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第百八十二夜 『夜は短し歩けよ乙女』

ゴールデンウィークの中頃、懐かしい顔ぶれと久しぶりに会おうと高田馬場に集結した。
5年ぶりだろうか。

一足早く駅に到着した私は、かつての職場付近を歩き、まるで今から会う面々との思い出を拾うように飲みの場に赴く。

そこもかつて共に働いた上司と使った店である。

「久しぶり。」

「いつ依頼ですかね。」

最初に合流したのはかつての職場で定時社員であったYさんだ。
世間話なぞをしているうちに、一つ下の後輩のTが合流し、店に入る。

水炊きとつまみになりそうな品を頼む。もちろん、昔話をするために酒も。

「Tも久しぶりだね。N社を辞めて今は保険の営業マンやっているんだっけ。営業マンは最初は面食らうだろう。」

Yさんがニヤニヤしている。
その顔にも気が付かず、Tは私に答える。

「実はYさんの紹介で今の職場に就職したんです。次が決まっていない状況で辞職というわけではなかったので安心しました。」

なるほど。それでその顔か。

「Yさんの仕事って、通信業じゃなかったでしたっけ。」

「君と会わない間に転職したよ。全くいつの話をしているんだか。」

遠回しにしばらく筆が遠のいたことを(今時は指だろうか)責められた。手厳しいものである。

「それは知りませんでしたよ。それでTは楽しくできているかい。」

自身も営業職に転職経験がありながら、割合意地悪な質問だったかなと2秒ほど後悔する。
案の定、顔が陰った。Tのではない、Yさんの顔がだ。

「ようやく、先輩のおかげで月1件は契約を取れるようになってきました。」

Tは意外と私ができているというような表情だったが、直属のYさんの表情はさらに陰った。
そして、なんとなく意図を汲んだ。

Yさんが重そうな口を開く。

「Yさん次何頼まれますか。」

重い話が始まる前に新しい酒を頼んでおこうと一度、水をかける。

「レモンサワーでお願い。」

その眼光はかつて私を指導していた時のものであった。
そうである。Yさんは私との飲み会でTの指導をしようという目論見なのであろう。

営業職としては先達になる私からの見地もTに共有してほしいのだろう。
Yさんの注文したレモンサワーと私の緑茶ハイがテーブルに届き、早速Yさんがはじめる。

「営業職でやっていく上で重要なことってなんだった。」

「そうですね。商品理解と顧客理解の2つですかね。販売するべき商品が与える効果と顧客のニーズ、潜在欲求を探して見せてあげることでしょうか。特に最初のうちは商品理解に時間を費やしました。」

営業職はとにかく数をこなせ。今な風説があるが、私は必ずしもそれが良しだとは思っていない。
自身が販売する商品もよくわかっていない人間が数を打っても失注リスクのみならず、会社の評判をも下げかねないからである。

自社の商品のどこがよくてどんな人の悩みを解決できるのかこの理解は重要である。

YさんはTに話かける。Tは水炊きを取りながら我関せずという顔をしていた。

「今言っていたことは私がいっていることと一緒だよね。Tは商品理解できているかな。」

「できていないです。」

途端にTの表情が曇る。先程まで目の前のご馳走にありつけると思っていた犬が待てと言われたような表情だ。

「Tは前職でどうももう憔悴し切ってしまっていたから声をかけたんだ。だけど、なかなか前職の癖がぬけなくてね。」

我々が勤めていたN社は言ってしまえば、やるべきことをやっていれば、否、たとえできていなかったとしても規定の時間に働いていれば一定の給料が約束される仕事であった。

努力の有無でそこまで差が出る職場ではなかった。
そんな中で働いていると明確に自分を成長させる人とそうでない人に分かれる。

「Tは現状、完全な指示待ちになってしまっているんだ。でも、そのままでは給料は下がってしまう。結局、営業職なのだから販売ができないことには賃金は発生しないんだ。その危機感が一切なくてね。」

半分はYさんの愚痴でもあるのかもしれない。
旧知の仲である私と最初はただ愚痴を酒の肴に持っていきたかったのだろう。

私がTを誘ってはなどと言ってしまったので悪いことをしてしまったのかもしれない。
YさんにもTにも。

その後、YさんとTのやりとりを聞く。
Tの現状はかつて私がV社に勤めていた時の売れない社員とあまりにも共通点が多かった。

商品理解と顧客理解。言うのは簡単である。

商品理解には商品のメリットでメリットの理解という単純なものではなく、他の商品との比較、諸制度への見識などが求められる。

顧客理解には、相手への傾聴力、将来の不安を言語化する能力、改善策を数字で示す定量評価ができなくてはならない。

そして、YさんのTへの言葉一つ一つに私は従業員のSに言った言葉を思い出す。
今でも言っていることではあるが。

それでもSは着々と前進しているのであろう。

また同時に共に経営している彼からかつて言われた言葉を思い出す。

Tよ。ここは誰しもが通る道である。
言われるのがいやなのであれば、自身で裏で学んでおくしかないのである。
言われたこともやり、それ以上のことを自身で考える必要があるのだ。

そう心の中でエールを送る。

Tの表情を見るに今それをかかえこめるほどのキャパシティはないだろう。

自身初心に戻れる良い機会だったと。
私はさらに酒を注文する。

厳しい世界である。
しかし、そこを超えると非常に楽しい世界でもある。
だからこそ、かっこいい仕事であると知ってほしい。

我々のミッションだ。

物語の続きはまた次の夜に…良い夢を。

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