未熟の旬


ずっこけ初披露から一週間後、日舞の先生のお誕生日会に呼ばれた。
場所は地元で有名な老舗料亭の舞台付きのお座敷。
こちらとしては粗相がないように、大人しく黙ってお呼ばれするのみ。

店の前は今まで何度と通り過ぎるも、中に入ったことはないので、老舗料亭の異空間に一人ソワソワとする。びっくりするくらい落ち着きがなくなる。
「ここ貸し切って芸妓さん呼んだらいくらくらいかかるんやろ?」など下世話なことを考えながら、無駄にフラフラと座敷を行ったり来たりする。

先生や先輩方が来られ、一気に活気付く。
会食の前に、一人ずつ今までお稽古した曲を披露していく。
完璧に踊りきる方、控えめに踊る方、振りを忘れても堂々と踊りきる方、様々だ。
そして私は数ヶ月お稽古をサボってる身としてはなんだが、家では自主練にちょこちょこ励んでいたので、「ダメで元々」精神で踊り切る。
お世辞かも知れないが先生にお褒めの言葉をいただいて、やっぱり練習は裏切らない、と思った。
そして色々考えたとて、芸はちっとも磨かれないし、上手くなるはずはない、とどこかで吹っ切れたような気がした。ただ踊ればいいのだ、と。

人前で踊ること、実践は特に度胸も試される。
何より人の踊りを見ることが、こんなに勉強になったことはない。
先生の踊りは、型の中にある何十年と積み重ねられた、先生の歩んできた歴史、想いが込められている。一、二年で容易くできるものではない。
それは他の先輩方もそうで、実に堂々と自信を持って踊られている。その姿に勇気づけられた。それぞれにその人の想いが込められた、大変美しい踊りだった。

だが、今の自分には未熟な旬というものがあるのではないか。
未熟だから思い切って堂々とできることもある。
まだ習って間もない頃、勢い余って扇子をぶん投げてしまい、場内大爆笑、先生苦笑い、の図はいい思い出である。
未熟なりに、恥をかきながら、堂々と踊りたい。
威厳のある立派な踊りを目指してるわけではないのだ。
やはり庶民の踊りが好きだし、できれば老若男女みんなで踊りたい。
何よりもみんなで笑いたい。

そのためには基本の型も十分に知った上で、やるのとやらないとでは違う気がしてならない。
密かに宴会芸の一つ、どじょうすくいを死ぬまでに習得したいという野望もあるのだ。とにかく誰かを笑わしたい。まだまだこれからやることは、たくさんある。

発表後、和やかに会食し、持ち込みのケーキで先生をお祝いする。
蝋燭の火を消す先生の頬がかすかに赤く染まり、初々しい姿だった。



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