「されて嫌な事はするな」と「警察が犯人を逮捕すること」の共通項

以下の話は、「場の幸福度(良い気持ちである人間の数が多ければ多いほどこの度合は上がる)」を軸に考えていく。また、特殊な人間、統計学だったら考慮されないような人間のことは考慮しない。


されて嫌な事はするな、なるほどたしかにそうだ。僕はこれを教訓にして生きてきたと言っても過言……だが、まーとても重要な事だと思っている。

しかし誰がどう考えたって警察官自身は逮捕されたくないだろう。「逮捕する事」はされたら嫌なことである。が、僕らは犯人が逮捕されることに対して違和感を感じる事はない。

なぜなのか迷ったので書きながら考えていく(ので文章としての価値は低い。)

まず、「警察が犯人を逮捕する行為」をより帰納的に考えてみる。

犯人は世間から見たら「負をもたらす/もたらした存在」である。犯人が世間を普通に練り歩く行為は、一般人にとって悪いことで、不幸なことともいえる。よって、世間全体での「幸福度」は下がるわけだ。

となると、警察が犯人を捕まえる行為は「負を間引く行為」であると言える。例えばの話だが、犯人が捕まっていない状態での幸福度を-1とすれば、犯人が捕まる事は

-1-(-1)=-1+1=0

と表されるだろう。そうすると、警察が犯人を捕まえる行為は、世間全体の幸福度を引き上げる、正の行為であると言える。

次に、「されたら嫌なことがするな」という命題の目的を考えていこう。

されたら嫌なことをすれば、された側は大概嫌な気持ち、負の気持ちになるだろう。しなければ、そのままの気持ち、増減無しの気持ちであるだろう。

という事は、この命題は「相手を嫌な気持ちにする可能性のある事はするな」いう意味であろう。当たり前だが……

これをもっと広く考えてみる。相手を嫌な気持ちにすることは、その2人のいる空間の幸福度を下げる行為である……

とここでまた疑問が生じた。そのことをした自分自身の幸福度の上昇幅が、その人の幸福度の減少幅より大きかったらどうなるのか?

幸福度なんていうものは数字で表せない物なので、これについて考える事は難しい。が、こう考えてみる。

その場にいる人間全体の幸福度が上昇する行為をするべきであるのは確かである。しかし、その一瞬幸福度の合計値が上がっても、長期的に見て下がっては意味がない。

となれば、長期的にも場の幸福度は高くなるだろうと確実にわかる時は、悪口を言ってもいいのかもしれない。

といっても、え……となるだろう。例えてみる。

その場の雰囲気をぶち壊す人がその空間に1人だけいるとする。皆はその人がいることそれ自体に対して少し不満であり、できる事ならいない方がいいと思っている。

この場合、その人は「負」の存在である。故に、取り除く行為は場の幸福度を上昇させることにつながる。

しかし取り除かれる人は嫌な、不幸な気持ちになるだろう。しかしたかが1人の幸福度の減少幅が全員の幸福度の回復量に匹敵すると考えられるか?ここはその場の状況を見て各々考えて欲しいが、普通に考えればそんなことはないだろう。

とは言っても悪口は最終手段であることに間違えはない。相手が負の存在でなくなればいいのだから、その人に態度や行動の改善を求めたり、自分らの気持ちを素直に伝えることから始めるべきだ。

というわけで、自分自身の幸福のためだけに相手を傷つける事は論外であるが、されたら嫌な行為、例えば逮捕する行為や排除する行為などでも、場全体の幸福度が上昇できると考えられるなら、するべきなのではないか?と今考えた。

また、場の幸福度が低い状態は自分自身にもその不幸が降りかかる。当たり前だが、周りが全員自分のことを嫌っている人間だったら、自分が幸せになれるわけがない。特殊な人間以外は。

となると、自分が嫌いだから、とかそういう個人的な感情理由で相手を誹謗中傷したり悪口を言ったりする事は、場の幸福度を下げる行為であるので、自分自身のためにもやらない方がいい事である、という結論に達した。それでもやりたいなら、勝手にどうぞ、どうなっても知らないよ、と……


と、今寝ながら、「もし周りが全員(一般人から見て)頭おかしくて、その人だけがまともだったら」の状況を考えていないことに気づいた。

がこれは杞憂である。まともな人も頭のおかしい人も、一緒にいることで負の感情が互いに生まれているのなら、離れれば場の幸福度は上昇する。

ので、なんかこのグループ雰囲気違うなーと思うのなら、優しい言葉でゆっくり抜けるのがいいのかもしれない。


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