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今日ときめいた言葉145ー「平和国家の政治力と軍事力」

「政策決定者は失われる命に対して臆病であるべきだ…肝心なことは、命を危険にさらしても守りたいと国民が思える社会かどうかだ」
(2024年4月19日付朝日新聞 元防衛官僚 柳沢協ニ氏の言葉)

「政治家は当選するために、達成できない軍事的決着を約束する。イスラエルで軍事力の限界を理解しているのは軍の将官だけです……」
(元イスラエル諜報機関トップ、海軍司令官 アミ・アヤロン氏の言葉)


「戦争は絶対してはならない」戦争体験者をはじめとして多くの人々は口を揃えて言う。同感である。日本は戦後79年間戦争を経験していない。「平和は大切だ。だから守らなければならない」

でも「どうやって?」

我々の思考はここで停止している。その先を国民レベルで議論していない。「戦争にならないためには外交の力が重要だ」とか言われているけど、政府は国の目標や戦略を国民につまびらかにしない。私自身、自分の意識が実にナイーブなままだと自覚している。

佐藤優氏は2022年7月23日付朝日新聞で「実際に戦争で人が死ぬ悲しみ、人が焼け焦げるにおいがどういうものかと言うことを想像できない議論は机上の空論だ」とさえ言っている。

そんな曖昧な状況の中で最近の政府の動向は戦争のできる国にどんどん進もうとしているように見える。武器の輸出、武器の共同開発、敵地攻撃能力の保有といったように。ナイーブな意識の国民からはそれらを疑問視する大きな動きが起きていない。戦争の足音はひっそりとやってきて、やがて強い力となって「平和は大切だ」と言っている国民を飲み込んでしまうかもしれない。だって前例があるから。

そんな中での冒頭の2人の言葉。両者共に防衛や軍隊に深く関わった人である。そんな人から「軍事力で政治的課題は解決できない」と聞いた時、意外に抑制的な考え方であることに安堵感をおぼえた。だが対照的に靖国集団参拝をする自衛官や、自衛隊を旧日本軍の継続みたいに考えている自衛官がいることも忘れてはならない。

2024年5月9日付朝日新聞「武器輸出と『平和国家』」で読んだ経済学者の小野塚知二氏の意見には説得力があると思った。小野塚氏は次のように語る。

(要約)
「日本が武器を輸出できる「普通の国」になるのは「愚者の選択」である。その根拠として、日本は国民の消費が伸びて発展する消費主導型の経済であるからだ。一方武器輸出は投資主導型で、国が投資し続け、赤字国債が増えて一部の兵器産業だけがうるおう。それは健全な経済とは言えない。

さらに「抑止力」というのは相手次第で、相手が日本を恐れるか否かに依存しており、自分で一方的には決められない。日本が軍備を増強しても中国、北朝鮮、ロシアが態度を変えるとは思えない。むしろ安全保障環境は悪化する。

さらに武器移転は、武器を一旦受け取るとその武器を使う兵士の訓練や修理・補給などで縁が切れなくなる。それに武器を受け取ることで戦争の危険性が広がる。本来国の目標や戦略があって手段としての武器が決まるはずが、実際は逆に武器の存在によって国の戦略が規定されてしまう。

日本外交が「軍事と外交は両輪だ」という考えであれば、それは日本外交にとって悲劇的なことだ。軍事に頼らず、言論、文化、民間外交などでいかに戦争を回避し平和を維持するかを考えるのが外交術だからだ。初めから軍事に頼むだけなら外交の敗北である。

日本の周辺には、兵士の生命の政治的・社会的費用が低く、人権も民主主義も言論の自由も制約された国がある。兵士の損耗が政府や軍の責任になりにくい国はいくらでも兵力を投入できる。こういう国とは「戦争をしない」という前提を立てた方がよい。抑止力を高めるという考えは錯覚か、国内向けに強気のアピールをしたいだけだ。

日本がアメリカから自立して武器を開発生産し武器輸出大国になれるというのは妄想だし、アメリカとは「対等のパートナーだ」というのは幻想だ。「武器を外国に売らないこと」が大切な倫理的価値になっているのは、憲法9条の普遍的な理想に基礎付けられているから。武器輸出で平和国家の価値を傷つけられないためにもこの問題についての国会審議が必要ではないか」


現在、自衛官の数は不足しているという。今後人口が減少していく中で、戦争が
できる国になったあかつきには、兵士不足を補うために徴兵制度が導入されるかもしれない。そして男女平等・男女同権・男女雇用機会均等法(⁈)(こんな時だけ😤)に基づいて、徴兵された女性兵士が誕生するかもしれない。



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