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博徒のオタク、あるいはライトなファンとして

noteを書くようになってから気づけば5年は経っているらしい。毎週日記を書くようになったここ二年近くは、ほぼ毎日何かを書いている。パソコンのキーボードを打つことが好き。タイピングの音が程良いキーボードが好き。手帳につらつらと書くことも好き。

改めましてこんにちは。いせたまみが何故いせたまみという名前になったのかはもう思い出せない。こっちの方が語感が良いからとか、環境を移すにあたり前の名前をもじろうとか、そんなことをしているうちに原型がなくなって何となく丸みがあって良い名前になった。名前がたくさんあることは楽しい、自分の側面のひとつを誇張したような感覚がある。

よく分からないものが好きだ。穏当なのに適当なことをずっと言っていたい。もし自分が何かよく分からないものになってしまっても、誤差が少なくて良い感じで過ごせるのではないだろうか。

羊が好き。ラム肉が好き。ラムしゃぶ大好き。羊の串も好き。ジンギスカンもおいしいし、ラムステーキもラムチョップも良いよね。サイゼでアロスティチーニが出た時は嬉しかったな。

健やかに過ごすこととお金を少しずつ貯めることを努力している。ちょっと軌道に乗ってきたかもしれない。山とか谷とかあるけど進んではいる。
今年もちょっとまとまった金額が必要なので、節制重点でいこう。

人間の細胞は五年も経つと、とっくに細胞なんかは全部新しいものに生まれ変わっていると聞いたことがある。だから五年前に書いた自己紹介を読むと、そんな風に考えていた頃もあったよねと思うし、概ね同意だなと思う場所もある。

コンテンツや人に関わらず、好きだと思っていることそのものは私を救うことはない。のめり込むことの否定ではないけれども、見誤ると自分というものは自分を簡単に潰してしまう。好き思ったものに触発された自分自身こそが自分の人生をより良くする。今は私はそう思っている。

以前書いた自己紹介から

このへんとか、軸をぶらさずやってこれたねという気持ちがあります。

今も引き続きゆるいオタクをやっている。文章を作ることはどうもできるみたいで、時々日記以外の文章を書く。転職前後からはコードも少し書けるようになってきた。それでも理論上可能なのは分かっているのだけど、何をどうしたらこうできるか分からないものもたくさんある。
好きなものはゆっくりのんびり。時々追いつけないことも起きるけれど、それでも好きでいることは自由なのでゆっくり咀嚼している。

オタクにできることはお金を支払うこと、応援すること、祈りを飛ばすこと。これのいずれか。誠意をもって応援の意思を伝えること。これがあってうれしい、あなたがいてうれしいを明らかにすること。できることはそこまで。いくら読者や観客や語り手がいて初めて物事は成立するのだとしても、「私が楽しい」ことと「私が楽しくなるためのもの」の間にある溝は深い。

だから客観的に浅瀬にいようが海底までどっぷり浸かっていようが、博徒のつもりでオタクをやっているという解像度を持っている。この経験やこの代金は何にもならないかもしれないという覚悟と、賭場の中と外を分けて考えようというブレーキを、頭の中でちょっとだけ持っておくのだ。

そして、私の持ち分でどこまで張るかは私の勝手であり、もっと言うと払った代金と私が満足するかどうかに一切の関わりはないと思っている。場の代金が適切か否かの話を己に結びつけると事故しか起きないような気がしている。オタクにできるのは作品内なり人の内心なり板の上なりの不可侵の域と指が触れた気がしたの「気がした」のところだけだから。

推し活ってものを、好きなモノがあって私がハッピーという文脈で使うことは何の問題もないと思う。でも消費行為をすれば私(あるいは私たち)がハッピーになる、消費行為をすれば私たちは何者かになれる(○○の人とかでカテゴライズされたいとかもそう)、というのは一歩間違えれば火だるまになってしまう可能性も持っている。この火だるまになるというのは身の丈に合わない消費活動をしてしまうとか、人間関係のバランスを崩してしまうとか、自分の感覚が麻痺してしまうとか、そんな感じのこと。

だから推し活って言葉自体は私も便利で使うけれど、大元は賭けることだと思っている、そして賭けること自体を楽しむことが一番大切なことだと思っている。賭けを楽しむとは応援すること、祈りを飛ばすこと。それができる賭場に上がるための行動のうちのひとつが、お金を支払うことだと思っている。これはあくまで自分のルールの話ね。

「どれを選んでもいいんだけど、どうしてそれを選んだかの説明ができるようになると良いよ」と、仕事の中で上司に言われたことがある。良いと思ったものは良いのだしそこを信じていい、だからどうしてそう思っていたかは言葉にできるようにしようと。
祈ることは信じることにも近い。応援することにも近い。自分が信じたものに賭けるという意識を持つこと。そして賭けてもあなたの読みが当たるか当たらないかぐらいの見返りしかないという意識を持つこと。もちろん外れても、それ自体は楽しいことだったかどうかを内省することも大事だ。

別にオタクをすることは趣味でしかない。だからどう思ってるかとか、言葉にしなくても別に良いのだけれど、言葉にしてしまうことで腹を括ることをする。この人やこの作品が好きで、賭けているものがあるという自覚で背を正す。推しや好きな作品からのメッセージを受け取れたと形にする。私の場合は言葉だけど、もちろん表現はなんだって良い。語っても絵や形にしても、歌っても踊っても良い。

望んで共犯者であること。娯楽が人を救うのではなく、娯楽に動かされた己自身が己を救う構図でないといけないと思っている。あなただから、これがあるから私は生きているのではなく、あなたがいて、これがあることを受け取れている私がいるということが生きている中にあると認識すること。
そういう風に思っている。

これが今の現在地。もう一度言うけれど、これはあくまで自分のルールの話。いせたまみは何者でもないが、いせたまみではない誰かの一側面ではある。そして、私はその気持ちに賭けたいと思って色々な人の活動を追っている。また五年先ぐらいにnoteを書けていたら自己紹介をアップデートできたら良いね。

それではまた。


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