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【創作ショートショート05】蘭の花はだれのもの

 蘭の花は、ある日突然そこに置かれていた。
 朝、出社したわたしは、スチールでできた書類棚の上に大きな白い蘭の鉢植えがあることに気が付いた。
「立派な蘭の花ねぇ」
わたしのすぐあとにやってきた、先輩の上野さんが感心したように呟いた。たしかにその蘭の花は、しなやかな細い茎の先に厚みのある花をいくつも咲かせていた。近寄れば、甘ったるい香りがかすかに鼻をかすめた。
「誰が持ってきてくれたのかしら」
上田さんは、しげしげと鉢植えを眺めている。わたしも一緒に葉の間をかき分けてみたが、この花が誰によって持ち込まれたのか手がかりになるものは何もなかった。

 次の日、蘭の花は窓際にあった。
「水をあげておいたよ、なんか元気がなかったもんだから」
いつも出社が早い加藤さんが、鉢植えを指して言った。
「あの花、誰が持ってきてくれたのか知ってます?」
わたしは加藤さんに尋ねたが、加藤さんは首をかしげた。
「知らないけどね、昨日の朝にはそこにあったよ」
そう言って、書類棚の方をあごでしゃくってみせた。始業のチャイムが鳴ると、みんな蘭のことなど忘れてしまったようだった。

 その日、面倒な案件に対応していたら昼休憩のタイミングを逃してしまったわたしは、午後になってようやく一息をついた。
 ふと窓辺に目をやると、あの蘭の花がなかった。
「蘭がない」
思わず小さく呟くと、隣の席の関谷さんが「ああ」と頷いた。
「窓辺に古いパソコンを集めるらしくて、さっき移動させてたよ」
指さされた方向をみると、たしかに今度は入口のそばにひっそりとたたずんでいた。
「それにしても、いくらぐらいするんだろうね」
「何がです?」
「あの蘭の花の鉢植えだよ」
「高いんですか?」
「高いよ、知らないの?」
関谷さんは、なぜか声を潜めた。
「あんなに立派なら5万円はするよ、きっと」

 その夜、わたしは残業をしていた。昼間にかかりきりになっていた案件の処理が思うように進まなかったのだ。こちらがメールを出しても、先方からはなかなか応答はなく、応答があったと思ったらややこしい指示が書かれていたりした。仕方がないので、この仕事は明日に持ち越すことに決め、わたしは帰宅する準備を始めた。
 時計はちょうど22時を指していた。机に向かいすぎていたせいで、体中が痛い。立ち上がって軽く伸びをする。あたりを見回すと、あの蘭の花は書類棚の上に戻されているのが見えた。

 わたしは、ゆっくりと蘭の花に近づいた。蘭は見事な花をつけていて、細い茎は重そうにしなっていた。
「いいわねぇ」
それが自分の口から漏れ出た言葉だと、わたしは気が付かなかった。一体、蘭の花の何がいいのだろう。
 不可解な気持ちに戸惑いながら、しかしわたしは、はっきりと感じていた。これは羨望だ。見事な蘭。水をもらえる蘭。そして誰の目にも明らかな価値をもっている蘭。
「あんたは誰のものなの」
窓ガラスには、くたびれたわたしの姿がぼんやりと映っている。


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