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ドキュメンタリー《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》日本語訳台本 エピソード3「事故」

日本モーリス・ラヴェル友の会では2016年5月よりフランス国内で報じられてきましたラヴェルの著作権や遺産問題について折に触れてきましたが、その時期、フランスのテレビ局やインターネット上で公開されましたドキュメンタリー映像《Qui a volé le Boléro de Ravel ?》(誰がラヴェルのボレロを盗んだのか)の監督であるファビアン・コー=ラール氏とコンタクトを取り、この映像作品の9章のエピソードの日本語訳の翻訳権を得て、2017年から2018年にかけて連載企画として当友の会Facebookページにて台本を掲載しました。

先月14日、フランスで「ボレロ」裁判が始まったことを受けて、改めてラヴェルの著作権・遺産問題を振り返るために、こちらnoteにて再掲いたします。

上のYouTubeの映像と共にご覧ください。
ピクチャインピクチャの設定で台本と映像が同時に観られます。


◆ドキュメンタリー《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》エピソード3

1948-1957年「事故」


1948年、ルネ・ドマンジュに対する告発は証拠不十分で取り下げられた。

彼は出版社の仕事を続けつつ、利益を秘密裏に管理していた。
こうして、ラヴェルの音楽著作権は没後50年間保護されたのである。

《ボレロ》の著作権が消滅する日は、この段階においては1988年1月1日であった。

サン=ジャン=ド=リュズにて、エドゥアール・ラヴェルは平穏な生活を送っていた。

彼は70歳で子供も持たなかったが、兄の遺産を守る義務があった。

それは誰に引き継ぐべきなのか?

マニュエル・コルネジョ(仏ラヴェル友の会 会長)
「1947年、エドゥアール・ラヴェルはデュラン社社長のルネ・ドマンジュに懇願して、将来『モーリス・ラヴェル博物館』を創設するため、ベルヴェデール(ラヴェルの家)と自筆譜などアーカイヴに関してこの先どのようにしたら良いか解決策を探していたんだ。」

エドゥアールは迷っていた。モーリスの望みは何だったのか?

ダニエル・エノック=マイヤール(現エノック社 社長)
「モーリスは財団を作りたがっていたわ。もちろん自分の弟に財産を遺すつもりではあったけど、若い作曲家のために自分は何かしなければならない、と弟に伝えてそれを引き継がせたのよ。」

財団は1949年2月に設立され、モーリス・ラヴェルに帰属する全ての財産を保護する責務を負っていた。

しかしながら、未公開の自筆資料や未完の楽譜についてはどうだったのか?

エドゥアールは1948年に受けたインタビューでこう断言した。「兄の草稿類は確かに残っている。だが、その中の一つ足りとも発表されることはないだろう。」

RCAが45回転のシングル・レコードを世に出した。

ラジオ局パリ・インターの視聴者は、ピエール・ダックとフランシス・ブランシュがボレロの曲に合わせて政治パロディを歌う《笑いの党》を聴いた。

国会では、戦争の期間失われた著作権者の利益を回復するための法律(戦時加算特例法)が可決された。

アラン・リシャール(上院議員)
「武力衝突は社会生活や国の機能を激しく混乱させ、その期間は著作権保護による権益も守られない。従って我々は、戦時加算を行うことでその継続性を回復させることにしたのです。」

エマニュエル・ピエラ(弁護士)
「とりあえず、デタラメな日付を定めたのです。休戦日でもなく、平和条約の日でもない、あるいは戦争被害による賠償金を定めた国際条約の日ですらないないのです。そのやり方は恣意的と言ってもいい。激しい交渉の末、8年と120日という加算期間を決定したんです。」

《ボレロ》の著作権が消滅する日は、1996年5月1日に延期される。

ジョー・ローランド・クインテットのビブラフォンとコンガによって、《ボレロ》はマンボになった。

《ボレロ》は無尽蔵な外国為替の源だった。

SACEMでは、エドゥアール・ラヴェルは特別なゲストだった。

輝かしい30年代の夜明けから、ラヴェルの著作権を所有する全ての人間は笑いが止まらなかった。

しかし1954年のある日の午後、オートバイが不用意にこの美しい秩序を混乱させようとしていた。

ちょっとしたハンドルの操作ミスが、エドゥアールと彼の妻の人生を転落させてしまった。

重傷を負った彼らは、若い看護師に助けを求めた。

カトリーヌ・イリバレン(看護師)
「ラヴェル氏は、私にマッサージして欲しいと頼んできたわ。でも私はやりたくなかった。『私は看護師です、あなたにはマッサージ師をご紹介します』と言って、私は自分の仕事をした、ただそれだけ。それで私はタヴェルヌ夫人をマッサージ師として彼に紹介したのよ。」

ジャンヌ・タヴェルヌはマッサージ師で、カナリアの販売とボタンの作り手でもあった。かつて鉱夫やカフェ店主を勤めていた彼女の夫アレクサンドルは、自身の美容院をオープンしたばかりだった。

ミシェル・ポミエ(元タヴェルヌの店の美容師)
「タヴェルヌさんを知ったのはサン=ジャン=ド=リュズで私がなかなか仕事を見つけられなかった頃だった。当時、私は絶対に美容を学びたいと思っていて、ちょうど彼の美容院がオープンしたところだったの。毎朝店に仕事に行ったけど、いつも誰もいなかったわ。」

細々と生きていた夫婦にとって、このチャンスはあまりにも美しくあった。ジャンヌは住み込みのマッサージ師となり、アレクサンドルは専属運転手となった。

ラヴェル夫妻の別荘ヴィラ・マイアッツァにおいて、ジャンヌはなくてはならない存在となった。周囲の人々は心配していた。

「策略家に気をつけて。彼女は皆を追い出して全てを手に入れたいと思っている。」

ミシェル・ポミエ(元タヴェルヌの店の美容師)
「彼女が主導権を握っていたわ。『これして、あれして』と言っていたのはいつも彼女。それはよく覚えているわ。」

1955年、エドゥアールは一連の決断を下した。

ベルヴェデールは、(小説家の)プルースト家の元家政婦であるセレスト・アルバレが訪問客の受け入れを行うこと。彼女はこの"神殿"の管理人となる。

このアイデアはモーリス・ラヴェルの親友ロベール・ル・マスルによるもので、2人はベルヴェデールで《ボレロ》を作曲していた1928年頃に知り合っていた。

サン=ジャン=ド=リュズで、エドゥアールはラヴェル財団に100万フラン(訳注:当時レートから日本円に換算して約290万円)の寄付と、年20万フラン(約58万円)の収入を約束した。

その決定においてアレクサンドル・タヴェルヌは、エドゥアールの証人2人の内の一人であった。

エドゥアールの妻アンジェルは事故による怪我から回復することなく、1956年に亡くなった。

ヴィラ・マイアッツァの守衛は次のように書いている。

「ラヴェル夫人の死後、タヴェルヌ氏は一人で戻ってきました。そして私に宣言したのです。これから別荘のすべてを彼ら(タヴェルヌ夫妻)が管理する、と。」

ル・マスル医師が8月にその別荘を訪れて数日を過ごし、メモを取った。

「彼(エドゥアール)の目や身体の状態を見て、私はすぐに彼がモルヒネの影響を受けていると結論づけた。」

妻の死から半年後には、エドゥアールはヴィラ・マイアッツァをタヴェルヌ夫妻に売却してしまった。

公証人の目をかいくぐって、この取引は500万フラン(約1440万円)で終了する。

カトリーヌ・イリバレン(看護師)
「あの人たちは、どんなお金であの家を買ったんでしょうね?」

ミシェル・ポミエ(元タヴェルヌの店の美容師)
「彼らは、それだけのお金を稼ぐほどの仕事をしていませんでしたよ。到底無理ですよ。それほどの人たちじゃない...」

アンドレ・シュミット(弁護士)
「偽装贈与であることは明らかなんですよねぇ。もう、単純な話ですよ。」

1957年、《ボレロ》は再び上演された。今回はメキシコの劇場だった。それは、キャバレーのダンサーと恋に落ちた靴磨きの男の物語だった。

ペルーでは、アンデレス・デ・コルベルトによって《ボレロ》はサルサ風に編曲された。

その年、エドゥアールの専属マッサージ師のジャンヌ・タヴェルヌは、彼の代理人としてクレディ・リヨネ銀行に口座を開き、その他の口座も閲覧できるようにした。

偶然なのだろうか、それより少し前、SACEMからスイス・ジュネーブ在住のマルク・ペランという人物に手紙が送られた。手紙はモーリス・ラヴェルの相続人はエドゥアール・ラヴェルただ一人、彼の弟であると伝えていた。

しかし、一体誰がモーリス・ラヴェルの相続継承について問い合わせることができただろうか?

マルク・ペランとは誰なのか?

そしてヴィラ・マイアッツァの壁の内側で、実際に何が起きていたのか?

彼の近しい人達が恐れていたように、エドゥアールは自由意志を失ってしまったのだろうか?



(エピソード4につづく)

※当ドキュメンタリーの日本語訳の翻訳権は日本モーリス・ラヴェル友の会に帰属しております。翻訳文の無断コピー及び転載は禁止となっております。なおシェアは推奨しております。


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