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プロフィール

地方金融マン。HipHopのビートメーカー。たまにRapします。

大学卒業後、この世で一番嫌いな「金融業」という職業を選択し、成績の悪い営業マンが、「なぜか」気難しいと言われるお客様の心を掴み、気づけば営業成績上位者常連に。昇進のタイミングで全支店の営業部門を統括する立場になってしまいました。

「なぜか」応援してくれる人がいる。

それは、僕が大学時代に出会ったHipHopから学んだエッセンスを大切にしているから。

「人間不信の塊」

私は、人を信じることができませんでした。

心を開き切って誰かと接することができない。

心の大事なところは絶対に開かず、本心を押し殺して、とりあえず相手にあわせておく。

無理をしながら生きていました。

それは「暴力親父の存在」が大きな原因でした。

幼少期、父の暴力は日常茶飯事。アパート暮らしだったので、父の暴力や罵声から逃げる場所も無く、部屋の隅にうずくまったり、洗濯機と棚の隙間に逃げ込んで怯える日々。

母への暴力も勿論日常茶飯事。夫婦喧嘩も週1回必ず。目の前で始まると、泣きながら止めに入ることも。止めに入っても無駄で、一緒に殴られて、怒鳴られて。母に連れられて家を飛び出し、母の兄弟の家に逃げ込むこともしばしば。

父親が酒を飲むと、さらに暴力はパワーアップ。父親がよく飲んでいた1ℓパックの「鬼殺し」。まさに鬼が殺しに来るかの如く、皿が飛ぶ、怒鳴り散らす、さっきまでニコニコしていたのに、いきなり豹変して暴れ出す。(大人になって聴きましたが、父親はキレると頭が真っ白になるのだそうです。)

そんな毎日の中で自然と

「父親の顔色を見ながら」生活することが

当たり前になっていきました。

小学生5年の頃、楽しく晩食を楽しむ父。今日はご機嫌だぞと思いながら夕飯を食べていると、段々顔色が変わっていく父。まずい予感が心を支配していく、その瞬間、鬼になる父。助けを求めるため親戚に電話し、受話器の向こう側で、相手が出るその瞬間を待つ母。その姿を見て、更に激昂した父は、食器棚から折り畳みナイフ取り出し、鬼の形相で受話器を握りしめる母に近づき、受話器を取り上げ、手に持ったナイフで電話線のコードを思いきり切り裂く。叫ぶ母、鬼の形相の父。無力に揺れる電話線のコード。完全に僕の心が壊れた瞬間でした。

この出来事をきっかけに

「人は怖い生き物だ。怖いから近寄ってはいけない。今までニコニコしていてもいつ切れるか分からない。人なんて信用できない。信用してはいけない。」

と思うようになりました。

「Rapとの出会い」

高校2年生の時、同じクラスの友人からRhymesterとSnoop Doggのアルバムを貸してもらい。それがきっかけでHipHopにハマりました。タワレコの無料配布の雑誌を毎月チェックしては、色んなHipHopのアーティストを聴き漁る日々。

20歳になった大学2年生のある日。美術サークルの先輩から紹介したい友人がいるからと、同じ大学で1つ上の学年のHipHopが好きでRapをしているY君を紹介されました。

このY君との出会いが、僕の人生の大きな転機となるのです。

Y君と出会い、僕の生活が変わったのは以下の通りです。

彼の勧めでRapを始める/夜な夜なクラブで朝まで遊ぶ/イベントのオープンマイクでフリースタイル(即興でRapすること)/クルー(仲間)に入れてもらい、友達が一気に増える/初めてのLIVEがきっかけで自分でインスト(ラップが入っていないインストゥルメンタル)を作り始める/仲間が住む一軒家で男だけの共同生活(今で言うシェアハウス)への引っ越し/毎週のようにイベントに顔を出し、朝まで酒を飲む/月3本はLIVE/留年する/学生向けフリーペーパーを立ち上げる/オリジナルCDの制作/イベントの企画/トップアーティストとの触れ合い/etc...

上記は、ほんの一例です。書き出せば切りはありません。

全ては「Rap」を始めたことにより大きく人生が動き出しました。

当時の地方のHip Hopは、まだまだ怖い人やら地元のやんちゃな方々も多く、クラブやイベントに遊びに行っても、常に緊張感がありました。また、HipHopは自分たちの地元が一番というローカリズム思想(排他的な要素も含む)が強く、県外の大学生は中々コミュニティに入っていくのが大変な状況でした。

そんな状況下で、地元じゃない県外から来た国立大学の学生がRapするということは、かなりハードルも高く。あまり相手にされないこともしばしば。

そんなアウェイな状況下を打開すべく、自分のスキルを磨くことにしました。

・Rapを即興で出来る様に毎日練習し、誰でも参加できるオープンマイクで個性を発揮できるようにすること。

・曲作りも独学で機材の使い方を研究し、20分あればインストゥルメンタルを作れるようになったこと。

おかげで、徐々に地元の方々に認められ始めます。当時はラッパーで曲作りをしている人も少なかったので、曲作りをしているDJの方々とのコミュニケーション手段も増やすことができるようになりました。

要するに、努力によってスキルを身につけたことにより、自分を認めてもらい、排他的なコミュニティの壁を突破することができたのです。

「最も大事なこと」

自分を認めてもらうために、スキルを身につけることも大事ですが、それはあくまでも方法にすぎません。

僕が最も「Rap」「HipHop」を通じて学んだこと、大切にしたこと。

それは、『Love&Respect』。『愛と敬意』です。

ラッパーやDJ、クラブやイベントに遊びに来る人たちは、様々な生い立ちの方が多かった。中でも、仲良くなった人たちは、以下のような経歴の持ち主でした。

母子家庭で貧乏だったけど高卒で建設業をしている。借金まみれだが実家の家業を継いだ。お金が無いから昼は看護師、夜はキャバクラでバイト。警察に捕まったことがあるが、今は厚生して何とか社会復帰したい。悪い薬をしていたが、後遺症に悩まされながらも頑張っている。親が新興宗教にハマって家庭がぐちゃぐちゃ。元暴走族でも今は家族のために建設業で働く。元ヤクザだったが今は産廃業で一生懸命働く。両親兄弟を幼い時交通事故で失くし自分だけ生き残ったが、使命感を持ち働いている。実家が全焼し、父親が大火傷を追い寝たきりだから少ない稼ぎの中から仕送りを送っている。etc...

そんな過酷な状況を生きてきた方々は皆、

自分の過去を堂々と話し、今を一生懸命生きている。

なんか凄い輝いているし、かっこいい。

そして、そんな人たちは皆、口を揃えて言いました。

「あなたは国立大学生で頭も良くて、親から仕送りもあって良いよねぇ」

でも、実際は、「勉強できるから頭が良いのではない。受験勉強なんてただの反復。頭が良いってのは、回転力、発想力、記憶力とか根本的な脳の能力を指すと思う。ただ僕は、浪人時代に全ての時間を勉強に費やしただけ。高3の時に父親がリストラに会い、母親もC型肝炎で治療費がかさむから、仕送りなんて無い。ほぼバイトで過ごす毎日。」

今までの僕なら「いやいやそんなことないですよ。」の一言で片付けていました

が、自分の生い立ちを勇気を持って話し、

相手の努力していること、頑張っていることを絶対にバカにせず

心の底から相手への「愛と敬意」を全身全霊で表現し、

「共感」することにより、打ち解けることができたのです。

「変化」

そして、打ち解けた人から、色々なサポートをいただきました。

親からの仕送りも無く、携帯もよく止まり、飯もろくに食えない貧乏学生な自分に

ご飯を食べさせてくれたり、お酒を奢ってくれたり、着なくなった洋服をくれたり、危ない大人が誰か教えてくれたり、お金のかからないデートコースを教えてくれたりetc...

そして、同時に、

「人を信用し始めている」自分に気づき始めるのです。

多くの仲間とRapを通して出会った結果、

自分の負の資産(自分の生い立ち=父親からの暴力)は、仲間を作っていくうえで、大きな財産になるかもしれない。

そして、「相手に共感する力」を知らない間に培っていました。

「一番嫌いな職業を選ぶということ」

迎えた大学5年目の4年生。就職活動の時期。音楽活動にのめり込み過ぎた僕は、大学を留年。

先に就職していった同級生たちの近況を聞くことも多くなりました。

あいつは、希望の会社に入ったけど理想と違って3ヶ月で辞めたらしい。夢に描いた職種についたけど、給料が安くて直ぐに辞めた。キツくて辞めた。

理想と現実のギャップ。好きだったものが、お金を稼ぐ手段に変わった途端嫌いに変わる。

尊敬する世界的に活躍しているビートメイカーのM氏とたまたまお話する機会が会った時。「メジャーレーベルの仕事もしなきゃいけない。時には自分の嫌なことでも仕事している。それが音楽で飯を食うということだよ。」と、そんな話をしてくださりました。

本当は音楽をやり続けていきたいと思っていましたが、暴力父もだいぶ弱り、C型肝炎だった母の体調も悪かったことから、実家に帰る選択。

地元で就職先を探しましたが、特にやりたい仕事も無く。

お金さえ稼げればいいやと思っていましたが、どーせやるなら

一番苦手で、

一番嫌いな仕事

を選ぼうと。

結果、「地元の金融機関」に就職することができました。

なぜ金融機関が嫌いか。

それは、堅い・几帳面・金持ちばっか・頭が良さそう・スーツ・古い組織というイメージがあったから。自分が一番苦手で、嫌いとする仕事だったからです。

そして、嫌になったら直ぐに辞めればいいやと。

フリーターで音楽を作り続けていたいと。

「気づけば全店を統括する立場に」

このように表現すると、敏腕マネージャーのように思われそうですが、全くそんなことは無く。いわゆる本部勤務というやつです。全店の営業方針の作成や数値の管理、商品の作成やプロモーション等に関する業務を行っている部署の中間管理職です。部下は全員年上。

入社当時の僕を知る上司は、偉い出世したと驚きます。

確かに今のポジションは俗にいうキャリア組という奴です。

入社当時の僕は、営業成績も下から数えた方が早いくらい典型的なダメ営業マンでした。

なぜ営業成績が悪かったのか。

それは、上司から教えてもらった売りつける営業スタイルが嫌で嫌でたまらなかったから。

全ては成績のため。店の数字のため。実績至上主義のための営業。

資金を必要としていない企業に無理やりお金をたくさん借りてもらう。

だからお世辞を言う。媚びを売る。でも、お客様を心の中ではバカにしている。

だから、お客様の敷地から出た途端、悪口を言う。

もう辞めようかと思う日々もありましたが、どうせ辞めるならやりたいようにやってからと。

営業スタイルを変え。

経営者と徹底的に会話することに時間を費やすことにしました。

創業当時の苦労話・業界の面白さや闇・経営のコツや儲かる話・よく行く飲み屋・若い頃の話・初めての恋人の話etc

「愛と尊敬」の気持ちを込めて真剣に話を聴き、本心から共感する。

機会があれば、自分の生い立ち、大学時代に出会った仲間やそこで経験したことの話をするようにしていました。

すると3ヶ月もすると不思議なことが起こり始めます。

向こうからお金を借りたい、貯金をしたい、成績が困っているなら協力してあげるよと話が舞い込み始めます。

また、駆け出しの小僧から、寝るまも惜しんで働いた結果、年間数十億を叩き出すまでに大きくした相当気難しい経営者の方から

「金融機関の人間なんて、真面目なやつばっかでちっとも面白くない。融通も利かない奴ばっかで使えない。でも金づるだから話ているだけ。でも、お前は、今までうちの会社に来たやつとは違う。」と言われ、結果、半年働かなくて良い金額の借入の申し込みを受けることになりました。

そんなこんなで、気づけば、成績上位者の常連に。

そして、今では、全店の営業に関する業務を管理する部署に。

いわゆるキャリア組に入ったわけです。

「新たな壁と挑戦」

全ては、Hip Hopを通じて学んだ「Love&Respect」を大切にした結果です。

集めてきたお金を必要としていない人に貸すことが当たり前になっている

成果主義の金融業という自分にとっては最悪な環境の中でも、

暖かい心を持って、一生懸命頑張って、歯を食いしばって生きてきた人達の力になりたい。

それ以上でもそれ以下でもありません。

「逆境の中でも、自分の信念を辛い抜いて働いてく。」

「冷たい世の中でも、温かい存在でありたい。」

その気持ちだけで、ただひたすら働いてきました。

そして、今、僕は、新たな壁にぶつかっています。

”金融機関で働くことの限界”です。

金融機関は、低金利な貸出金により減少する収益、人口減少による経済縮小に伴う収益の先細りを改善すべく、より収益と効率を求めるビジネスモデルへと変化しようとしています。

会社を存続するため効率化と収益確保に走る。

当たり前のことかもしれませんが、僕にはどうも息苦しい。

「収益は、社会の役に立ち、誰かの役に立った結果である」と思うからです。

サラリーマンの限界を感じています。

なので、今僕は、会社を辞めようかなと思っています。

それは、僕がHip Hopから学んだエッセンスをもっと多くの方に還元したいと思うから。

真面目にやってるだけなのに何故か理解されない。

信念を持ち自分の好きなことを探究しているだけなのに、何故か理解されない。

そんな人達がもっと生きやすくなるよう

「不器用な人がもっと輝けるような世界を作りたい」

その一心で

「利己的で排他的な冷たい世界でも 温かく誰かと繋がっていくコツ」

をお届けしていきます。

「さいごに」

最後まで読んで頂きましてありがとうございます。

非対面が当たり前になり、合理化が進んでいく世界でも、

人の温かさを通じて、少しでも元気になって生きていく人が増えたら、

とても嬉しいです。

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