[AIのべりすと長編小説]サイボーグ少女はバグAIに幻を見せられる 最終話:激情

 虚数、実数ではない複素数。感覚的には存在しない数値。だから、一般的な数の数え方では役に立たない。だけど、自分達が日常生活をする上では必要な概念だと祥子ちゃんは教えてくれた。
『吾輩は猫である』、『相対性理論』、『シュレディンガーの猫』、『スワンプマン』、『メアリーの部屋』、『不思議の国のアリス』、『バター猫のパラドックス』、『ミッシングリンク』、『ウロボロス』と色々聞かされてもよく分からなかったけど、虚数はなんとなく分かった気がする。それでも難しい概念なんだろうけど。

 ◆◆◆

 夢。いや、悪夢だ。
 さとりは祥子との楽しかったはずの思い出と正真正銘の最後の思い出を見ていた。鮮明に甦ったさとりに欠けていた記憶。それは最後の日の記憶だった。あの時、さとりと祥子は一緒にいた。そして……、祥子と共に電車に轢かれ、祥子が死んだのだ。さとりはその瞬間を見て覚えている。意識不明になる前、電車に跳ね飛ばされて倒れたあの感触。左腕がなくなる感覚どころか、全身が打ち付けられた痛みで苦しかった。なにより気を失う直前で見た『バラバラになった祥子』の死体。それをさとりは思い出してしまった。もう二度と会えないことを理解した。そして、幻覚の祥子は間違いなく偽者であることも悟ってしまった。

「うっ……」

 嫌な汗が流れ落ちていく。気持ち悪い。最悪の気分だ。吐きそうになりながらも、なんとか堪えた。

「祥子ちゃん……」

 さとりは無意識のうちに祥子の名を口にしていた。まだ名前を呼ぶだけで胸が締め付けられるように痛くなる。この感情が何なのかよく分からないけど、苦しいことだけは分かる。涙が出てくる。止まらない。止め方が分からない。どうすればいいのかも分からない。

「どうしてこんなことに……。ワタシは何を間違えたんだろうか」

 祥子との思い出を思い出す。しかし、どの思い出にも笑顔の祥子が映ってきて過ちがどこで起きたのか分からない。
 間違いがあったとすればどこだろうか? そんなことを考えても答えが出るはずがない。そもそも最初から間違っているかもしれないし、間違っていないかもしれない。
 祥子と一緒に過ごした日々を思い出しながらベッドから降りて病室を出る。廊下を歩くととそこには誰もいなかった。病院内は静かで寂しい雰囲気に包まれている。
 この静かな空間がさとりの心にはぽっかり穴が空いたような虚無感に襲われている。とてもじゃないけど一人じゃ耐えられないくらい心細い。誰かと話したい。誰かに会いたい。誰でもいいから側にいて欲しかった。

『さとりさん、辛いことがあれば私に相談してください』
『私もさとりさんの気持ちが分かると思います』

 さとりはふと、つぼみの言葉を思い出す。
 そういえばつぼみちゃんの右手は病気で失ったと言っていた。それなのに何故、彼女はあんなに強い瞳をしていたのだろう。彼女の強さは一体何なんだろうか。
 さとりはあまり動かなくなった左腕を振ってつぼみの病室に向かった。
 さとりがつぼみの病室の扉を開けると、そこにいたのはベッドから起き上がって本を読もうとしているつぼみの姿だった。

「あっ……」

 さとりと目が合うとつぼみは本を閉じる。

「おはようございます。さとりさん」
「うん。おはよう」
「どうかしました?」
「えっとね。ちょっと話したいことがあるんだけど、大丈夫かな?」
「はい。もちろんです。何かあったんですか?」
「実はね……」

 さとりは自分が見た幻覚のことをつぼみに話すことにした。すると、つぼみは表情を曇らせて黙ってしまう。話し終えるとつぼみが口を開いた。

「さとりさん、本当に辛かったんですね」
「うん。多分次の幻覚で、ワタシの運命が決まるかも」
「そんなの嫌です……」

 つぼみは左手で自身の機械の右手を握りしめる。

「でもね、恋人のことをちゃんと思い出して辛いなと思った時に、つぼみちゃんのこと思い出したの」
「えっ?」
「幻覚を見るワタシのこと、分かるかなって。この辛い気持ち分かり合えるのかなって」
「……うん」

 さとりは俯くと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。その言葉を聞いてつぼみは優しく微笑んだ。

「さとりさん」
「どうしたの?」
「私のバックアップトークンだけど」
「うん……」
「実は、さとりさんなんです」
「えっ!?」

 予想外の発言にさとりは驚いた。自分がつぼみのバックアップトークンなんて思いもしなかったからだ。さとりは目を丸くして驚いてしまう。それと同時に恥ずかしさも出てきた。

「ワ、ワタシ!? ……なんで?」
「えっと、その……」

 つぼみも恥ずかしいのか説明に困っていた。さとりは首を傾げて考える。
 なんでつぼみちゃんのバックアップトークンがワタシなんだろう? ワタシ何かやったかな?
 いくら考えても分からなかった。そもそも、さとりの頭では理解できない。

「ワタシ、つぼみちゃんに何かしちゃった?」
「そういうわけじゃないの。ただ、初めて会った時からずっと気になってて。それでなぜか、バックアップトークンがさとりさんの姿をしててね。えっと、私何言ってるんだろう」

 さとりにはよく分からなかった。それでも、つぼみが嘘をつくとは思えない。
 多分つぼみちゃんは本当のことを言っていると思う。それにしてもワタシの姿を模したバックアップトークンとはどういうことなのだろうか。

「あの、もしかして……、さとりさんって……、私のこと好きですか?」
「いや、えっとその……」

 さとりがつぼみの愛くるしい顔に惹かれていたのは間違いなかった。ただ、それは単純に可愛いからであって、恋愛感情までにはいかなかった。

「つぼみちゃんは可愛いよ。でも、ワタシがつぼみちゃんのバックアップトークンになってくれるとは思えないんだ」
「そうかもしれません」

 さとりとつぼみはお互いの顔を見つめ合った。しばらくして、つぼみが真剣な眼差しでさとりに話しかけた。

「でも、さとりさんは幻覚で苦しくなった私を救ってくれたんです。私が幻覚で辛い時に必ず助けてくれるんです。確かに私の幻覚に出てくるさとりさんはバックアップトークンです。だけど、それでも私は救われたと思っています」

 さとりは聞いてハッとした。
 デリダちゃんは確かに祥子ちゃんの……姿を似せているけど、ワタシを助けてくれた。幻覚に殺されかけても全力で守ってくれた。
 さとりは思い出す。デリダはいつも側にいてくれて支え続けてくれた。どんな時だって、いつだって、自分の味方でいてくれた。そんなデリダが祥子の姿を映したものだと言われても安心できたのだ。
 さとりはつぼみに笑顔を向ける。

「そっか、ワタシはつぼみちゃんを守ってあげたんだ。つぼみちゃん、ありがとう」
「別に私は何も……」

 つぼみは照れ臭そうにする。

「ワタシね。つぼみちゃんのこともっと知りたい。だから……」
「だから?」
「幻覚を見なくなったら、遊ぼうよ」
「……うん」

 つぼみは嬉しそうにして返事をした。さとりは微笑むと、つぼみの病室から出る。廊下を歩いていると、廊下の向こう側からあかりが歩いてきた。
 彼女はさとりと目が合うと、すぐに視線を逸らす。
 さとりは彼女の表情が曇っていることに気がついて声をかけた。

「ねぇ、あかりちゃん」
「……何?」
「何かあった?」
「ううん」
「あかりちゃん、ありがとう」

 あかりは少しだけ驚いた顔をする。頬を赤く染めると、さとりの横を通り過ぎようとした。さとりはあかりが通り過ぎる前に腕を掴む。

「あかりちゃん、ちょっと来てほしいの」

 さとりは強引にあかりの手を引いて自分の病室に行く。そして、さとりは着くまで手を離さなかった。
 それにさとりはあかりのことが心配だった。
 今までのことを考えると、あかりは祥子のことを隠していたことに負目を感じているのではないかと思った。だから、今度こそ話を聞いてあげようと思った。
 部屋に着くと、さとりはすぐにベッドに座る。
 すると、あかりがおずおずと口を開いた。

「さとりちゃん、その……」
「うん」
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「えっ?」
「ワタシ、怒ってないよ」
「でも……」
「ワタシ、怒る理由なんて無いもん。それに、ワタシ達幼なじみでしょ?」

 さとりは優しく微笑んだ。その言葉にあかりは泣きそうな顔になる。しかし、泣くまいとして必死に堪えていた。さとりはそんなあかりを見て、頭を撫でてあげる。あかりは我慢の限界なのか涙を流す。さとりは気にせず、優しく語りかけた。

「ほら、泣かないで。大丈夫だよ」
「……うん」
「よしよし」
「……ぐすん」

 しばらく、さとりはあかりの頭を優しく撫でて落ち着かせてあげた。

「落ち着いた?」
「……うん。……あの、……ありがと」
「どういたしまして」

 さとりはあかりにハンカチを渡してあげる。

「それで、祥子ちゃんの話だけど」
「……えっと」
「ワタシ、もう大丈夫だよ」
「えっ」
「あかりちゃん、ワタシの大切な友達だもの。だから、ワタシに祥子ちゃんのこと、教えてくれてありがとう」

 あかりはさとりの言葉に感動してまた泣きそうになる。それでも、今度は嬉し涙を流した。

「私、まだ友達でいいんだよね?」
「うん!」
「よかったぁ……」
「でも、あかりちゃん。一つだけ約束してほしいことがあるの」
「なに?」

 さとりはある決心をしていた。それは、自分の幻覚ーーボイジャーと対峙することである。

「ワタシの幻覚にね、ワタシや祥子ちゃんが出てくるの」
「……うん」
「多分ね、ボイジャーが作り出した偽者だと思うの」
「うん」
「だからね、その偽者を……倒すの。ワタシの中から出ていってもらうの」
「……」
「多分、それしか方法が無いと思う」
「……そっか」
「でも、これはワタシにしかできないと思う」
「……そうだね」
「だから、お願いがあるんだけど」
「うん」
「ワタシを……見守ってほしいの。もしかしたら、一生幻覚から帰れなくなるかもしれない」

 あかりは真剣な眼差しで見つめてくる。さとりはその瞳を見つめ返した。
 やがて、あかりは笑顔を見せる。さとりはホッとした。
 これでやっと一歩踏み出せる気がした。
 さとりは目を瞑る。

「じゃあ行ってくるね……」

 そう呟くと、さとりは意識を集中させる。
 すると、目の前が真っ暗になった。

 ◆◆◆

 気がつくと、さとりは宇宙空間にいた。
 ここはどこだろう?
 さとりは辺りを見渡す。遠くには地球が見える。まるでプラネタリウムみたいに綺麗だった。さとりは上を見上げる。そこには、星空があった。とても幻想的な光景だった。
 ふと、誰かの声が聞こえてきた。
 その声は懐かしい感じがする。
 さとりは無意識のうちにその方向に歩いていった。
 そして、さとりは見つける。
 祥子の姿を。

「やぁ。また会えたね」
「……」
「そんなに睨まないでもらえるかな」

 さとりは敵意を剥き出しにして睨みつける。それに対して、祥子は余裕な態度を崩さない。彼女はさとりを指差す。さとりは身構えるが、既に法廷に立たされていた。さとりは自分が裁判所にいることに驚く。周りを見ると、デリダ、祥子、もう一人のさとりがいる。さとりは被告人席に座っていて、裁判長のトリンが喋り始めた。

「これより裁判を始める」

 そう言って、トリンは書類を読み始める。

「罪状、酒津さとりが本物と偽った偽証罪」
「……」
「異議申し立てをする者はいるか?」
「はい。います」

 そう言ったのは、さとりだった。

「ワタシが本物の酒津さとりです。左腕を失くしたし、祥子ちゃんのことを忘れてたけど本物です」
「ほう、なら証明をしてみろ」

 さとりは一瞬だけ考えてから答えた。

「……まず、ワタシは事故に遭いました。祥子ちゃんと言い合いになって祥子ちゃんが電車に飛び出したのを追いかけて轢かれました。ワタシは記憶喪失になり、祥子ちゃんのことを思い出せなくなりました。ワタシの記憶では、祥子ちゃんは生きていることになっていて、事故で死んだことを知りませんでした」
「なるほど。それで?」
「はい。ワタシは祥子ちゃんのことをずっと忘れていました。だから、ワタシはここにいる祥子ちゃんのことを本物だと思っていました。それに、祥子ちゃんはワタシが幻覚を見ても助けてくれません。それが、偽者の証拠だと思います」
「……ふむ。続けなさい」
「はい。次に、ワタシと同じような姿をした偽者の話をします。ワタシの偽者は左腕が生身なんです。ワタシは左腕を失う大怪我をしたので本物ではありません。それに……」

 突然、机を強く叩く音がした。もう一人のさとりがやったようだ。さとりは驚いて言葉を止める。偽者がさとりに話しかける。

「ワタシが偽者と言うなら、何があなたが本物だと言う証拠があるのか教えてほしいわ!」
「えっ」
「それに」

 それに祥子も続けるように言ってきた。

「本物なら何の記憶があるのか言えるよね」
「うん」
「さとりさん……」

 デリダが心配そうな顔で見つめてくる。

「大丈夫だよ」

 さとりは笑顔で答える。

「ワタシは祥子ちゃんと一緒に遊んだり、勉強したりしたことを覚えてるよ」
「それだけ?」
「まだあるよ」
「ワタシが意識を取り戻してからあかりちゃんがね、庇ってくれてたの。ワタシが傷つかないように嘘ついてくれてた」
「な、何よ、それ……」

 もう一人のさとりは驚いていた。さとりは事実を言っているだけである。どういうことなんだろうと思っていたが、デリダが近くにきて耳打ちをした。

「恐らくですが、私があなたを取り返す前までしか現実世界のことは知らないかもしれません」
「そうなの?」
「もしそうなら、あかりさんの行動の真意を知っているはずです。それに……」
「それに?」
「私は……」

 さとりは不思議そうにする。すると、デリダは真剣な表情で見つめてきた。その瞳はまっすぐで曇りがない。さとりはその瞳を見つめ返す。やがて、デリダは笑顔を見せた。

「大丈夫です。言ってください」
「……分かった」

 さとりは覚悟を決めた。

「あかりちゃんはワタシに思い出してほしいから恋人になってほしいと言ってくれました」
「思い出してほしいことって何?」
「祥子ちゃんについてです」

 祥子が驚いた顔をする。どこか慌てたような顔つきだった。さとりは気にせずに続けた。

「ワタシが祥子ちゃんのことを忘れていたことを誰よりも早く気づいていた。だけど、自分から言うとワタシが混乱すると思い、直接は言わなかった。でも、あかりちゃんはワタシに何かあったらすぐに気づけるように見守っていた」
「……そんなことない……はず」
「……」

 もう一人のさとりは動揺していた。さっきまで余裕のある態度だったが、今では焦っているように見える。そして、さとりとデリダは黙ったまま、もう一人のさとりを見る。もう一人のさとりは少しだけ震えていた。

「……それは違うわ! だって、ワタシは祥子ちゃんのこと覚えているだもの」
「何を?」
「それは……」

 もう一人のさとりは口ごもる。それを見ていたトリンはため息をつく。

「原告、もしや、若木祥子のことをきちんと覚えていないのでは?」
「いえ、それは……」
「祥子ちゃんが死んだ後のこと、覚えてる?」

 さとりが質問をする。もう一人のさとりは言い淀んでいた。トリンは書類を読みながら話を進める。

「原告、答えてみてください」
「それは……」

 もう一人のさとりは言葉が詰まる。
 さとりは彼女の言葉を待ったが何も喋らない。彼女はただ下を向いて沈黙しているだけだった。祥子も何も言えず黙っていた。

「どうした? 答えられないのか?」
「うぅ……」

 もう一人のさとりは泣き出してしまった。祥子は慰めようと手を伸ばすが、触れる前に引っ込めてしまう。彼女は泣いているだけで言葉を発することはない。

「もういいでしょう。裁判長」
「あぁ、そうだな」
「この様子だと、原告は本物の酒津さとりじゃないです」
「ふむ、そうだな」

 トリンは考え込む。しばらくして、また口を開いた。

「被告が証明できて、原告が証明できないということで良いだろう」
「ちょ、ちょっと待って!」

 祥子が慌てて声を上げる。

「も、もし判決が決まったら私達はどうなるんですか!?」
「さあ? 私はただ、判決を下す裁判長でしかない。その後はお前……達によるだろう」
「そ、そんな……」
「それでは判決を下す」

 トリンは祥子の懇願をあっさりと無視して、無慈悲にも判決を言い渡した。

「被告人を無罪とする」
「やったー!」
「良かったですね」
「うん」
「おめでとうございます」

 さとりは嬉しそうに微笑んだ。デリダと握手をして喜びを分かち合う。しかし、もう一人のさとりは不満そうな顔をしていた。

「何がおめでたいのよ」
「えっ」
「ワタシが本物だから……」

 さとりは言葉を止める。目の前にいるもう一人のさとりが涙を流していることに気がついたからだ。彼女は涙を浮かべながらも、睨んでくる。

「ワタシは、ワタシは、何のために生まれてきたのよ……」
「……」

 さとりは黙って見つめる。もう一人のさとりは泣き崩れた。その姿を見て、さとりは悲しくなって胸が苦しくなる。
 そうか、もう一人のワタシはワタシと成り替わるために生まれたんだよね。さとりはもう一人のさとりを抱きしめる。
 ごめんね。こんなワタシなんかに生まれてきて……。ワタシが祥子ちゃんのこと受け止め切れなかったから、こんな幻覚が生まれて、祥子ちゃんの代わりが生まれて、ワタシの代わりが更に生まれて。ワタシのせいだ。ワタシが弱かったからボイジャーが誤動作してこんなのを作り出したんだ。
 さとりはもう一人のさとりを強く抱き締める。もう一人のさとりは驚いていたが抵抗することはなかった。

「ごめんね。本当にごめんなさい」

 さとりはもう一人のさとりに謝った。
 その時だった。
 突然、裁判所が揺れた。地面が大きく割れて、裁判が行われていた空間が崩壊し始める。さとりは驚いて、もう一人のさとりから手を離す。すると、もう一人のさとりは光に包まれ始めた。
 その光景を見て、さとりは察する。
 これが、消えるってことなんだ。
 もう一人のさとりは消えたくないのか必死に抗っているように見えた。だが、その願いは叶わない。祥子の方も見たら、同様に光に包まれていた。
 祥子ちゃん……。
 祥子は寂しげな表情をしていた。
 そして、もう一人のさとりは笑顔を見せる。

「祥子ちゃん。ありがとう」

 祥子は何も言わずに、もう一人のさとりに向かって手を伸ばしていた。もう一人のさとりは首を横に振る。

「ダメだよ。だって、ワタシはもうすぐ消えるんだよ。だから、そんな顔しないで。ワタシは幸せだったから」
「そんな……でも……」
「祥子ちゃんはワタシのこと忘れないでくれる?」
「当たり前だよ」
「嬉しい」

 もう一人のさとりは笑った。祥子も笑い返す。二人はずっと一緒。しかし、もう一人のさとりの身体は少しずつ光の粒子となって空へと散っていく。

「祥子ちゃん。大好き」

 もう一人のさとりは最後に祥子にキスをした。祥子ももう一人のさとりに優しく触れるだけのキスをする。
 こうして、もう一人のさとりと祥子は消えた。
 二人が消えて、その後、裁判所が崩壊した。さとりは暗闇に落ちながら、もう一人のさとりと祥子のことを考えていた。二人のことを思うと胸が痛くなった。
 祥子ちゃん、もう一人のワタシ、さようなら。
 さとりは落下しながら目を閉じた。すると、左手が誰かに掴まれる。目を開けてみるとデリダだった。彼女はさとりの手を握っていた。さとりはデリダの顔を見る。デリダは優しい眼差しでさとりのことを見ていた。さとりは泣きそうになるのを堪えながら、デリダに微笑みかける。デリダも微笑み返した。さとりは思った。
 そうか、幻覚が終わるということはデリダちゃんにも会えなくなるんだ。ワタシを最後まで守ってくれたデリダちゃん。
 さとりはデリダのことが愛おしくて堪らなくなった。
 深い闇の中、さとりは落ちた感覚がなくなると立っていた。なぜ宇宙空間みたいに重力も無さそうな場所で立てられるかは謎であったが。さとりは辺りをキョロキョロと見渡す。そこは真っ暗な場所であった。何も見えない。しかし、自分の姿だけはハッキリと見える。

「あれ、デリダちゃんは?」

 周りには誰もいないようだ。さとりは少しだけ不安になる。
 どうして? さっきまで一緒に居てくれたのに。
 さとりは不安になりながらも、歩き出す。一歩、また一歩と歩くが何も響かない。
 ここはどこなんだろう?
 さとりは疑問を抱く。歩いていると、前方に人影が現れた。さとりはホッとする。

「良かった。やっぱり、ここにデリダちゃんはいるんだ」

 さとりは嬉しそうに駆け寄る。そしてデリダを抱きしめた。デリダは驚いた様子だったが、すぐに微笑んでくれた。さとりは嬉しくなって、そのまま抱きついたまま、彼女の胸に顔を埋めた。

「さとりさん」
「何?」

 さとりは顔を上げる。デリダの表情は暗いものだった。更にデリダが祥子の最期の姿だと思うと余計に悲しくなってきた。ツギハギのある祥子の姿。それは、さとりが最期に見たバラバラになってしまった祥子の姿だった。

「これで、お別れですね」
「うん……」

 デリダは悲しい表情をしながら言った。さとりも悲しげな表情になる。

「ワタシね、デリダちゃんに会えて良かった。良かったんだよ」
「そうですか」
「デリダちゃんは助けてくれた時にバックアップトークンだからって言っていたけど、ワタシは、ワタシは……」

 さとりが言葉を詰まらせる。そして、ポロリと涙を流す。その姿を見て、デリダは申し訳なさそうにしていた。

「ワタシは、本当に嬉しかった。デリダちゃんが現実に存在しないだったとしても嬉しかった。だから、だから、だから……」

 さとりは涙を流し続ける。そして、泣き崩れた。

「ワタシは……本当に幸せだったよ。本当に……ありがとう」
「……はい」

 さとりは嗚咽混じりに言う。デリダはあまり言わずにさとりを抱き締めた。
 そして、さとりとデリダは幻覚の中で消えていった。

 ◆◆◆

 さとりはその後、一週間経ったが幻覚を見ることはなかった。
 双人と小田には見なくなったことを報告し二人には驚かされて検査をされることになる。その結果、ボイジャーのAIの脳波がキレイに反応しなくなっていた。そのせいで、さとりの機械の左腕は何の機能も持たないただの義肢と化していた。
 更に一週間後、テレビの放送でノイマン社が謝罪と共に新しいボイジャーを制作したと放送された。その後、各所に支給されることとなった。そのニュースを見て、さとりはホッとした。一週間経たない内に双人研究所にも新しいボイジャーが届いた。さとりやつぼみも新しいボイジャーを双人に付けてもらった。さとりの機械の左腕も機能を回復することができた。しかし、バックアップトークンは不要になり、付けることはなくなった。さとりは機械の腕を付け直してからリハビリをすることになった。そして、今まで通りの生活ができるまでになった。

「……」

 さとりは考え込んでいた。デリダと会うことはもうできない。幻覚を見なければ、バックアップトークンも起動しない。ましてや肝心のバックアップトークンは古いボイジャーと一緒に外されてしまった。保護機能も必要無ければ使うことはない。
 祥子ちゃんもデリダちゃんも、これからのワタシの人生から忘れてしまうのかな。幻覚が起こった一ヶ月前が少し懐かしいよ。
 さとりはそう思いながら、窓の外を見た。空は雲が一つだけポツンとあるだけで、後は青一色だった。澄んだ空だが、寂しさを覚える。
 あの時、もしも違う行動をしたらどうなっていたのか。もしも違う考えになっていたらどうなっていたのか。そんなことを考えてみる。でも、今更後悔しても仕方がない。ワタシはワタシだ。ワタシはこの人生を歩むしかない。
 さとりはそう思って、一息つく。
 さとりの目の前にある机の上には、一枚の写真が飾られていた。それは、さとりとあかり、つぼみの三人が写った写真である。そこには、さとりとつぼみが楽しそうな笑顔を浮かべていた。さとりの隣にいるつぼみはさとりに肩を抱かれている。つぼみは少し恥ずかしそうな表情をしている。あかりはつぼみとさとりに抱きついている。つぼみは驚いていて、さとりはつぼみよりも照れ臭そうな表情をしていた。
 突然、スマホが鳴った。相手はあかりのようだ。

「もし、もし?」
『あー、さとりちゃん。今何してる?もうそろそろ双人研究所に着くんだけど』
「えっ? まだ、研究所じゃないんだ」

 さとりは驚きの声を上げる。すると、電話の向こう側から笑い声が聞こえてきた。

「ちょっと、何笑ってるの?」
『ごめん、ごめん。後少し着くからもう出ておいてね』
「うん、分かった」

 電話が切れる。
 今日はさとりの退院日で、迎えに行くのは親友のあかりである。
 さとりは玄関に向かうと、双人と小田、それにつぼみがいた。

「酒津さん、退院するのね」
「はい!」

 さとりは元気よく返事をする。その表情は嬉しそうだ。
 つぼみは微笑んで、さとりに近付く。そして、優しくさとりを抱き締めた。つぼみはさとりを離すと、さとりの頭を撫でた。つぼみはまだ退院できないが、さとりが退院するということで送るのに来ていた。

「それじゃ、私は帰るね」
「うん」
「お大事に」
「ありがとうございます」

 小田も送りに来ていた。

「酒津さん、行っちゃうのね。寂しいわね」
「博士、入れ込んでませんか」

 双人はさとりが帰ってしまうのを残念がっていた。その姿を見て、小田が呆れたように言う。

「いいじゃない。別に」
「はぁ……」
「二人共、いままでありがとうございました」

 さとりは挨拶してから扉の方を振り向く。そして、外へ出た。
 外に出ると、太陽が眩しく感じた。

「ふぅ……」

 さとりは小さく息を吐いた。そして、空を見上げる。空には雲が一つ浮いていた。

「綺麗な空だ……」

 さとりは呟き、歩き出す。そして、振り返って言った。

「さよなら、そしてありがとう、デリダちゃん」

 さとりは笑顔で手を振った。

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