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子どもを持つことは難しいけど

 5月上旬だというのに、じりじりと照りつけるような太陽だ。あたしは電車を乗り継いで、病院に向かっていた。
 最近改修が済んだばかりだというその大学病院には、ぐるぐる自動で回る回転扉があって、何だかおかしかった。

 まだ朝の9時半を少し過ぎたところだったので、病院の中は混み合っていないようだ。あたしは受付に紹介状を渡して、言われるがまま28番の窓口の前のソファに腰かけた。
 まるでホテルのフロアのように、厚ぼったいじゅうたんが敷かれている。絞ったボリュームでクラシック音楽が流れていて、それは時々「あのぉ、まだ呼ばれてないんだけどぉ」という高齢者の甲高い声にかき消された。

 意外なことに、ほぼ予約時刻通りにあたしの名前が呼ばれた。あたしは立ち上がり、厚ぼったいじゅうたんを踏みしめながら診察室のスライド式の扉を開けた。

「こんにちはぁ」
まだ若い、女性の医師だった。おそらくあたしよりもいくらか年上だが、さほど年齢は離れていないはずだ。
「はじめまして」
面食らう自分が我ながらおかしかった。
 医師はあたしの紹介状を確認して、ふと口を開いた。

「ご結婚は?」
「は」
「ご結婚は、されていますか?」
医師はこちらを向きもしなかった。
「……いえ、まだです」
病歴や薬の使用量よりも先に、結婚の話題が出るとは思っていなかったあたしは、どぎまぎしながら答えた。4年も付き合っている恋人がいるのだから、「まだ」という回答は不自然ではないはずだ、などと考えながら。

「薬は減らした方がいいでしょうね」
さきほどの問いかけのことなど忘れたように、医師は言った。
「減らせますか?」
医師はうなずいて、あたしの処方箋をこちらに向けていくつかの薬を指さした。
「これとか、これは、今では効果がみられないと言われているんです」
飲む必要はないのだ、と彼女は続けた。
「それにこの薬なんかは、妊娠したときに服用を続けていると、胎児に悪影響を及ぼすので」
「……そうなんですね」
あたしは、もう15年も治療を続けている。そのうちに医学も進歩したということなのだろう。しかしながら、ほとんど薬漬けになったこの身体が、妊娠や子育てに耐えられるのかどうか、かなり疑わしい。

「今は、まだいいです。今は、まだ」
「そうですか。お仕事などいろいろ落ち着いてからでいいかもしれませんが」
医師はそう言って丁寧な素振りで微笑んだ。
「また7月に診察にいらしてください」

 病院を出て、駅までの長い道を歩きながら、あたしはあたしのこれまでの15年と、これからの15年について考えた。一人きりだった15年。今は、恋人がいる。もちろん、子どもが欲しくないと言えば嘘になる。ただ、それはあくまで「理想」なのであって、「理想」と「現実」は往々にして一致しない。そのことを、あたしはもうすでに幾度となく経験している。

 子どもを持つことは難しいかもしれない。来た道をあたしは、やっぱり一人きりで帰るのだった。

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