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『Egg〈神経症一族の物語〉』第2部 第四章

 お父さんを玄関まで見送ったお母さんがキッチンに戻ってきた。そして使い終わった食器を食卓から片付けながらオレこと高藤哲治に言った。
「哲治、夏休みの塾が今日から始まるでしょ。宿題をきちんとやって、遅れないように行きなさいね。お父さんが『哲治はもっと勉強しないとダメだ。勉強量が足りてない。努力不足だ』って言っていたわよ」
「ん~」
 朝ごはんを口の中にもくもくと放り込みながら、適当な返事をしているオレの姿を見て、お母さんが更に言った。
「大体お前は楽観的すぎるのよ。これからの社会では勉強ができないとまともな働き口も見つけられないっていうのに。能力が低いと思うなら努力をしないとダメじゃない。
 お母さんをご覧なさいよ。お父さんほど勉強はできないけど、代わりに美術の才能を磨いたわ。そのおかげで今でも自宅で時々絵の教室を開いて、お前たちの面倒を見ながらお金を稼ぐこともできている。
 それもテレビや雑誌で情報を得て、先のことまできちんと考えて努力してきた結果なの。楽観的なお前には、悲観的な見方が人生の保険になると言っても伝わらないかもしれないけど……」
「わかるよ」
 麦茶を飲みながらオレが答えた。
「お母さんは美術の才能があることにあぐらをかかないで、将来のことまで考えて美術の先生の資格を取ったんでしょ? 他のお母さん達がそんな資格持ってるって聞いたことないし、お母さんはすごい努力家だとオレも思うよ」

 オレに褒められてちょっと気を良くしたお母さんは、もっとじっくり話そうと、テーブルのいつもの席に腰かけて煙草に火をつけると嬉しそうに言った。
「そうよ。こんなお母さんは日本中探してもそんなにいないわ。お前は楽観的で努力をしないその悪い癖を改めるべきなのよ。私を見習ってね」
 最後の目玉焼きをぱくつきながらオレは頷いた。
「いつも見習おうと思ってるよ。だって本当にお母さんはすごい人だもの」
 途端にお母さんの目がきらりと光った。ご機嫌でタバコの煙を吐きながら、オレのコップに麦茶を足してくれる。そして言った。
「いい? お前は努力をしているけれど、楽観的すぎて努力が身になっていないところがまずいのよ。私は悲観的な方だから、お前よりも自分のことを心配して気にかけている。そういうネガティブなエネルギーが成長するためには必要なの」
「うーん。オレも結構悲観的だと思うんだけどなあ……」
 誰よりもオレ自身がオレの姿にがっかりしているんだから、と思いながら答えると、お母さんが不満げな顔をした。
「違うわ! お前は私とは違う。悲観的なふりをしているだけよ。本当に悲観的だったら、努力したことを身につけられるのよ。でもお前は途中で諦めて止めてしまう。止めるタイミングがいつも早すぎるのよ」
「なるほど。そうなのか」
 オレが感心して答えると、お母さんは鼻の穴を膨らまして自信満々に答えた。
「そうよ。お前は間違っているのよ」
「お母さんの言うことが正しい気がしてきた。オレもう少し粘ってみよう」

 話をしながら、頬のニキビを無意識にポリポリ掻くと、お母さんが嫌そうな顔をした。
「ああ! また掻いてる!! ニキビは掻くと膿んじゃうから薬を塗って我慢しなさいって、あれほど言っているのに。痕ができて顔がでこぼこになっちゃう! 今の顔も汚くって見られたもんじゃないのに……。ほら! その掻く手を止めなさい!」
「うーん。でも痒いんだよ」
「ああ、もうっ!」
 耐えられないといった様子でお母さんが救急箱から薬をオレの鼻先に突き出した。
「ほら、今すぐ塗って!」
 その有無を言わさぬ剣幕に押されて、オレは素直にチューブ入りの薬を手に取って頬に塗り始めた。お母さんがプンプンしながら言う。
「まったく! こんなことも言わないとわからないのね。そうでなくても、お前の顔はニキビだらけな上に、ひげも生えてきて汚いんだから、きちんと手入れをしないとダメよ! 大人になってあばた面になっている友達が何人もいるわ。私はちゃんと手入れをしたから、痕は残っていないけど」
 ほら見なさい、とお母さんが自慢げに自分の頬を指さした。たしかにお母さんの頬はつるんとしていてきれいだ。
「お母さんも中学生のときにニキビができたの?」
「そりゃできたわよ。十代は誰でもニキビができてしまうものだから」
 自分の頬を愛おしそうになでながらお母さんが言う。
「雑誌でニキビの痕は大人になっても消えずに残るって知ってね。それ以来、洗顔をきちんとして、できたニキビにはこまめに薬を塗って、掻かないように気を付けたものよ」
「いつから掻かなくなったの?」
 うーん、と頬杖をついてお母さんが答える。
「中学生……中2の頃だったかしら?」
「じゃあ、今からオレも気を付けたら大丈夫だね」
 オレが答えるとお母さんが首を横に振った。
「いいえ。私は中2の最初、ニキビができ始めた頃から気を付けたのよ。もう夏休みだし、お前のニキビは中1からできているんだもの。ちょっと遅いわ。ああ、それに。お前の顔にはもう痕になりそうな場所があるからね。手遅れかもしれないけど、被害をこれ以上広げないようにしなさい」
「わかったよ……」
 オレはがっかりして答えた。
「それならもっと早くに教えてくれたらよかったのに」

 その言葉でお母さんがカチンときた。
「よく言うわよ! お母さんは何度もお前に注意してきたのに。全然聞く耳持たなかったのはお前なのよ! 由美をご覧なさい!」
 お母さんが自慢げに言った。
「私が注意したから、小学生の今からちゃんとお手入れをするようになったわ。由美はまだニキビが一つもできてないから、きっと私のようにニキビ痕の残らないきれいな顔になるはずよ」
 お母さんに手放しで褒めてもらえる妹の由美に、嫉妬心がじわりと湧き上がるのを感じながらオレは言った。
「由美はいいよな」
「お前がお母さんの言うことをちゃんと聞かないのがいけないだけよ。反省してね」
 うんと頷いてオレは席を立った。
「ごちそうさま」
「塾は九時からよ。お弁当作っておくから持っていきなさい」
 階段を上がるオレの背中にお母さんの声が追いかけてきた。

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