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18.ワクチン接種に行列する人々の群れ、その行き先は…。

日本でもワクチンの接種が始まりました。
ワクチンを接種してもコロナに感染しないというわけではない」「ワクチンはまだ安全かどうかを確認する治験が終わっていない」「ワクチンを接種したことで何か害があっても、政府も製薬会社も責任は負わない」ということはテレビでも新聞でも報道されていますから、その情報が隠蔽されているわけではありません。

要するに、「効果があるか、安全であるか、政府も製薬会社も保証しません。あなたが自分の意志で接種を受けたのですから、何か害があっても自己責任ですからあしからず」と政府も製薬会社も公言しているわけですが、それでも多くの人が「リスクがあるのはわかっているけれど、それでもやはり接種しておいた方が安心だから」という考えのようです。

私からみると、「人体実験の被験者」にされているにもかかわらず、なぜどうしてそこまでして、すでにお金持ちの人々のさらなる「金儲けの道具」にされるところへ吸い込まれて行くのか悲しい気持ちになります。
自分自身の免疫に頼るより、「彼ら」に頼った方が「安心」という考えなのでしょうか。
それとも、何も考えずに、ただそういう流れになっているから、それに従っているだけなのでしょうか。

接種会場へ長い列を成して並んでいるお年寄り達の姿を見ると、やるせない想いがします。
なぜかというと、その光景には、映画『ソイレント・グリーン』の1シーンを思い起こさせるものがあるからです。

ソイレント・グリーン』は1973年に公開されたディストピアSF映画で、ただ利益を追求するだけのために野放図にテクノロジーを発展させてしまった結果、地球には緑がなくなり、人口が増え過ぎ、経済は崩壊し、街にはホームレスが溢れ、格差が広がり、ごく一部の特権階級だけがテクノロジーの先端を享受し、食料も不足していて特権階級は闇で本物の牛肉や新鮮な野菜や果物を手に入れることはできるけれど、一般の人々が口にできるのは配給される「ソイレント・グリーン」という緑色のクラッカーがほとんどという世界が描かれています。


設定は2022年ですから、まさしく現在です。ビル・ゲイツ氏が「下々(しもじも)の者は人工肉を食べていればいい」と宣いましたが、まさしくそれが現実になってきている感があります。
映画では体に自信がなくなった老人達は「ホーム」という立派な施設に入ることを望み、列を成してそこへ入って行きます。
かなり昔に観た映画なのですが、その様子が強く印象に残っており、その光景が現在のワクチン接種の行列と重なってしまうところがあるのです。

で、「ホーム」に入った老人達の行き先の結末が衝撃的なのです。老人達は自分の行き先がそういうところだとは夢にも思わなかったに違いないという結末です。表向きは「老人は大切に扱われる」というイメージで飾られていますが、裏は神も仏もない唯物論の世界です。
今、「下々(しもじも)の者は今までは『奴隷』として扱われていた」ということに気づいた人が多いと思いますが、映画ではそれ以下の「家畜」として扱われていたという結末でした。

しかし、全体の流れを通して俯瞰してみれば、人間(人類)というものは、何も考えずに欲望のままに生きていれば、そういうところに行き着くだろうということは、皮肉な視点で考えてみれば、妙に納得できる部分もあります。
現実の人類の流れも、「彼ら」という特権階級「下々(しもじも)」という奴隷(家畜)階級とが明確に分かれてきているのがわかります。
パターン(行動様式)が決まっているように思えるのです。
であるからこそ、50年前に『ソイレント・グリーン』を制作した人々にも、そのパターンを推測することができたのかもしれません。

つまり、人間というのは、書き込まれたプログラム(アルゴリズム)(パターン)に従って生きているに過ぎないという考え方もできるわけです。
そういう考え方を書いて世界的なベストセラーになった本に『ホモ・デウス〈テクノロジーとサピエンスの未来〉』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)があります。

この本では、「生物は遺伝子やホルモン、ニューロンに支配された、ただのアルゴリズムである」という仮説が展開されています。
人間の心や意識は、脳の中でニューロンが信号を発し、あるパターンに沿ってデータを処理しているだけ」というわけです。
ということは、「人間は何一つ自由に選択などしておらず、意識や意志を持った「私」というものは幻想だ」ということです。
したがって、自分で自由に選択する意識を持っていない人間は、「自分の頭で考えること」などできないというわけです。

確かに「ワクチンを接種してもコロナに感染しないというわけではない」「ワクチンはまだ安全かどうかを確認する治験が終わっていない」「ワクチンを接種したことで何か害があっても、政府も製薬会社も責任は負わない」という情報をインプットしても、それを独自のプログラムで情報処理することをしないで、ただ与えられたプログラムに沿って処理するだけであれば、「政府やテレビは正しい」とプログラムされていれば、「接種」という結論へ行き着いてしまうのは仕方ないことなのかもしれません。

で、『ホモ・デウス』で推測されている未来というのは、大量の人間が必要なくなった世界です。
今までは、経済的にも軍事的にも多くの人間が必要でしたが、その人間に代わるものとしてAIが発達してきたというのです。

確かに、現代の戦争を考えてみると、昔のように歩兵や戦車や戦闘機やミサイルなど大量の人間を必要とする戦い方はレトロで、今は電磁波攻撃で相手の軍事施設のコンピュータを使えなくしてしまえば数分で戦争終了ですし、ドローンを使えば敵陣のスポット攻撃も可能ですし、軍人も優秀な人材少数で事足ります。
経済も、店舗のレジや銀行の窓口などもAI化されてきて、人間が必要ないところが徐々に増えてきています。

このままテクノロジーの発展が進むと、人間が必要なくなる社会が訪れるという考え方も、わからなくはありません。
人間もAIと同様にプログラムできるけれど、人間には感情や欲望があり、それがプログラムを狂わせるので安定性に欠けるというのもわかります。
人間に「倫理」をプログラムするより、AIに「倫理」をプログラムした方が確実ということなのです。

確かに私もかつて「『優しさ』や『良識』を表現できるのなら、人間ではなくAIでもいい」と思ったことがありました。
しかし、いろいろな経験を経て、無限の「優しさ」や「良識」(真・善・美)を持った人間も存在しているということを知った今、人間にはAIにはない可能性があると思っています。

ホモ・デウス』では、このまま進むと、人間よりデータの方が価値がある社会(データ至上主義)が到来し、ごく一部の優れた超人の層(特権階級)がトップに君臨し、その下にAIやロボットが価値ある存在として位置し、その下に家畜としてしか価値がなくなった人間(無用者階級)となるだろうと予測されています。

グレート・リセットやムーショット計画で構想されている社会構造も、たぶん、そういうイメージなのだと思います。
ですから、ベーシック・インカムなどは、とりあえず「無用者階級」をたぶらかすための方便だと思いますが最低限の生活はできるわけですし、ワクチンと称して「幸せホルモン」のセロトニンでも接種させておけば「無用者階級」は自分は幸せに生きていると感じることができるわけですから、それはそれでいいのかもしれません。私は嫌ですが

ホモ・デウス』を図書館で借りようとしたら、区内に15冊も所蔵しているのですが、私の順番は「85番目」でした。
それほど多くの人が、これから訪れるかもしれないディストピアに気づいていることに驚きました。
気づいている人が多いなら、皆さん、怖がるだけでなく行動していただけたら嬉しいですよね。

私はとりあえず人通りが少ない道では、マスクは外しています。余計な軋轢は避けたいので、バスや電車に乗る時はまだ装着していますが……。
私の住んでいる区では、自粛しないで夜遅くまで開いている飲食店も少しずつ増えています。いちおう換気のためかドアは開けているので、中でマスクなしで楽しそうに談笑している人々の姿も見えて、なんだか和みます。

そういう流れも見えてきましたので、これからワクチンを接種しようと思っている方は、その前にもう1度ワクチンについてよく調べたうえで判断するようお勧めします。


この情報を鵜呑みにはしないでください。必ず自分で情報を追って自分で確かめて自分の頭で考えてください。
これらの情報をどのように解釈し、どの道を行くか、それはあなた次第です。



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