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【創作小説】狗たちの一生(後編)

 とはいえ、ここへ来るのにずいぶんと勇気がいった。ようやく息子が通う高校にたどり着いたというのに、私は当の息子を見つけられずにいた。
 待ち合わせ時間が迫ってきて、私はいっこうに落ち着かず弱気に笑ってみせたり校舎の方をうかがったりしていたが、上手いとは言いがたい管楽器の音色が流れてくるばかりで、息子らしい少年は現れない。

 無理もなかった。私はこの十五年間、一度も息子に会ったことはない。蓉子と臨に関わらないことは唯一の離婚の条件で、むろん私は経済的な援助を申し出たが、それは蓉子の両親に丁重に断られた。
「うちの蓉子と臨は、ただの普通の人間なのだから、もうすでに夫でも父親でもないあなたが、彼女たちの人生に関わらなければならないという義務はないんですよ」
蓉子の父親はあの日、私に言った。彼の言葉は、私の一生が人間たちのそれとはまったくの別物であることを暗示していた。私は彼らの言い分を受け入れ、そして彼らのもとを去った。当時まだ一歳にもなっていなかった息子の現在の姿を見極めることは不可能に近い。

 それに何と言っても最近の高校は安心と安全が売り物らしく、高い壁と何人ものガードマンが子どもたちの毎日を守っている。うろうろと若者の集団のそばを行ったり来たりしていると、疑り深い眼差しを投げかけられた。

「誰かお探しですか?」
振り返ると例のガードマンが立っていた。全身で私を警戒しているが、口調は丁寧だった。
「いつもお世話になっております、私は……こちらの高校に行っております篠原臨という生徒の、」
私はポケットからレシートを引っ張り出し、その裏に名前と電話番号を走り書いた。
「はい」
「ええと……親類……のものですが」
私は私の言葉に心の底から驚いたが、父親なのだから親類には違いない、と無理やり気を取り直した。
「本人に会う約束をしていたのですが、見当たらないのです」

結果として、私のでまかせは役に立った。ガードマンの男は苗字の違う名前を見ても何の疑問も抱かないようだった。
「クラスやコースはご存じですか? または入構許可証などはお持ちですか?」
「……いえ、持ってないです……」
呆れたような目をしてガードマンは一瞬私を見たが、無線を使ってどこかに連絡を取ってくれた。
「申し訳ありませんが、篠原くんは今日登校していないようで」
ガードマンが言った。私は心のどこかで安堵していたのかもしれない。礼を言い、足早にその場を去った。火曜日の午後。あの子はどうにもならない、という蓉子の言葉が今さらながらに思い出された。体の奥深い場所が鈍く痛んだ。 

 しかし、この再会は失敗に終わったのではなかった。
 その日、私はたまたま日が暮れる頃には自宅に戻っていた。ドアベルが押され、扉を開くと見慣れない一人の若者が何とも言えない表情で立っていた。

「どちら様でしょうか」
少年というにはずいぶん背が高いが、泥のついたスニーカーとトレーナーを着ているところを見ると、まだ十代だと察しがついた。似合っているとは言いがたい長い前髪の隙間から、ニキビで赤く荒れた額がのぞいていた。私はよほど複雑な表情をしていたのだろう。目の前の少年は一瞬まごつき、しかしはっきりと告げた。

「俺の父親っていうのは、あんたなのかな?」
私はまじまじと彼の顔を見つめた。
「臨か」
少年はそれには答えず、片手に握っていたものを私に差し出した。桜井了一、電話番号と住所。それは、昨日あのガードマンに手渡した私のちっぽけなメモだった。そのメモ書きが彼の手に渡るまでの経緯に思いはせたが、少年の声が私の思考をはばんだ。

「俺の方でもさ、話があるんだ」
有無を言わせない力があった。こちらから顔をそむけた時に垣間見えた鼻筋の通った横顔が、蓉子のそれとよく似ていた。

 私たちは自宅からほど近い交差点に建つファミレスの二階で向かい合って座った。何でも頼めばいい、と私は言ったが、彼は頑なに首を振った。どうやら長居する気は毛頭ないらしい。とりあえずホットコーヒーを頼み、私から話を切り出すことにした。

「どうやってここまで来たんだ?」
「母親に聞いたよ。あと今日、担任からも」
分かってるんだよ、と私の方をちらりと見てから、少年は再びテーブルに視線を落とした。
「あんたが俺に会いに学校に来たのも、母さんがそう言ったからだろ」
私は何も言わなかった。
「あんたが、どうして俺に会いに来たのかってことだけど……。たぶん俺のことで、何かあの人から連絡があったんだろ。会ってやってくれ、とか今さら」
コーヒーが来た。私はその黒い水面をじっと見ていた。
「だから、なんていうか、あんたらの考えてることは分かってる。だけどさ、こっちにはこっちの考えがあるわけよ。当然」
「話ってそのことか?」
うん、と臨は頷いた。
「言ってくれ」
「もう二度と俺に近付かないでほしいんだ」
私ははっとして目を上げた。しかし少年は俯いたままだった。
「理由を聞いてもいいかな」
かすかに少年の唇が苦しげに歪んだように見えたが、気のせいかもしれなかった。
「臨」
思わず呼びかけると、少年は突然はげしくテーブルを叩いた。鋭い音がして、カップに入ったコーヒーが少しだけ飛び散った。
「嫌なんだよ、もう嫌なんだよ、みんな」
「分かった……私は何も君に説教しに来たわけじゃないんだ。ただ……教えてほしい。君が私を避けようとするのは、私が君の父親だからか? 君や君の母を今まで顧みなかったせいか?」
私は自分の声がうわずっていくのが分かった。座り直してコーヒーを口に含んだが、まるで味がしない。普段は入れない砂糖とミルクを注ぎ込んで、ぐるぐるかき混ぜてスプーンを置いた。スプーンの表面にはやけに青ざめた私が映っている。
「どんなことでもいい、君の本心が聞きたいんだ」
私は何とか平静を取り戻し、そして深呼吸をした。

「煙草、吸うね」
一応断ってから火をつけ、空き箱をテーブルに置いた。
「正直に言って」
意外にも彼の方から返答があった。
「あんたが、『狗』だからだよ」
うん、私は言って、煙草を指に挟んだまま灰皿のふちで休ませた。
「まあ、俺もそうなんだけど……だけど、狗だってこと、俺は言うつもりないんだ。たぶん、一生」
あんたとは違って、と言いたげな表情で臨は私を見つめた。息子は知っているのだ、と私は悟った。狗であることを隠して一緒になった私と蓉子との間に子どもができて、悩んだ末に私が狗であると名乗ってから起きた数々の出来事を。
 十五年前、私が狗であると告げた時、蓉子の両親は激昂した。立派な離婚原因に値すると言って、一方的に私に離縁を迫った。もちろん私はそれに抗った。謝罪し、弁明し、それからまた頭を下げて、理解してもらえなくてもいい、いっそ受け入れてもらえなくてもいい、私のことをとんでもない野郎だと蔑んでくれて構わない、だからまだ彼らと家族でいさせてほしいと頼み込んだ。一方で蓉子はずいぶん悩み、そして悲しみ、ついに体を壊して病院に運ばれた。臨が予定よりも2週間も早く生まれたのは、ちょうどその後だ。

「……おじいちゃんとおばあちゃんに何か言われたか?」
予想外の言葉だったのか臨は怪訝そうな顔をしたが、ふいに渇いた笑い声をたてた。
「泣いてたよ……あの人たち」
あの人たちも相変わらずだなと思い、その瞬間私は会わないまでも自分の息子を傷つけていたかもしれない、と思い至った。
「ごめん」
私は思わず両手で顔を覆った。指から離れた煙草がずいぶん短くなって、灰皿の真ん中に転がった。
「本当にすまない。私のせいなんだ。……臨は少しも悪くないのに……」
そんなこと、と臨は言った。
「あんたのせいじゃない。それに……謝ってもらいたいわけじゃなんだよ、俺は……」
 いつかの蓉子と同じ言葉だった。蓉子、と私は心の中で呼びかけた。臨はいい子だよ。不器用でつっけんどんだから、たしかに君が思い描くような優等生ではないかもしれない。でも正直で優しくて、君に似てまっすぐな、素晴らしい子だよ。

 私は頷いて臨を見た。
「君の言いたいことはよく分かった。私はもう君には関わらない」
臨の眉が少し動いた。安堵しているとも、疑っているとも言える表情だった。だから彼を安心させるために私は続けた。
「本当だよ。約束する。君の生き方はもっともだ。これから私は君には会わないし、関わらない。そういう風に君の母さんにも伝えておくから」
ただ、と私は言って、財布からキャッシュカードを引き抜き、臨の目の前に置いた。
「これは持っていきなさい。暗証番号はお前の誕生日になっているから。お金はお母さんと相談して使いなさい。分かったね?」
臨はギョッとした顔をした。
「でも……」
「いいから」
私が語気を強めると、臨は俯いた。
「俺は、こんなものもらいに来たわけじゃないのに」
「……でもな、私が君ら親子にしたことは、本当はこんなものじゃ償えないんだよ」
「そんなこと……」
「まだ何か気になることがあるのか?」
私が問うと臨は恐る恐る目を上げた。

「……一つ聞きたいことがあったんだ。本当はあんたに会ったら、真っ先に聞こうと思っていたんだけど」
何だ、と私は視線で促した。
「その……何で狗だってこと……言ったんだ? 俺が、生まれるかどうかって、そんな時に……」
臨はずいぶん言いにくそうに言葉を選んだ。
「たとえば、あんたがそのことを黙っていれば、ずっと三人で暮らすことができたかもしれないだろ? あんたは、狗だって隠していることもできたのに、どうしてそうしなかったんだ?」
「変だと思うか?」
そうだね、と臨はきっぱりと言った。
「俺なら、幸せになりたい。だから幸せになるために嘘をつくかもね」
「そんな嘘をついたって、いつかばれる日が来るぞ」
臨は納得していないようだった。私は目の前の息子に笑いかけた。
「それにな、誰か、たとえば心から愛している人を騙してまで手に入れた幸せなんて、私からすれば幸せでもなんでもないよ。むしろ不幸の最もたるものだと思うけどね」

「じゃあ何だよ」
臨は初めて顔を赤らめて、声を荒げた。それは私の言動を腹立たしく思っているというより、ひどく動揺している素振りに見えた。
「今、あんたは幸せなのかよ。たった一人で社会の外側に追いやられて生きて、そうやって死んでいくことが幸せだって、そう言えるのかよ。狗なんて誰も相手にしてくれない、そうだろ? あんたは知ってるだろう?」
臨は激しくまくし立てた。異変を察知した男性店員が臨に近付き、丁重な物腰で注意した。ギラギラ光る眼で臨が店員を睨みつけたので、私はすばやく立ち上がった。
「すみません、出ます」
そう言って頭を下げ、伝票を取った。店員が安堵した表情を浮かべてレジへと向かったのと同時に、臨が舌打ちするのが聞こえた。 

 店を出ると夕方にもならないというのに、明るく光る空にぼんやりと月が浮かんでいるのが見えた。足を引きずるような恰好で私のすぐ後ろを歩いてくる臨を待って、私は口を開いた。
「さっきの話の続きだけど、私のような生き方が幸せなのかどうかと君は聞いたね」
なぜか臨は泣きだしそうな表情で私を見た。その瞳をのぞき込んで、私は沈黙した。幸せなのだと、答えてやるつもりだった。
 愛されたいから愛しているのではないし、愛されないことが不幸だと思ったこともない。なぜなら私には君という、こんなにも大切に思える存在があって、それだけで私は十分幸せなのだ、と。しかし私の口は何の言葉も発せなかった。

「あのさあ、俺さ」
沈黙に耐えかねたように臨が唐突に言った。私たちは二人で横断歩道の前に立っていた。立ち尽くしていたと言った方がいいのかもしれない。
「学校、辞めようかと思うんだ。……まだ誰にも言ってないけど」
何か臨に言ってやらなければならないと思った。蓉子も言っていたではないか。あの子はきっと誰よりも一人きりで寂しいのだ、と。
「俺、うすうす分かっていたんだよ。ずいぶん前から体は自分のものじゃないみたいだった。みんなと何か違う、でも何か分からない、でも絶対違うって思っていたから……。だから狗だって聞かされた時、本当はさ、本当は俺、すごく納得したんだよ」
臨はわざと明るく言葉を続けた。
「狗って言うからさ……もっと何かこう、強いものだと思ってた。狼男みたいな? 人にはできない何かができるとか、超能力的な力があるとか……でもそんなの何一つないね……。むしろもっと繊細で……弱くってさあ、みんなよりうまくできないことの方がずっと多いんだ。嫌になるよね」
「つらいのか? 学校」
私はようやくそう言った。臨は私の方を見ずに首を振った。
「まさか。みんないい奴だよ。でもみんな人間なんだ。たぶん狗であることがどんなことかなんて、知らないし、分からないんだろうね、一生。……それが俺はすごく嫌だ。すごく残酷な気分になる。だって俺は狗なんだ。本当のこと、全部叫んで、ぶちまけて、ほら、お前らなんかに俺のことが分かるもんか、分かられてたまるかよって、言いたくなる。……バカみたいだな」「だから辞めるのか? 嘘をつきとおすために? 隠し通すために?」
臨は笑っていた。すべてを諦めて、臨はただ笑っていた。
「そんな顔して、笑うなよ」
泣きたい、と強く思った。そして私は気がついた。私は寂しかった。ずっと臨と蓉子に会いたかった。愛しているという言葉が喉から手が出るほど欲しかった。誰かに、できれば自分が愛する人に、そう言って抱きしめてもらいたかった。しかしそれは、真実を告げたとたんに叶わなかった。だから狗を自称した。人並みの幸せが得難い一生だったから、狗とでも自称しなければ生きていくことさえままならなかった。私は、幸せなどではなかった。

「……父さん」
臨の声が聞こえた。
「俺……大丈夫かなあ」
信号が青に変わり、私は強く臨の背中を押した。
「行けよ、臨。駅は向こうだ」
私は言った。行き場なんてない、このままじゃどこにも行けない、と臨の救われない魂が叫んでいるのが私には聞こえた。
「父さん、俺……俺さ」
人の波に逆らうようにして臨は言葉を続けた。いつでも雑踏は私たちの存在をかき消そうとする。
「俺……絶対無理だよ。あんたのようには生きていけない。一人じゃこの世界で戦えない。だから、だからさ……」
「馬鹿野郎!」
こちらへ戻ってこようとする臨に向かって私は怒鳴った。

「お前は言ったじゃないか。たった一人で社会の外側に追いやられて死んでいくことが幸せかって、俺に聞いたじゃないか。まったくその通りだよ……俺は……俺はなあ、臨。寂しくて悲しくて、でもどうしようもなくて、耐えて、耐えて、やっとつかんだ幸せも消えうせて、こんな人生……ちっとも、ちっとも幸せなんかじゃなかった」
臨は人ごみの中で石のように固まっていた。
「だけどな、だけどな、臨。お前は、お前だけは、絶対に諦めるな。幸せになることを諦めてやる必要なんてどこにもないんだからな。この世界は広いから、この世界のどこかには、きっと私たちのようなものの居場所があるから……。絶対に、あるから、な。」
いつか臨に知ってほしいことがある。誰かによって愛を知るその時まで、彼はきっと人よりも深い孤独の中で生きるだろう。その孤独の中でさえ、お前は愛されていた。すでに愛されていたのだと。
「ほら、もう行けよ」
信号の青いランプが点滅していた。視線を戻すと、もうそこに息子の姿はなかった。彼の姿はひどくあっさりと人ごみにかき消えた。私たちの間を隔てる人の群れはあまりにも大きい。

「臨」

私は今まさに失った、愛する息子の名を呼んだ。どこかで誰かの泣き声が聞こえる。まるで一人が寂しい狗たちの遠吠えのように。

 
(了)

 

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