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7、終電ランデブー

 いざという時は、こんなときに限ってという時である。つまり、いざという時に備えられることって意外とないということだ。

 現に私は、ド平日の終電に乗り最寄り駅を出ようにもチャージ金額が足らず、駅のホームでターミナルをしている真っ最中だ。チャージしようとするもイマドキには不釣り合いな千円札のみ受付可のチャージ機に対して、財布の中にいらっしゃるのは今日に限って福沢諭吉のみである。残念なことに、私の最寄り駅はほぼ無人(時に若者と駅員が喧嘩をしているのを見かけたことがあるのでここでは敢えて無人と呼ぶのはよそう)なので術はなし。
 と言いたいところだが、術は完全に断たれたわけではない。実は、以前にこの改札を潜り抜けたことがあることを覚えていた。しかし、もう私も成人を迎えた身であり、改札をしゃがんでセンサーを避けたり、改札ごと飛び越えるという技をこなしていたのは中学生の若かりし頃の話である。八年ほど前の技を繰り広げることは可能だろうか。いや、違う、そうではない。問題はそこではない。二十歳にもなって、そのような逃げ技でよいものか。柔道の授業で寝技をしつこく繰り広げる大人を見ては、なんて張り合いのないとよく思ったものだが、果たしていつまで攻撃的な姿勢を崩さずにいられるのか。急な不安が襲い掛かり、あたりを見回す。カメラが見える。あぁ、逮捕だ。きっと逮捕されるに違いない。何だ、罪は何罪だ。自動改札誤魔化し罪か。きっと明日の朝刊は『監視カメラに映る。女子大学生(20)、自動改札のセンサー誤魔化し料金未払いで去る。無人駅を中心に自動改札機センサー見なおしか。』に決定だ。いや、もう二十歳なのだから実名報道か。一躍、有名人である。両親にはなんと言われるのか。法廷に立った際には、絶対に千円札しか受け付けないこだわりをもったチャージ機を提訴すると心に決めている。そして言うんだ、それでもわたしはやっていない。見える、見えるぞビジョン。愚かな思想を転換すように、回送列車が普段よりスピード増し増しで通過する。…そうだ、線路だ。終電も過ぎ去った今、線路も無人ならぬ無車だ。サッと線路に降りて、シャッと道路に戻ればいいのだ。そうすれば、私は罪人ではなくもはや小さな七不思議のようなものだ。終電が終わった後に、ホームから線路に飛び出す臆病でかつ繊細な神話として扱われるはずだ。幸い今日のコーディネートは白のワンピース。それっぽくるっとターンなんかしちゃって。
…いや待てよ?私は普段ならどのように解決していた?ターン中の視界、左界隈に光り輝く赤色のお客様インターホン…!!そうじゃないか、普段はこのスピーカーから顔も名前も知らない隣町の駅の駅員とやりとりをして助けてもらってきたじゃないか。落ち着け、落ち着くと全てがうまくいくのだ。

『ピンポーン………………………本日のお問い合わせ時間は終了いたしました。』


 …なぜなんだ。終電が去っていくともう業務は終了なのか。このように終電トラブルに悩まされる人間もきっと少なくはない。これはなんとかして鉄道会社に意見すべきである。いや、顔も見えない駅員も人間だ。終電が去ったらすぐに退勤し、妻がレンジで温め直してくれた肉じゃがとビールを流し込む。運良く夜更かしをしていた息子と1日の終わりに顔を合わすことができて嬉しいからか、優しく夜更かしせずに早く眠るんだよ、なんて柔らかく声をかけるのだ。違う、そうではない。そんなことではない。いつも私は余計が多い。今日だって、帰り道に寄ったコンビニのお会計時、福沢諭吉を差し出していたらこんなことにはなっていなかった。天は人の上に人を造らずと云うも、福沢諭吉をお会計時に差し出すときはいつだって億劫だ。のどが渇いた、とりあえず飲み物を買って喉を潤すか。自販機の前で何を買うか悩む。小銭がない。そうだ、小銭がないから困っている。呆れるより前に、これは流暢に話す関西の某コンビネタの流れに似ていると呑気に思い出し、頬がゆるむ。ガムを噛もう。わたしは、とうの昔に気付いていた。既におもしろくなってきていることに。
 ピンチはチャンスなどではない。ピンチはブルースだ。何でもありで、何にでもなる。とは言いつつも、実は音楽のこともよく知らない。私は何事にもミーハーなので、よくこのような支離滅裂とした思考回路を旅している。このまま朝を迎えるのも大いにありえるな。というより、大いにありだ。大歓迎。大賛成。ここで一夜を過ごし、始発のサラリーマンの顔に「ご苦労様です」と声をかける。この寒い時期の始発なんてほとんど夜だ。私の言葉に、朝か夜かわからなくなったサラリーマンたちが不思議な空気と共に電車に乗り込む。サラリーマンを見送った後は、駅員の出勤を出迎え「お勤めご苦労様です」と微笑むのだ。目もおなかもまるまるにした駅員に昨夜のことを告げると「随分長い旅路でしたね」なんて一声かけられて、駅員の瞬きひとつで、日が登るのだ。そしてわたしは、なんだ思ったよりも夜は短いな、なんてノスタルジーに更けるのだ。その景色はまるでアンドレイタルコフスキーが思い描く作品のようで…

「おーい」
 まだ夜明けも迎えていないはずなのに、改札口から聞きなれた声に振り向く。夢のような奇跡を、人は夢と云う。

「夢じゃないから」
「…エスパー?」
 声に全部でてたよ、と身体を震わせて笑ってみせると彼の掛けている瓶底眼鏡が少しズレる。ずっと勉強に勤しんでいたそのシルエットをよく知っている。どうやら本当に現代に生きる生身の人間のようだ。

「さて、僕は今から君の救世主になることができるんだけど、君はどうするつもり?」
 もう少し冒険を続けてみたい?と心底意地が悪そうな顔で笑う。
「世界初、意地が悪くて訴えられた人間にしてもいいんですけど」
 君が好きなギネスに載っちゃうなぁ、と面倒くさそうに千円を差し出す、救世主君。

「こんな夜中になにしてんの」
「夜間の駅警備」
「…君はほんとに物好きだね」
 夜間警備の話をしてみると彼はケラケラ笑ったり、うんうんと感心して頷いていた。その度にズレていく眼鏡を、静かに直す。その流れがとても綺麗で、もっと見ていたくて、遠回りを提案する。こんな提案にも「仕方ないなぁ」と前を向く。

「無賃乗車、未遂でよかったよ。僕は君を審判にかけたくないからね。」
「でも、いつだっていざという時はこんな時に限って、という時だよ?だって、」
 起きた後にはもう何もかも終わっているんだよ?と真面目に問うと、彼は驚いた顔をして「さっきも間に合ったじゃん?」と夜の七不思議みたいに笑う。真冬にサンダルで歩く彼の横に並ぶ。少し背が伸びたか。
「さて、道のりも長いことだし、コーヒーでもご馳走になろうかな?」
 彼の瓶底眼鏡はよく見えそうだ。



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