見出し画像

ドキュメンタリー《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》日本語訳台本 エピソード2「戦時下のボレロ」

日本モーリス・ラヴェル友の会では2016年5月よりフランス国内で報じられてきましたラヴェルの著作権や遺産問題について折に触れてきましたが、その時期、フランスのテレビ局やインターネット上で公開されましたドキュメンタリー映像《Qui a volé le Boléro de Ravel ?》(誰がラヴェルのボレロを盗んだのか)の監督であるファビアン・コー=ラール氏とコンタクトを取り、この映像作品の9章のエピソードの日本語訳の翻訳権を得て、2017年から2018年にかけて連載企画として当友の会Facebookページにて台本を掲載しました。

今月「ボレロ」裁判が始まったことを受けて、改めてラヴェルの著作権・遺産問題を振り返るために、こちらnoteにて再掲いたします。

上のYouTubeの映像と共にご覧ください。
ピクチャインピクチャの設定で台本と映像が同時に観られます。


◆ドキュメンタリー《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》エピソード2

1938-1947年「戦時下のボレロ」


1938年1月。モーリス・ラヴェルは子孫を残さずこの世を去った。しかし、何か遺言はなかったのだろうか?

-マニュエル・コルネジョ(仏ラヴェル友の会 会長)
「奇妙なことだが、モーリス・ラヴェルは遺言書を残さなかった。しかしそれは、過酷な病が、色んな細かいことまで考える力を奪っていったのだろう。もともと物欲とは無縁の人だったからね。」

弟のエドゥアールは、モンフォール・ラモリーのラヴェルの家ベルヴェデールだけでなく、作曲家と楽譜出版社のルネ・ドマンジュが交わした契約に関する諸々の権利も継承していた。

では、《ボレロ》に関してはどのような契約になっていたのだろうか?

-アンドレ・シュミット(弁護士)
「誰が見ても、その契約書に中身が無いと分かるだろう。『私は決められた金額で売ります』という文言のみの、全権放棄に等しいものだった。『私は20,000フラン(訳注:当時レートから日本円に換算して約160万円)の請負金によって自分の権利の全てを放棄します』とね。SACEM(フランス音楽著作権管理協会)の権利もあったが、たったそれだけだ。その他の全ては出版社に行くようになっていた。」

新しく文化大臣に就任したジャン・ゼイが改革したかったのは正に、この種の不当な(著作権)契約条項であった。国会の場で彼が試みた著作権法の改革は、出版社の利益を脅かすこととなる。

-アンヌ・ラトゥルヌリ(歴史家)
「この闘争において、象徴的な人物が2人いた。一人は、この(著作権改革)法案を提出したジャン・ゼイ。もう一人は奇遇なことに、1928年、ちょうど《ボレロ》が世に出たその日にデュラン社の社長に就任したルネ・ドマンジュよ。」

ルネ・ドマンジュは国家によるこのような干渉に対して反対を表明した。
「出版社に対して行われた、ある種の略奪である。」

-アンヌ・ラトゥルヌリ(歴史家)
「彼はフランス人民戦線の出す改革案全てに対し強硬な反体派で、もちろん、ジャン・ゼイが提案した著作権法の改革案についても大反対だったわ。」

そんなドマンジュの杞憂は、歴史の風に吹き飛ばされた。ドマンジュ議員が共産党の解散動議を提出した頃、1939年9月1日、ジャン・ゼイ大臣はダラディエ首相に対し、自身が軍隊に加わるために大臣解任を要求した。

その翌日、フランスはドイツに宣戦布告し、ジャン・ゼイの改革は終わりを告げる。

大西洋の向こうで吹かれている、ベニー・グッドマンのクラリネットによる《ボレロ》は、最も初期のジャズバージョンの一つである。

1940年6月。フランスは膝を屈し、ナチスの旗がパリに掲げられた。

ルネ・ドマンジュは、権力を拡大してゆく。彼はペタン元帥(訳注:ヴィシー政権元首)によって音楽商業・産業組織委員会の議長に任命された。そして外国との協力関係を広げたいと述べた。その機会は1941年6月20日に与えられた。

シャイヨ宮殿に貼り出されたポスターにはラヴェルの肖像が掲載され、《ボレロ》は満席の聴衆の前で演奏された。《ボレロ》は不本意にも、ルネ・ドマンジュの野心を受け継ぐ大使役を担ってしまった。

ヴィシー政権によるユダヤ人の地位に関する(差別的な)法的拘束は、フランス、そして芸術界を脅かすこととなった。

ユダヤ人作品のラジオ放送を禁じ、それらのリストが作成され、資金は押収された。

ラヴェルの最初の作品(訳注:《古風なメヌエット》)を出版したエノック社は、ナチスの経済政策アーリア化の犠牲となり、出版社は売却を余儀なくされた。

-ダニエル・エノック=マイヤール(現エノック社 社長)
「誰も助けてくれなかった。私の祖父はSACEMの理事だったし、レジオン・ドヌール勲章も持っていた。でも、誰も彼らを助けなかった。」

SACEM内部でも、ある問題に直面した。「ユダヤ人の権利料の振替はどうすればよいのか?」。法務部長はユダヤ人問題総合委員会(CGQJ)にその回答を求めた。

1941年11月17日、SACEMの全会員に通達があり、明確にこう伝えられた。「あらゆる虚偽のアーリア人(非ユダヤ人)申告は、強制収容所行きとなります」と。

通達文には、ジャン=ジャック・ルモワーヌという人物の署名があった。30年後にルネ・ドマンジュと《ボレロ》の権利争いをすることになる人物である。

ラヴェルの友人にも、明らかな脅威が迫りつつあった。《ボレロ》の女神である、イダ・ルビンシュテインはロンドンへ避難し、負傷兵のために資産を捧げた。

ラヴェル最後の弟子であった、若き作曲家マニュエル・ロザンタールは危険にさらされていた。

-マニュエル・ロザンタール(モーリス・ラヴェルの弟子、作曲家)
「1941年、ヴィシー政権の法律により私の身柄が拘束された。ラヴェルの弟エドゥアールは、正当な手続きを経てペタン元帥に手紙を書き、こう伝えた。『元帥閣下。私の兄モーリスがもしこの世にいて、弟子のマニュエル・ロゼンタールや他の多くの人たちに閣下が行った仕打ちを知ったら、きっとフランス国籍を返上するでしょう。』」

人種差別法を逃れたレイ・ヴァンチュラは、仲間のミュージシャンたちと共にリオ行きの船に乗った。メンバーには若きアンリ・サルヴァドールもいた。彼らにより、《ボレロ》はスウィングのアクセントを得た。

その8日後、別の使節団がパリを離れた。
ニュース抜粋
「ウィーンでは19カ国の代表が一堂に会した。フランス代表のトップは…」

…その中に、ルネ・ドマンジュの姿があった。
全員、ヨーゼフ・ゲッペルスの招待に応じた者たちである。

その翌年、大通りに張り出された《ボレロ》のポスターに女優アルレッティが掲載された。ジャン・ボイエ監督による喜劇映画に出演したのだった。

フランスの民兵が行進していく。
その中に新メンバー、ルネ・ドマンジュが加わっていた。

連合国の上陸作戦まで1ヶ月と2日前となる日、シャンゼリゼ劇場でカラヤン指揮による《ボレロ》が演奏された。会場を埋め尽くすドイツ将校たちの前で行われた上演としては、これが最後のボレロとなった。

パリ解放の日のニュース抜粋
「8日間の戦いの果てに、再びパリを、本物の、永久不滅のパリを取り戻したぞ」

パリ解放はルネ・ドマンジュの政治活動に終止符を打たせた。ドマンジュは国家に対し損害を与えたとして告訴された。しかし確固たる証拠が見つからないため、訴訟は1年半後に閉じられてしまう。

1946年9月、通称ピュイ=デュ=ディアブル(悪魔の井戸)と呼ばれる場所でジャン・ゼイの遺体が発見された。ドマンジュの議会のライバルは、民兵によって2年前に暗殺されていたのだ。

サン=ジャン=ド=リュズでは、エドゥアール・ラヴェルが昔の上司の未亡人アンジェルと、長年の付き合いを経て結婚した。

彼は69歳で、1947年のこの年、コロンビアレコードがポリ塩化ビニールのレコード盤を発明した。

スタン・ケントンはボレロの即興演奏を披露。

1947年の暮れ、元議員ドマンジュに対し、法の手が迫っていた。今回は敵との内通罪で告訴されたのである。

ラヴェルの楽譜出版者ドマンジュは、再び刑を免れることができるのだろうか?

そして、エドゥアール ・ラヴェルは兄の名誉を守るためにどのような行動を起こすのだろうか?


(エピソード3につづく)

※当ドキュメンタリーの日本語訳の翻訳権は日本モーリス・ラヴェル友の会に帰属しております。翻訳文の無断コピー及び転載は禁止となっております。なおシェアは推奨しております。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?