時間を学びの糧としていることに気付く」と書いている。そしてそのサックス奏者の言葉を以下のように書き記している。

「本当にすごいものに触れた時は、言葉が出なくなるのだと初めて知った。楽器を吹いているばかりじゃなく、こういう世界に、僕はもっともっと出会わなきゃいけない」

「彼らが休みを大切にするのは、世の中に消費されぬ己の芯を磨き抜くためである。自分の人生を豊かに生きるために休むことの意味を伝えることも教育である。人生に、もっと余白を。」

人生にはこのように寄り道や余裕、余白のような時間が必要で、それらは決して無駄ではない。人生に無駄ということはない。「失われた何十年」とかよく言われるけど、その時間からでさえ何かを享受しているに違いない。何も成し遂げられなかった私ではあるが・・・・・。そう思うことにした。


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