田中東子と研究不正: 改ざんツイート&改ざん論文 【証拠あり】
要約
田中東子が執筆する論文に以下の研究不正を確認した。
Twitterからの引用における改ざんと隠蔽
オタクヘイターとして有名な瀬川深のツイートを、あたかもオタク側の主張のように引用
学術の基本である出典明記すら避け、第三者による検証を著しく妨害
英語論文の翻訳引用において、原文にない語を加え真逆の意味へ改ざん
田中論文: SNSで時代が変わった。生産者と消費者の区別はもはやない
実際の原文: 生産と消費の区別なんて昔から存在しなかった
国会図書館で原論文を確認済み。1本8,000円の高額論文だから誰も確認できないとでも思ったのだろうか
はじめに
日本女性学会の学会誌「女性学」30号(2023年4月発行)に掲載された田中東子教授の論文「メディアとジェンダー表象」を読んだ。
きっかけは、@chat_le_fou 氏の問題提起である。
このツイートを皮切りに、@chat_le_fou氏、@skerenmi氏、@eguchi2023氏、@cagami_pica氏、@dokushoa氏、@LazyWorkz氏、@ura_account55氏ら多数のツイッタラーが、田中論文の検討を開始した。
というのも、今まで誰も話題にしていなかったのが不思議なくらいに、「ツッコミどころ満載の論文」だったからであろう。
私もこの流行に乗って、田中論文の検討を行った1人である(Xには書いていない)。
この記事は、その過程で「研究不正」と思われる見過ごせない問題を発見したため、記録として残すものだ。
なお、本記事では研究不正に焦点を絞り、他、SNSですでに指摘されている数多の問題点には触れない。
研究不正とは?
第1の不正:ツイートの改ざんと出典隠し
本節では@eguchi2023と@dokushoaの指摘を紹介しつつ、その延長上で私が発見した不正について解説する。
代表を決める方法論の未記載
論文を読み始めてまず度肝を抜かれるのが、
「女性の表象を批判すると返される代表的な反応」
の紹介とされる、珍妙な表である。
左は、1990年に刊行された書籍『ポルノ・ウォッチング』からの引用、
右は、2020年代のツイートからの引用とのこと。
田中東子は、両者の類似性を指摘することで、30年の時を経ても、「同じような議論が繰り返されている」と主張する。
しかし、まともな感性を持つ人間ならば、
「代表性をいかにして決めたのだろうか?」と方法論が一切示されていないことに、強い嫌悪感を覚えるはずである。
@eguchi2023が指摘する通り、途方もない数のツイートが日夜投稿されているのだから、
この論法では、いい加減に代表例を選びさえすれば、どのような結論であれ導くことができるであろう。
よって、最低でも
RTやいいねが多い
有名なツイッター投稿者(インフルエンサー)の発言である
といった抽出条件を設け、幾ばくかの客観性を担保することが絶対に必要である。
なぜ引用元を明記しないのか?
さて方法論を明記していないとはいえ、これだけでは単に未熟な論文というだけである。
引用されているツイートを検証した結果、たしかに代表性があるツイートだということになれば、問題はない。
しかし、その検証が不可能なのである。
@dokushoaが指摘するように、田中東子は引用したツイートのURLを全く記載していない。
これは研究倫理上、大問題である。
学術研究は、他の研究者が同じデータにアクセスし主張の妥当性を確認できるという、検証可能性をもって信頼性を担保している。
「わたしを信じろ」式の論文を書いてはばからないのは、学問への背信行為と言って過言ではない。
そしてもちろん法的観点からしても、引用要件の1つである著作権法48条に定められる「出所の明示」を満たさない。
必要なのは、たったの一手間、リンクを明記することだけである。
これを避け、法と研究倫理に違反する選択をした意図は、どこにあるのか。
このツイートは本当に実在しているのか?
ツイートの都合の悪い部分を切り取っているのではないか?
このような疑念が生じるのは、まったく当然の帰結である。
検証結果
さて出典がないならば、頑張って探すしかない。
結論を言えば、4つの引用ツイートの内2つについては、Xの検索にヒットした数百もの投稿の中から、なんとか発見できた。
発見したツイートを見るに、やはり田中東子はやましいことがあったからこそ、URLを明記しなかったのだと考えざるを得ない。
出典を発見できたツイートとは、これである。
この引用元は、瀬川深である。オタク叩きで名の知れた瀬川深である。
引用RT元まで読めばさらに明瞭であろう。
このツイートは全く、
女性の表象を批判したときに返された反応ではない。
事実は逆だ。オタクが女性の表象を擁護したときに返された反応なのだ。
代表性以前の問題で、全くのカテゴリ違いである。
90年代の書籍からの引用「性の商品化がいけないとなると、モテない男はどうすりゃいいんだ」との対比なぞ、全く成立しない。
このような誤りが、ミスや手違いで生じるだろうか?
結論として、私は、田中東子の明らかな改ざんと判断せざるを得ない。
ついでにもう1件出典を見つけたツイートとは
のことで、https://x.com/jingoiitihodi/status/1461464589711773696 が出典である。
ここにも3つほど問題点があるが、瀬川深引用に比べると重大性に欠けるので、省略する。
第2の不正: 有料の壁に隠れて、引用論文改ざん
前節とおなじく、不正の発見過程を辿る形で記述する。本題は最後である。
引用論文の不可解な矛盾
まず、問題のセクションで田中東子が何を述べようとしているか紹介しよう。
田中東子の論文をそのまま引用すると長くなるので、手短に要約する。
昔のメディアは、新聞/雑誌/ラジオ/テレビなど、表象の送り手と表象の受け手が分離していた。
現在では、SNS など一般の人々が表象の消費者であると同時に生産者になれるメディアが普及した。
よって現代は「Producer(生産者)」+「Consumer(消費者)」でプロシューマーの時代と呼ばれる。
ここまでは、一応問題ない。問題は次である。
この部分を読んで私は強い違和感を覚えた。
なぜか。
確かにSNSの普及で、誰もが情報の生産者になれる時代になった。
しかし一方で、ほとんどの生産・消費は前時代から全く変わっていない。
noteを書くために必要なパソコンも電気も、生産者によって作られたものであり、我々は単に消費するだけである。この状況は昔から変化していない。
ゆえに前時代からの変化として「純粋な生産/消費というものはもはや存在」しないなどと語ることは、全くのナンセンスである。
さて、私は前節の検証結果より、田中東子が改ざんを行う人間だと知っていた。
故に、この矛盾の原因として、疑うべきは論文の改ざん引用である。
論文の検証を妨げるペイウォール
しかし検証しようとしても、このリッツアー論文は無料では読めない。
なんとお値段は日本円にして約8,000円である。
田中東子の所属する東大であれば、電子ジャーナルとサブスク契約しているので、全部タダなのだが……。
検証したくても検証できない。アカデミアの不実はペイウォールによって守られているのである……。
とはいえ幸いなことに、日本には国会図書館がある。
国会図書館も、東大と同じく多数の電子ジャーナルとサブスク契約しているので、出向く労を厭わなければ、論文の閲覧が可能だ。
で、行った。やはり、改ざんである。
検証結果
以下のファイルは、国会図書館で複写してきたリッツアー論文の2ページ目だ。33ページ中の1ページであるから、公正な引用として合法であろう。
田中東子訳を再掲する。
原文を前後の文脈を含めて翻訳する(太字は原文で斜体になっている箇所である)。
原文を読めば、私の違和感が正しかったことがはっきりと分かる。
リッツアーはいわば、昔からずっとすべてプロシューマーだったのであり生産と消費の時代なぞ存在しないと、述べているのである。
田中東子は原文を切り取り、「もはや」という原文に存在しない語を付け加えることによって、リッツアーが「今日のプロセス」について語ったのだと主張する。引用箇所におけるリッツアーの真の主張とは全くの逆だ。
しかしその様な誤読が起こりうるのだろうか? 田中東子はイギリス政治で博士論文を書いた英語に堪能な教授である。
原論文では、引用箇所の直後で「歴史上のいかなる時点においても」とはっきり強調されているのであるし、直前でもマルクスという19世紀の人物に言及している。
やはりこれも、田中東子の改ざんと考えるのが妥当であろう。
なおちなみに書籍『ジェンダーで学ぶメディア論』収録の論文「消費文化とブランド化――ジェンダーを再階層化するランク社会」においても、田中東子は同様にリッツァー論文を改ざん引用している。
私見:本件の示唆するもの
求められる対応
このような明白な改ざんが確認された以上、日本女性学会は田中東子に論文の撤回を求めるべきだろう。また、研究者として基本的な倫理に反する行為を行う人物に学生指導を任せることは適切とは言えない。東京大学には、一定期間の停職と研究倫理講習の義務付けなど、然るべき措置を取ることが求められる。
しかし、こうした対応は本当に実現するだろうか。
人文学に問われる研究者の矜持
研究不正と聞けばまず思い浮かぶのがSTAP細胞事件であるが、実際、医学・生命科学分野では撤回論文の数が非常に多いと言われている。
これは、第一には不正を促す文化/環境の存在を示唆するけれど、
しかし一方で、不正が発覚すれば速やかに調査・処分する体制が整っているということも意味する。
不正を行う不埒な人間はいるものの、分野全体としては真理の探求という学術の本質は保たれているのだ。
ところが人文学、特にジェンダー学の現状はどうだろうか。
学術研究というより社会運動としての性格が強く、内部からの不正告発や検証が極めて困難な状況にあるように見える。
なんなら不正の指摘を逆に「反フェミニズム」のレッテルを貼って、社会運動に利用する方にインセンティブがあるのではないだろうか。
STAP細胞論文の不正告発に女性差別を見出す生命科学者はいなかったが、本件ではどうなるだろうか。
倫理学者の江口聡の指摘は示唆に富んでいる。
不審な論文・論考の具体例が、江口聡氏の記事でいくつも紹介されているが、すべての事例で何らの処分・調査も行われていない。
皮肉なことに、論文中で田中東子は、SNSを「解決の糸口を求めない無責任な言論空間」と批判している。
しかし本件を踏まえれば、その批判は人文学界自身に向けるべきはないかと思わざるを得ない。
SNSで議論になれば即座に指摘される数多の問題点が、人文アカデミアではなぜか見過ごされ、学術実績として積み重なっていく……。
学術研究における責任という概念が、この分野において十分に機能しているのか、本件は重大な疑問を投げかけているのである。